海上の絶対君主




第三章 顔の無い医師


21



                                                          
※ここでの『』の言葉は日本語です






 「どうしたんだ?」
 靴を履いているのでどうなっているのか分からないラディスラスに、珠生は一生懸命説明を始めた。
 「追い掛けたらぶつかって、手、グリッてなって、そしたら足もクネッとして、歩けないから運んでもらったっ」
自分自身をまるで荷物のように運んだと言っているのに本人は気付いていないのだろう。
それでも、かなり珠生との会話に慣れているラディスラスは、拙いその説明で何となくだが要点を掴んだ。
(こいつを追いかけていた時に何かとぶつかってこけて、手と足を捻ったというわけか)
 「すまない」
 その言葉はノエルに向かって言った。いくら珠生が普通の男よりも小柄で軽いとはいえ、起伏のある道をずっと背負って歩いてき
たのは大変だったろう。
・・・・・いや、それは建前の言い訳だ。
本当は珠生の身体に触れていること(不可抗力だとは分かっているが)自体に腹が立ってしまっているのだ。
ラディスラスはそのまま手を伸ばした。
 「タマ」
 「んっ」
 珠生は素直にラディスラスに手を伸ばしてくる。
それが嬉しくて、ラディスラスは笑いながら珠生の身体を自分の腕の中に抱え込んだ。



 一見して、ごく普通の男・・・・・それがノエルの第一印象だった。
多少身体は大柄だが、容姿も雰囲気も、とてもこれが高名な医者とは思えないほどの、どちらかといえば冴えない男だ。
 「ん?患者は君?」
 「あ、はい」
 既に日も暮れてしまった頃に宿に帰り着いたラディスラスは、珠生の治療はアズハルに任せて先ずはノエルをミシュアに引き合わ
せた。
 「・・・・・よろしくお願いします、先生」
ミシュアも、多分高名な医者とはもっと高齢で、威厳に満ちた人物を想像していただろうが、そんな驚きを少しも表情に出さない
のはさすがに教養があるのだろう。
 「じゃあ、早速見せてもらうよ」
 「は、はい」
 「ここで?」
 気軽にそう言ってミシュアの服を脱がそうとするノエルに、ラディスラスの方が慌てて止めてしまった。
 「何の用意もしていないようだが、そのままで分かるのか?」
 「まあ、黙って見ていなさい」
 「・・・・・」
そのままノエルはミシュアの胸から腹部に掛けてゆっくりと手を触れていった。



 「全く、ただ捻っただけでも、足と手は絶対に使う場所なんですから大事にしないと」
 「・・・・・はい」
 アズハルの小言に、珠生は内心何で怒られるんだと口を尖らせていた。
確かに結果的には情けない原因で怪我をしてしまったが、自分が男の後を追い掛けなければ、その相手が捜していた医者だと
は分からなかったはずだ。
(あ〜あ)
 「でも、ありがとう、タマ」
 「え?」
 ようやく腫れ止めの薬草を手足に巻き終えたアズハルは、俯いてしまっていた珠生に対して不意にそう言った。
いきなりの言葉に慌てて顔を上げた珠生は、優しく微笑んでいるアズハルの顔をそこに見る。
 「タマのおかげで、ミシュアを見てくれる医師が見付かりました」
 「・・・・・アズハル、嬉しい?」
 「嬉しいですよ?だって、ミシュアにもしものことがあったらエーキが悲しむ。エーキが悲しんだら、タマ、あなたも悲しむでしょう?あ
なたの悲しい顔を見なくても済む・・・・・私にとって、これほど嬉しいことはないですよ。もちろん、ミシュアの病が治ることも嬉しいで
すけど」
 「アズハル・・・・・」
(俺のこと、ちゃんと考えてくれてたんだ)
 ここの所、ずっとミシュアに付いていたアズハルにとって自分はその次の存在になってしまったのだと、珠生は心のどこかで寂しさを
感じていた自分にようやく気付いた。
そんな子供っぽい我が儘な気持ちを、もう大学生になる自分が抱いているとは正直恥ずかしく思わないでもないが、一人っ子の
珠生にとってアズハルは理想の優しい兄というような存在なので、彼の思いがきちんと自分にも向けられていることが嬉しかった。
 「無理をしてはいけませんよ?酷い怪我ではないので普通に動きたくはなるでしょうが、無理をするとなかなか治り難いですから
ね?」
 「うん」
素直に頷いた珠生に、アズハルは笑いながら頭を撫でてくれた。



 ノエルの診察はまだ続いていた。
傍目からはただ無闇にベタベタと身体を触ったりしているようにしか見えないが、その顔は無表情に見えるほどに真剣だったし、触
られている方のミシュアも嫌な顔など少しもしていなかった。
 それからしばらくして瑛生とラシェルも宿にやってきて、そこにいるノエルを驚いたように見つめたが、ラディスラスが彼を見つけた顛
末を話すと、ラシェルはいきなり珠生を抱きしめた。
 「感謝する!タマ!」
 「ラ、ラシェルッ」
 「・・・・・っ」
強く身体を抱きしめてくるラシェルの腕が、彼の喜びを如実に表していた。
 「珠生、ありがとう」
 「と、とーさん」
 「本当に、ありがとう」
エーキにそう言われた珠生は一瞬複雑そうな顔をしたが、直ぐにこくんと頷いて見せていた。
(まあ、父親の恋人・・・・・だからな)
正確には恋人未満というか・・・・・エーキもミシュアも自分の想いを抑えて必要以上に関係を深めようとはしていないようだが、そ
れもミシュアが健康体になれば事情が変わるかもしれない。
 もちろん、そんなことになって珠生の気持ちが暗く沈んでしまったとしたら、ラディスラスはそのチャンスを逃すつもりはなかった。
寂しさにつけ込んででも、珠生の全てを自分のものにしてしまうつもりだ。
(全て、ミシュアの容態次第だが・・・・・)



 やがて、ノエルが顔を上げた。
 「長い間悪かったね」
そう言いながらミシュアの乱れた服を直すと、黙って診察を見つめていた珠生達に向かって自分の腹の辺りを指した。
 「この辺に、異物感がある」
 「異物?」
 「多分、それが身体の中の臓器を圧迫して心臓にも負担が掛かってるんじゃないかな。まあ、開けてみないと分からないが」
 「開ける?」
 「腹を切る、バッサリ」
胸の辺りから腹までを指先でなぞったノエルに一同は息をのんだ。
(手術するってこと?この世界で?)
現代の、自分達がいた世界なら、外科手術はそんなに珍しいものではない。
むしろ、もっと精密検査をして、より良い方法を探ってくれるだろうし、たとえ手術をするのしても最小の傷で収めるようにしてくれる
はずだ。
 しかし、この世界はどうだろうか?
それほど医療技術が進んでいるように思えないし、先ず、外科手術なんか出来る状態なのだろうかと疑問だった。
 「アズハルッ、おなか、バッてできるのっ?」
 「・・・・・通常の医師なら無理ですね」
 「む、無理?」
 「・・・・・ただ、魔法の手を持っている者がいるという話は聞いたことがあります。それが彼なのかどうかは分かりませんが・・・・・」
 「と、とーさん!」
黙ってノエルの言葉を聞いていた父は、厳しい表情のまま訊ねた。
 「痛みは、あるんですか?」
 「身体に刃を入れる時は睡眠薬を使うからな。その最中の痛みはない。ただ、かなり出血はするし、終わった後は痛みもあるだ
ろうし、傷も残る。俺だってこんな綺麗な肌に傷は作りたくないが・・・・・後は生きることを望むか、死ぬのを受け入れるか、本人と
周り次第だな」
 「す、すれば、絶対、助かる?」
 「絶対にとは言えない。だから俺は、最悪の場合もあるということを理解して受け入れてくれた者しか診ないことにしている」
きっぱりと言い切ったノエルに、珠生は次の言葉が言えなかった。