海上の絶対君主




第三章 顔の無い医師


29



                                                          
※ここでの『』の言葉は日本語です






 「キクサム諸島の出身か」
 「ああ。だから、こんな賑やかな町に来るとつい羽目を外したくなってしまうんだよな、ユージン」
 「ラディは元々遊び人だろ」
 ポンポンと言い合う2人は、傍から見れば親しい友人に見えた。
もちろん、意識してそう見せているのだろうが、ユージンの兄ローランも、初対面での怪訝そうな眼差しは既に消してしまっていた。
それでも、その全身から警戒心が全て消え去っていないのは、自分達の存在が少し不自然過ぎるということもあるのかもしれな
い。
(全く・・・・・覚えてろよ、タマ)
突然の窮地にいきなり自分達を追い込んだ珠生は、今は干した果物の実を入れた珍しいロクトを歩きながら口にしている。
多分、今の表面上は穏やかな、しかし、それぞれの内心はかなり緊迫しているこの状況を感じていないのは珠生だけだろう。
しかし、返ってそれの方がいいのかもしれない。
(ま、せっかくだし、少しでも皇太子のことを知るようにするか)
 危機を危機だからと逃げていては何も始まらない。
ラディスラスはこういう時にこそ柔軟に動かなければならないと思った。



(あんまり似てない兄弟だよなあ)
 珠生はモゴモゴと口を動かしながらチラチラとローランの横顔を見ていた。
珠生には兄弟はいないが、父親とはよく似ていると言われる。顔のパーツそのものもそうだが、持っている雰囲気が共通のものが
あるのだろう。
ユージンとローランも、王子様だという、珠生からすればでんとした《どーだオーラ》は感じるが、顔を見たら少しも似ているところは
無いように思えた。
 柔らかな、綺麗だといえるユージンの容姿と、男らしい、しっかりとした容貌のローラン。
どちらも茶色い髪で、珠生が初めに感じた綺麗な蜂蜜色の瞳をしているが、ローランの方はもう少し濃い・・・・・。
 『あ、メープルシロップの色』
 「・・・・・なんだ、その言葉は?」
 思わず日本語で呟いた珠生の言葉を、ローランは聞き逃すことは無かったようだ。
今珠生が思い付いた色・・・・・蜂蜜よりも濃いメープルシロップの色の瞳を眇めて見つめてくるローランに、珠生はどうしようとラディ
スラスに視線を向けた。
(俺がこの世界の人間じゃないって事言ってもいいのか・・・・・?)
 そんな珠生の助けを求める視線に、ラディスラスはその頭をパシッと叩いて笑ってみせた。
 「こいつの田舎はとんでもない島国でね。独特の言葉が今でも残っているんですよ」
 「・・・・・キクサム諸島の?」
 「そう、キクサム諸島の」
 「キクサム?」
思わず首を傾げそうになった珠生は、ラディスラスの《こらっ》と言うような視線に慌ててうんうんと頷く。
 「・・・・・私もあの諸島には行ったことがない。全て書物や伝聞だけの知識だったが・・・・・なかなか奥深いものがあるようだな。一
度招待をしてくれないか」
 「こんな大国の王子様を、あの島国に?」
 「大国の王子・・・・・そうだったな、私はこの国の王子だった」
 「皇太子だ、ラディ」
 「ああ、そうだった、次期王様だったな」
 「・・・・・」
(この人が王様になるのか)
 いい加減で軽そうなユージンよりもはるかに、この真面目そうな兄が王位を継ぐのが当たり前だろうなとうんうんと頷いていた珠生
だったが・・・・・。
 「あら、ローラン!」
 「リュン」
反対側から歩いてきた艶かしい女が弾んだようにその名前を呼ぶと、いきなり駆け寄ってきてローランと濃厚なキスを交わした。
 「!!」
(な、なんだっ?)



 町中でいきなり始まった濃厚な抱擁の場面に、周りからは冷やかしの声や呆れた歓声が掛かっている。
それでもローランも女も全く気にする風もなく、自分達が満足するまで続けられた抱擁は、かなりの長い時間だったように思えた。
珠生などは目を丸くして固まっていて、ユージンは・・・・・苦い笑みを浮かべている。
 「兄上、往来の中ですよ」
 「可愛い女が声を掛けてきたんだ、応えなくては悪いだろう」
 「やだ、悪いなんて変な言い方ね」
 口ではそう言うものの、女も特に気にした風もなく、こちらに視線を向けてあらと目を瞬かせた。
次の瞬間、その目に媚の色が生まれるのをラディスラスは感じたが、特に感情を揺さぶられることも無い。自分が女にどう見られる
のかをよく知っているラディスラスには慣れたものだからだ。
そして、珠生が傍にいる今は当然・・・・・無視するに限る。
 「恋人?王子」
 ラディスラスが冗談めかしてそう言うと、ローランは唇の端だけで笑った。
 「私の噂はユージンから聞いているだろう」
 「・・・・・噂?」
 「女好きで、放蕩の限りを尽くしている皇太子・・・・・いずれその地位を剥奪されてもおかしくはない、と」
 「ユージンは兄貴の悪口なんか言わないぜ」
 「ラディ」
 「案外、そう思い込んでいるのはあんただけかもな」
 「・・・・・ユージン、ここで別れよう。客人、このベニートをどうか満喫されよ。まだしばらく滞在する気なら、面白いものが見れるや
もしれぬぞ」
ラディスラスの挑発にも乗らなかったローランは、女の細い腰を抱いてそのまま人混みの中へと紛れて行った。



(なんだよ、何時までラディを見てるんだ・・・・・ば〜か)
 ローランに腰を抱かれて立ち去る女が、何時までも視線をラディスラスに残しているのを見て珠生は内心舌を出した。
ラディスラスがきっぱりとシャットアウトしたからといって、あんな光景を見るのは面白くは無い。
ムカムカすると余計口の中が寂しくなって、珠生はまたロクトを口にした。そうでなくても、頭の中には今手術をしているはずのミシュ
アのことが忘れることも出来ずに残っているのだ。
不安と、不満と、情緒不安定になると余計に甘い物を口にしたくなるのは、少しでも自分の気持ちを落ち着かせたいと思う無意
識の行動からかもしれなかった。
 「あれは、頭が固いな」
そんな珠生の心の葛藤を知ってか知らずか、ラディスラスが呆れたように呟いた。



 「自分だけが犠牲になればいいと思い込んでいるようだ」
 「ラディ」
 「5年も遊びまわっているって言っていたが、あれは慣れているって言わないぞ?女の扱いも駄目だし、言葉の切り返しも全く下
手」
 「ラディ」
 「ああいう時は、口に口付けしたってつまらんだろ。耳元や首筋に触れて、女をもっと焦れさせないと・・・・・」
 「ラディ、いいのか?」
 「ん?」
 「そこにタマがいることを忘れていないか?」
 「まさか。忘れているわけ無いだろう?あんな女達と同じ態度を珠生に出来るはずが無いって・・・・・なあ」
ムッとした表情で自分を見上げてくる珠生を、ラディスラスは目を細めて見下ろした。
(怒れ怒れ。そうしたら、少しは不安も忘れるだろう)
素直な珠生はある意味とても分かりやすい。一つのことに感情が向けば、他の部分への意識がかなり薄くなるようだった。
先程から途絶えることなく甘い物を食べているのは、かなりの確率で甘い物が好きだからという理由だろうが、その中にもミシュアの
治療のことがあるはずだ。
 正直、ラディスラスも、結果がどうなるかは分からない。
ラウルの医師としての腕をどこまで信じていいのか分からないし、病気の状態やミシュアの体力を考えると、最悪のことも考えてお
かなければならないだろう。
自分は多分・・・・・悲しむだろうが、それを引きずることはないと思う。人の生死と言うものに近い生活をしてきたからだ。
 しかし、珠生は・・・・・平和な世界で暮らしてきたらしい珠生にとって、ミシュアの死はかなりの傷になってしまうかもしれない。
それを考えれば、今は少しでも気を散らしていて欲しかった。それが、自分に関する事ならもっと好都合だ。
 「あんな女より、タマの方がよっぽど美人だしな〜」
 「・・・・・ラディは、ホントにでりゅかしーがないよな」
意味の分からない、多分・・・・・悪口。
ミシュアのことと、ローランのことで頭が痛いラディスラスにとっては、それさえも耳に優しかった。
 「タマ、デリューシって何だ?」
 「でりゅかしー!」
全く噛み合わない会話を続けている2人を、ユージンは少し羨ましそうに見つめていた。