海上の絶対君主




第三章 顔の無い医師


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 「うっわ〜!すっごい大きい!」
 珠生は甲板の木の手摺から半分身を乗り出すようにして叫んだ。
 「あれ、あれがベニートの港っ?」
 「そうだ。前に立ち寄った時よりも港が立派になっているな。かなり栄えているんだろう」
 「すごいねっ」
 「お前が喜びそうな食べ物もかなりあるはずだ。時間があったら連れて行ってやるからな、タマ」
 「うん!」
 翌日の昼を過ぎた頃、エイバル号はベニート共和国の港町、コンラッドに寄航した。
かなり大きな湾内には、エイバル号のような帆船や、観光客用の遊覧船、そして地元の漁船が所狭しと停泊していた。
珠生は、目を輝かせて船の上から町並みを見つめる。今まで訪れた様々な港町はどこも活気があったが、このコンラッドもかなり
の賑わいを見せているようだ。
 「降りていい?」
 「一応役人の検査を受けてからな。もう少しだけ待ってろ」
 「うん」
(そっか、入国検査みたいなのがあったっけ)
 今までも確かにそんなものがあったが、珠生は立ち会ってないので詳しくはどんなことがあるのかは分からない。
それでも、ラディスラスの口調には少しの不安も感じさせないので、珠生は早く新しい土地に足を踏み入れたくてワクワクと胸を躍
らせていた。



 新しい土地に行くたびに、子供のように顔を輝かせている珠生が可愛かった。
これが女ならば、高価な宝石や華やかなドレスを買い与えなければ嬉しそうな顔などしないだろう。それを与えてもらう為に精一
杯媚を売る女達の気持ちを全て否定するわけではないが、珠生のこんな無邪気な笑顔を見ると今まで自分の周りにいた女達
の底が見えるような気がして、ラディスラスは改めて珠生を手に入れて良かったと思った。
・・・・・いや。
(まだ完全に俺のものじゃないけどな)
 一番の敵は父親である瑛生。
まず、彼の存在を凌駕しなければ前に進めない。
その後も、子供っぽい珠生をその気にさせるのはかなり難しいだろう。
 気長にやろうとは思うものの、少し事情が変わってしまった。
ユージンに協力することを決めた今、何時何があるか分からない。珠生だけは絶対に守るつもりだが、もしもということを考えた時
に、はっきりとした絆が欲しいとも思っていた。
しかし、そんなことを言えば珠生が不安に思ってしまうことも分かっている。
 「・・・・・」
 ラディスラスは溜め息をついた。
しかし、その表情は直ぐに自信たっぷりなものになる。今から最悪のことなど考えて入られないのだ。
 「ラディ、役人の船が」
 「ああ」
 呼びに来たルドーに頷くと、ラディスラスは珠生の頭をクシャッと撫でた。
 「許可は直ぐに下りるはずだ、もう少しな
 「うん!」
素晴らしく良い返事に、ラディスラスは思わず笑ってしまった。



 それぞれが、陸に下りる準備を始めている。
ラディスラスとラシェルが役人の相手をしているので、指示を出しているのはアズハルやルドー、そしてジェイだ。
 「俺も、なにかするけど」
 「今はやってもらうことは無いな」
 「アズハル、俺」
 「ああ、タマは休んでいていいですよ、今は忙しくないので」
 「・・・・・」
(嘘ばっか)
皆が皆、慌しく動いている中で、自分だけがのんびりと何もしていないというのは居心地が悪くて仕方が無かった。
言われる前に何をしようかと考えた珠生は、ミシュアと父の手伝いをすることを思い立ち、そのまま船の下へと降りていこうとした。
中でも、乗組員達がこれから行う船の修理の準備や、持ち出す不要物、そして空になった飲料用の樽の持ち出しと、忙しく動
き回っていた。
(忙しそー・・・・・)
 彼らの側を通り抜けようとした珠生は、ふと視線を通路の奥に向けた。
そこにはベニートの王子であるユージンが軟禁されている部屋があるはずだ。しかし、今は皆が慌しく動いているので、もしかしたら
見張りはいないのかもしれない。
ドアには鍵が(閂というらしいが)ちゃんと掛かっているはずなので脱走することは出来ないだろうが、チラッとでも様子を見ておいた
方がいいのではないかと思った。
 『外から見るだけだから構わないよな』
 何度も何度も、ラディスラスからはユージンには近づくなと言われているが、今回はただ外から様子を見るだけだ。異常が無けれ
ば何もしないからと自分に言い聞かせながら、珠生はそのまま廊下を歩いていった。



 「・・・・・」
 ドアに開けられている小さな窓(ガラスは入っていない)から中を覗くと、ユージンはベッドに腰掛けていた。
ほとんど・・・・・と、いっても、それほどに長い期間ではなかったが、ずっと一つの場所に閉じ込められていたわりには顔色も悪くは無
く、その空気にも張り詰めたものは無い。
(相当に意思が強いのか、それとも単に何も考えていないだけか・・・・・分かんないな)
 珠生がじっと見つめていると、その視線に気付いたのかユージンが顔を上げてこちらに視線を向けてくる。
そして、珠生の姿を見つけると、ふっと笑みを浮かべてこちらに向き直った。
 「やあ、タマ」
 「・・・・・」
(馴れ馴れしい)
どうしてこの男にタマと呼ばれるんだと面白くは無いものの、そう呼んでもいいと言ってしまった手前文句を言うことも出来ず、珠生
は眉を潜めたままユージンをじっと睨み付けた。
 「港についた」
 「ああ、そうみたいだな」
 「お医者さん、教えてくれる?」
 「それは、エイバルの船長次第」
 「ラディの?」
 不思議そうに言う珠生の表情に、何も知らないということが分かったらしいユージンは、口元に苦笑を浮かべた。
 「タマは大切にされてるんだな」
 「え?」
 「だから、そんな風に人を疑わない目をしてるのか・・・・・」
 「・・・・・」
(何か、わけ分かんないこと言ってる・・・・・)
陽の下で無いからか、ユージンの瞳は深い琥珀の色だ。まるで沈殿した瞳の色に呼応するように、初対面で感じた軽薄な雰囲
気ではなく、その纏っている雰囲気さえも変わったように思えた。
目が離せなくなった珠生が、思わずドアの鍵を開けようと手を伸ばし掛けた時、
 「!」
 その手の上に大きな手が重なり、
 「ラ、ラディ?」
慌てて振り向いた珠生の目に、ラディスラスの姿が映った。



 「ユージン」
 ユージンのいる部屋の前に珠生の姿を見た時はさすがに驚いたが、何時も突拍子も無いことをしでかす珠生なので一々驚くこ
ともおかしいかと思ったラディスラスは、珠生を叱ることはせずにそのまま開いた窓越しにユージンを見つめて言った。
 「コンラッドに着いた」
 「ああ」
 「あの時の返事をする。俺達はお前に協力する。その見返りではないが、先にミュウを診てくれる医者の居場所を教えてくれ」
 「・・・・・謀反の片棒を、担ぐのか?」
 自分から提案したくせにラディスラスの答えが意外だったのか、ユージンの目が大きく見開かれた。
考えれば、命の危険にわざわざ自分から飛び込む人間などいるはずがない。それを、いくら交換条件とはいえのんだラディスラスに
対して、ユージンの声も掠れたものになっている。
そんなユージンの反応に十分満足したラディスラスは、珠生の身体を少し横にずらすと、そのまま閂を取って大きく扉を開きながら
言った。
 「さあ、出て来い。十分お前を利用させてもらうからな」