海上の絶対君主
第三章 顔の無い医師
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※ここでの『』の言葉は日本語です
「な、何か、俺の方がドキドキする・・・・・」
いよいよ明日はミシュアの手術の日だ。
いや、この世界では元々手術という言葉も無く、ただ、《身体を開いて治療をする》と言うらしいのだが、身体を開くという言葉が
妙に生々しく感じて、珠生は自分自身の腹がチクチク痛むような思いだった。
「心配してくれてありがとう、タマ。でも、私は大丈夫」
そんな珠生とは正反対に、ミシュアは妙に落ち着いていた。
昨日からは固形の物は口にせず(父も付き合っているらしいが、珠生はどうしても我慢出来ず、ラディスラスを引っ張って外で食
事をしていた)スープだけだと言うのに、その肌つやは以前よりもいい。
それは、ようやく医師が見付かったとか、生き残れる希望が出てきたという思いももちろんだろうが、何か覚悟を決めた人間の潔さ
が滲み出ていた。
「それよりも、タマは遊びに行っても構わないんだよ?この国は初めて来たんだろう?」
「1人で遊ぶのやだ」
「タマ」
「おーじ治ったら、一緒に見たらいいし」
「・・・・・そうだね」
そうなったら楽しいだろうね・・・・・小さく笑ってそう言うミシュアを、側にいる父はじっと見つめていた。
2人が何を思っているのか分からないし、この時間が最後だとは思いたくなかったが、珠生なりにミシュアのことを考えれば、ここは
父と2人きりにさせた方がいいのだろうと思った。
「俺、出掛ける」
「タマキ」
「大丈夫、ラディ連れてくから」
目の前のこの2人が寄り添う姿を見るのはまだ少し辛い。
しかし、明後日・・・・・もしも、父が1人でいるようになったら・・・・・そう思うのはもっと嫌だった。
二階から下りて来た珠生の姿に、一階の食堂でラシェルとアズハルと3人で話していたラディスラスは直ぐに気がついた。
(やっぱり・・・・・元気ないな)
明日のミシュアの大掛かりな治療のことを憂いているのだろうとラディスラスは苦笑を漏らした。
珠生だけではなく、ラディスラス自身こんな大掛かりな治療を見るのは初めてだったし、ミシュアを主君と今も慕うラシェルも、同じ
医師であるアズハルも、それぞれがそれぞれの思いを抱いて明日を待っているのだろう。
「どうした?」
「・・・・・」
「腹減ったか?」
わざとそう言ってからかうと、珠生はムッと怒ったように口を尖らせた。
「俺、何時も食べてるわけじゃないぞ!」
「それは知ってるがな」
「ちょっと、とーさんとおーじを2人にしとくだけ!しゅるちゅ、明日だもん」
「シュルチュ?」
「ラディ、知らないの?お腹切ってみるの、しゅるちゅって言うんだぞ?」
「へえ」
多分、瑛生に聞けば少し違う表現が返って来そうだが(珠生の言葉を頭から信じていないわけではないのだが)、一応ラディスラ
スは納得したように頷くと、自分の隣の椅子を引いてやって珠生を座らせた。
「明日は、王宮にでも行くか?ユージンが菓子を食べさせてくれるって言ってただろう?」
「何言ってんだよ!俺、しゅるちゅ見てるっ」
「タマ」
当然立ち合うと言い張る珠生に、アズハルが優しく言い聞かせるように口を開いた。
「腹を開くという治療は、言葉で聞く以上に大変なものです。医師でないタマが・・・・・いえ、医師である私も、多分その光景を
正視出来るかどうかは分かりません」
「そ、そんなの・・・・・」
分かってると口の中で呟く珠生は先程までの勢いは無い。
「私はこんな大掛かりな治療に立ち会うのは初めてですし、きっとこの先の私にとっては糧になると思います。でも、タマ、医師で
はないあなたが見るには・・・・・少し、異様な様だと思いますよ」
「・・・・・」
ラディスラスでさえ、今のアズハルの説明には少し眉を顰めたくらいで、珠生などは顔色が真っ白になっていた。
自分の目で見ていたいというのももちろん本心だろうが、怖いと思う気持ちもまた本当なのだろう。
「タマ、お前は見ない方がいい」
黙って話を聞いていたラシェルが硬い口調で言った。
「見なくてもいいものを、わざわざ見ることは無い」
「・・・・・ラシェルは、どうする?」
「俺は立ち合う。本来はここにいたいだろうイザークの為にも、俺は全てを見届ける義務がある」
「・・・・・」
「タマ」
俯いた珠生の肩をラディスラスが抱こうとした時、珠生はいきなりすくっと立ち上がった。
「タマ?」
「さんぽ!」
そう言い捨てて宿の外へ向かった珠生の背中を、ラディスラスは当然という様に追った。
珠生は唇を噛み締めたまま、ズンズンと町の中を歩いていた。
頭の中にはラシェルとアズハルの言葉がグルグルと回っている。
(俺が役立たずなんてことは分かってる!)
文明から考えれば、珠生はこの時代より遥かに発達した日本で暮らしていた。知識も、経験も、この時代の人々が全く想像もし
ていないようなことを知っていると思っている。
しかし、それは全て、何かに頼らなければならないものばかりだった。
簡単に火を起こすライターは無いし、気軽に移動出来る電車やバスも無い。
手紙など書かなくてもどんなに遠くの友人にでも簡単に送れていたメールは、携帯電話やパソコンが無ければ全く出来ない。
「タマ」
「うるさい!」
反射的に怒鳴り返した珠生は、そう言ってしまった自分自身に腹が立った。
「おい」
「・・・・・」
「タ〜マ」
「・・・・・」
「あ、おい、見ろ。あの店、鳥の丸焼きをしてるぞ」
「・・・・・っ」
そう何時も食べ物に釣られてなるものかと思ったものの、珠生は反射的に振り向いてしまった。
「うわ・・・・・」
そこには、ラディスラスが言ったように・・・・・というか、珠生の頭の中のイメージを覆すような光景があった。
「で、でかい」
鳥と聞いて鶏を思い浮かべてしまった珠生だったが、実際に焼かれているのはまるでダチョウほどもありそうなほどの大きな鳥の塊
だった。
既に焼き始めてかなり経っているのか、生々しい形や色ではなく、香ばしい焦げ目がついた、イメージ的にはクリスマスの七面鳥
料理の巨大版というか・・・・・。
「・・・・・おいしそ・・・・・」
スパイシーな匂いに思わずそう呟いてしまった珠生の腕を掴んだラディスラスは、そのまま珠生をその店の前まで連れてきてしまっ
た。
「ご、ごまかされないぞ!」
食べ物で懐柔されてなるものかと思わず珠生は叫んだが、ラディスラスは勝手に店主に注文してしまい、店主は鳥(らしい)肉を
小さな油紙で作った袋に切り分けて入れ、その上からどばっと野菜を放り込み、更にその上に赤い粉と透明なタレをたっぷりと掛
けて、木串を刺して差し出してきた。
「ほら」
「いらない」
「この赤い粉はピリッと辛いが、タレは甘辛いんだ。この鳥はエスラといって身も柔らかくて美味いんだぞ?お前、まだ食べたこと無
いだろう?」
「・・・・・」
「俺が食べてもいいのか?」
「・・・・・」
「腹が減ったら何も出来ない。お前が明日のシュルチュに立ち合う気なら俺も付き合ってやるから、とにかくこれを腹一杯食え。
イライラするのは腹が減っている証拠だ」
「・・・・・俺は、ラディみたいにズーズーしくないんだから・・・・・」
(こんなの、食べている時じゃないんだから・・・・・)
そうは思うものの、たった今取り分けられた肉はまだ湯気が出ているほど熱々のようだし、タレと香辛料もとてもいい匂いだ。
「・・・・・」
珠生はチラッとラディスラスを見上げた後、仕方がないなというように渋々という恰好でその紙袋を受け取った。
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