海上の絶対君主




第三章 顔の無い医師


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 ノエルに続いて、2人の手伝いの医師、そしてラシェルとアズハルが続いて出てきた。
ラシェルの白い服は汚れてはいないものの、その顔色は着ている白い服よりも真っ白になっている。
アズハルはやはり手伝いをしたのか、胸元と手の辺りは血で赤く汚れていた。
 「ラディ・・・・・タマ」
 2人はそこにラディスラスと珠生がいるとは思わなかったのか、少し驚いたように目を見張った。
 「・・・・・ご苦労だったな」
それ以上の言葉は見付からなかった。今まで自分が行ったことの無いような治療を手伝ったアズハルはもちろん、ただ見ているだ
けだっただろうラシェルの心労もかなりのものだったと思えるからだ。
 「どうだ?」
 「噂通り、ノエル先生は神業のような腕の持ち主だと思いました。あんな大変な治療をほとんど1人でこなしているようなもので
すからね。病巣は取り除き、縫合も済ませましたが・・・・・」
そこまで言ったアズハルは、視線を部屋の中に向ける。
 「後は、王子の体力と気力次第でしょう。こんな大変な治療を最後まで立派に頑張られたんですから、私は大丈夫だと信じた
いです」
 「・・・・・そうか」
(大丈夫だとは、やっぱり言い切れないんだな)
 実際に治療を行ったノエルと、それを傍で見、手伝ったアズハルも同じ答えだった。
それだけ今回のミシュアの容態は悪かったのだろうと、このギリギリのところでノエルを見付けられたのは奇跡だったのかもしれない。
 「ラシェル」
ラディスラスは、黙り込んだままのラシェルの肩に手をやった。
普段は冷静沈着で、暴走するラディスラスを抑える役であるラシェルは、唇を噛み締めたまま・・・・・目じりに涙が浮かんでいるよ
うに見えた。
ラシェルの涙など初めて見るラディスラスは、自分も同じ痛みを感じたかのように眉を潜めた。
 「・・・・・感謝します、ラディ」
 「ラシェル」
 「王子を見付けることが出来なかったら、俺は彼の死も知らないままだったかもしれない。生きる可能性があるこの治療も受けら
れて、どちらにせよ・・・・・王子は幸運だったでしょう」



 傍で交わされる会話を半分に聞きながら、珠生はなかなか出てこない父のことが心配で仕方がなかった。
まさか倒れているのではないか・・・・・そう考えるとじっとしていられなくて、そのまま部屋の中に入っていこうとした。
 「タマ」
 「・・・・・!」
 しかし、その腕はラシェルによって掴まれてしまい、珠生は離してくれとブンブンと腕を振った。
 「ラシェル!」
 「中には入らない方がいい」
 「どうして!」
 「飛び散った血で汚れたままだ。今から王子の身体を清めて別の部屋に移すらしい。そこも感染症を防ぐ為に、しばらくは出入
り禁止になるそうだ」
 「で、でも、とーさんが・・・・・っ」
 「エーキは、今王子の傍にいる。タマ、しばらく2人だけにしてやってくれないか」
どういう意味なのだと、問い返すことはとても出来なかった。
多分ラシェルは、もうミシュアが目を覚まさないと思っているのかもしれない。だからこそ、父とミシュアを2人きりに・・・・・そう思うと、
珠生は足がすくんで動くことが出来なかった。



 治療の後始末の為に部屋の前から移動した珠生は、屋敷の庭の草の上に座り込んでいた。
既に日は暮れかけ、風も冷たくなってきたものの、屋敷の中に入るのは怖くて仕方がない。
 「・・・・・」
 『珠生』
 不意に、髪を優しく撫でられた。
そして、そのまま隣に腰を下ろす気配を感じ、珠生は突然ボロボロと涙が流れ始めた。
 『何泣いてるんだ?手術は成功したんだよ』
 『だっ、だって、だって、王子、ちゃんと目を開けるっ?』
 『・・・・・開けて欲しいと、思っているよ』
隣に座った父からは、石鹸の匂いがした。ここへ来る前に風呂に入って着替えてきたのだろう、手術に立ち会った痕跡は欠片も見
当たらないが、珠生は父の指先に赤い血が見えるような気がした。
(多分・・・・・ずっと、王子の手を握っていたはずだ・・・・・)
人の身体が切り開かれていくその光景から目を離さず、多分父はミシュアが一番望んでいたであろう行動をとっていたに違いが無
いと思った。
 『この世界の人は凄いね。ろくな薬も道具も無いというのに、自分達で考えて、腕を磨いて、こんな立派な外科手術をすること
が出来るなんてな。ノエル医師、ミュウの肌が綺麗だから勿体無いって、縫合にも気を遣ってくれたんだ。あれほどに手を尽くして
もらって、それでも駄目なら・・・・・諦めないといけないと、思った』
 『・・・・・っ』
 絶対に大丈夫だと、言葉だけでも珠生は言うことが出来なかった。
あの手術の場面に立ち会った父に、そんな慰めだけの言葉など言えない。
 『・・・・・父さん』
 『ん?』
 『本当は・・・・・王子のこと、好きなんだよね?』
 以前に聞いた時は、恋愛感情は無いと言ってくれた父。だが、こんな時だからこそ、珠生は本当のことが知りたかった。
その珠生の思いが伝わったのか、父は・・・・・少しだけ苦笑を零しながらも、はっきりと答えてくれた。
 『好きだな』
 『・・・・・母さんよりも?』
 『誰かと比べたことは無いなあ。愛情の意味はそれぞれたくさんあると思うし、全部を含めてだといえば、一番愛しているのは珠
生だしね』
絶対に嘘はつかない父の、でも、それは珠生の為を思った優しい嘘のように聞こえる。
ゴシゴシと手の甲で涙を拭う珠生の肩を父は優しく抱き寄せた。
 『私なんかと出会わなかったら、ミュウはこんな人生を送らなかった。病気のことは仕方がなかったかもしれないが、それでも回り
に大切にされて、静かに人生を過ごすことも出来たんじゃないかって・・・・・前にね、そう言ったことがあるんだ』
 『・・・・・』
 『そうしたら、ミュウはこう言った』

 「あなたに出会わなかったら、確かに平穏で幸せな人生を過ごせたかもしれません。でも、多分、こんなにも生きていることを感
謝することも無かったと思います。エーキ、あなたは私の中で、一番の、そして唯一の、生きた証なのです」

抱かれた肩に食い込む指の力が痛かった。
自分の直ぐ頭上で、息を殺しながら泣く気配が辛かった。
生きることを願い、信じていても、付きまとってしまう死への恐怖。大きな声で、人前で泣くことが出来ない父の代わりのように、珠
生は流れる涙を無理には止めなかった。



 「・・・・・」
 寄り添うようにして泣き続ける2人の後ろ姿に掛ける言葉はなく、ラディスラスは溜め息を付くしかなかった。
(本当に王子が死んだらどうなるんだろうな)
エーキも、ラシェルも、珠生も・・・・・そして、自分も。戦い以外で失ってしまう儚い命を前にどうするのか、ラディスラスは想像さえ
出来ない。
 「あっちは、大丈夫だな」
 「・・・・・っ」
 いきなり後ろから聞こえてきた声に、ラディスラスは強張っていた表情を一瞬で和らげて振り向いた。
そこには今回の治療の為に無精髭をそり、髪もこざっぱりと切ったノエルが、目を細めながら珠生達親子を見つめていた。
 「大丈夫って?」
 「心の拠り所があった方がいいじゃないか」
 「・・・・・それは、ミュウが助からないということか?」
 「言っただろう?俺も万能じゃない。出来うる限りのことはしたが、その先に生と死とどちらが待つのか、ここからはもう俺には何も
出来ないんだよ」
 「・・・・・」
 「あの身体で彼はよく頑張った。後はもう、祈るしかない」
 「医者がそんなことを言うか?」
 「だからこそ、言いたくなるんだ」
 そう言うと、ノエルは屋敷の中に戻っていった。
 「・・・・・言い逃げか」
勝負は今から3日以内。目覚めるか、目覚めないか。
そして、無事に目覚めたとしても、直ぐに襲ってくるであろう激痛に耐えられるか、負けてしまうか。
ノエルの言うように後はミシュア次第だと、ラディスラスは再び珠生とエーキの後ろ姿に視線を向けた。