海上の絶対君主
第三章 顔の無い医師
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※ここでの『』の言葉は日本語です
ラディスラスとしては、このままローランの後を付けて行きたい気持ちだった。
彼が接触している男や女にはどんな人物がいるのか、その中に本気で王家乗っ取りを企んでいる者はいるのかどうか、自分達が
実行に移す前に、自分の目で現状を確かめておきたかった。
しかし、足を踏み出そうとしたラディスラスは、ツンと後ろに引っ張られる感覚を感じて振り向くと、珠生が自分の上着を掴んだまま
動こうとしていなかった。
「タマ?他に何か食べるか?」
食べ物を与えておけば・・・・・と、いうわけでもないのだが、少しでも気分転換出来ればと思って言ったラディスラスに、珠生は神
妙な顔をして首を横に振った。
「・・・・・」
珠生の唇の上に少しだけ付いていたサビアの欠片を指先で拭ってやりながら、ラディスラスは急に元気が無くなってしまった珠生の
顔を覗き込む。
「どうした?」
「帰ろ」
「・・・・・どこに?」
「おーじのとこに決まってるよ!もう、終わるころだろ?」
「・・・・・」
(あ〜あ、戻ったか)
初めて見る港町の様子や美味しい食べ物で珠生の気を逸らしたつもりだったが、ローランが立ち去って高揚した気持ちが途切
れた途端、ミシュアの方へと意識が向かってしまったようだ。
(今は・・・・・まだ終わっていないだろうな)
治療を行う屋敷から出てまだそれほど時間は経っていないはずだ。
「今、治療中か?」
2人の様子に、ユージンが声を挟んできた。
「ああ、多分、真っ最中」
「・・・・・戻るか、タマ」
「おい」
軽い口調で珠生にそう言うユージンをラディスラスは思わず睨んだが、ユージンにその眼力は効かない様だった。
「ラディ、逃げていても始まらない。本人がそうしたいのならともかく、自分の目で見届けたいと思っているのならそれを手助けして
やるのがお前の役目じゃないのか?」
・・・・・痛いところを突かれたと思った。
ラディスラスは出来るだけ珠生に嫌な思いをさせないよう、怖いものを見そうな時、痛みを感じそうな時、その前に自分の手で遠ざ
けて胸の中に抱き込んでしまっていた。
今までの色恋がほとんど気軽なものだったせいか、その反動のように自分がこれほどに惚れ込んだ相手に対して過保護だとは気
付かなかったくらいだ。
(確かに・・・・・こんなことじゃ、何時かタマの息が詰まる、か)
珠生に対しては出来るだけ嘘を付かないように、全てを話すように・・・・・そう決めていたはずなのに、その手前で珠生の思いを
締め出していたら、いずれ珠生はもっと自分を自由にしてくれる相手へと目を向けてしまうかもしれない。
それはミシュアの治療に限ったことではなく、ユージンとの約束のことも同様だ。
「・・・・・」
珠生はじっとラディスラスを見上げている。
つい先程まで楽しそうに甘い菓子を頬張っていた口元が、ラディスラスの返答を待って引き結ばれている。
それを見て、ラディスラスはクシャッと珠生の髪をかき撫でた。
「・・・・・戻ろう。そして、一緒に祈るか」
賑やかな町中は見るだけでも楽しかったし、物珍しい食べ物に視線もいってしまった。
ユージンの兄が連れて行ってくれたサビアの店も美味しくて、食べている間は本当に幸せな気分だったが・・・・・口の中から甘い味
が消えてしまった時、ふと・・・・・珠生は思ってしまった。
生きているから、自分はこんなに美味しい物も食べられるし、色んな楽しいものも見ることが出来るのだなと。
病が進んでから、きっと自由に動き回ることも出来ず、美味しい物も食べることが出来なかったであろうミシュアに、この頬が落ち
てしまいそうなほどに美味しいサビアを食べさせてやりたいと思った。
自分達の間に父を座らせ、思いっきり自分達親子が仲良しなのだと見せ付け、ミシュアに妬きもちをやかせる・・・・・そんな平和
な光景が頭の中を過ぎった時、珠生は早く戻らないといけないと思ってしまったのだ。
どんな結果が出るにせよ、自分はその場にいなければならない。自分の目で確かめなければ、この先ずっと後悔することになるか
もしれない。
「戻ろう。そして、一緒に祈るか」
だから、ラディスラスがそう言ってくれた時、間髪入れずに頷いた。
嬉しい結果だったらもちろん嬉しいが、もしも悲しい結果になったとしても、自分には傍にいてくれる存在がいるのだ。
「俺も付いていく」
そう言ったユージンと共に3人で治療の行われている屋敷に戻った時、ドアを開けた瞬間にラディスラスとユージンは足を止めて
お互いに視線を交わした。
空気の中に感じる血の匂い。珠生には感じ取れないだろうが、ラディスラスにとっては慣れた匂いだったし、ユージンも今まで戦っ
てきた経験はあるのだろう。
「ラディ・・・・・」
「まだ終わっていないようだな」
物音は全く聞こえず、そのまま中に進んだ3人は治療が行われている部屋の前に立った。
そこまで来ると僅かながら何か物音と話し声が聞こえてくる。それでも内容はまだ分からない。
「部屋で待つか?」
「・・・・・ここにいる」
壁に背を預けるようにして立つ珠生に、ラディスラスとユージンも従った。
(やだな・・・・・長くなればなるほど嫌なことばっか想像する・・・・・)
実際に自分の目で見ていなくて想像だからかもしれないが、あまり良い想像は珠生の頭の中に浮かばない。
だが、実際に治療をその目で見ている父やラシェル、そしてアズハル達はいったいどういった思いなのだろうか?
(待つだけなんて・・・・・嫌だな)
珠生は俯いた。
それからどれくらい経ったか・・・・・珠生は今はその場にしゃがみ込み、自分の膝を抱きかかえた恰好でいる。
後どの位時間が掛かるのか分からないが、いったん珠生を休ませる方がいいかも知れないと思ったラディスラスが珠生に声を掛け
ようと思った時、いきなり目の前のドアが開いた。
「!」
ムアッとした血の匂いが、強烈に鼻についた。
「ああ、いたのか」
髪を全て帽子に入れ、顔の半分以上を絹のような布で覆った恰好のノエルが、腕も、胸元も、白い服を鮮血に汚れた姿で姿を
現わした。想像はしていたものの、ラディスラスにとってもかなり衝撃的な姿だった。
「ふぅ・・・・・っ」
「!」
ラディスラスは足元から聞こえてきた苦しげな声に慌てて視線を向けると、珠生が口も鼻も両手で覆い、目を大きく見開いた姿
でノエルを見ていた。
吐くかもしれない・・・・・とっさにラディスラスは珠生を抱きかかえようとしたが、珠生はそのラディスラスの手を拒み、まるで這うように
ノエルの足元に近付くと、恐々と口から手を取って小さな声で言った。
「お、おーじ、だいじょ・・・・・ぶ?ちゃん、と、生きて、る?」
「生きている」
口を覆っている為にくぐもった声ではあったが、ノエルははっきりとそう言った。
目に見えて珠生の表情はホッとしたものになり、ラディスラスも緊張が途切れたかのように息をつく。
しかし。
「病巣も一応は切り出したし、あの細い身体でよく頑張った方だとも思う。だが、今からが勝負だ。かなりの出血もあったし、万
全を期したとはいえ、感染症の心配が全く無いとも限らない。取り出した中の部分と皮膚の縫合具合もこれからの経過次第だ
し、何時でも覚悟はしておいてくれ」
「か、かくご?」
「このまま目を覚まさない可能性もあるということだ。残念ながら、俺の力も万能ではないんだよ」
「・・・・・っ」
「・・・・・」
(死ぬ可能性も残っている・・・・・そういうことか)
次に続くノエルの言葉は、終わったからといって安心してばかりはいられないということを改めて2人に突きつけた形になった。
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