海上の絶対君主




第三章 顔の無い医師


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 「お、美味しそうなスープだな。エーキはさすが料理が上手だ」
 木の食台に並べられた朝食の皿を見て歓声を上げるノエルに、今日も皿を並べるという父の手伝い中の珠生は呆れたように
言った。
 「毎回同じこと言ってる。いーかげん違うことも言ったら?」
全くという風に言い切った珠生に、ノエルは首を竦めて苦笑を零した。
自分がイライラしているつもりは無かったが、まだ一向に目覚める気配の無いミシュアのことが心配で、つい小さなことにも当たって
しまう自分がいる。
珠生はそれを認めたくなくて、少々乱暴な手付きでノエルの前に焼きたてのパンをドンッと置いた。

 手術から今日が三日目の朝になる。
ノエルの言葉では、そろそろ目覚めてもおかしくは無いとのことだった。いや、今日明日中に目を覚まさなければ、このまま眠ったま
ま目覚めない可能性も出てくるとの言葉だった。
その意味は、死だ。
痛みを感じないで眠るように死ねるという感じで、もしかして患者の方側からすれば最も安らかな死の迎え方かもしれなかった。
 ノエルはそんな状況を珠生達に誤魔化さずに伝えた。
それによって自分の医師としての腕の評判が落ちたとしても、事実を有りのままに伝えることが大切だということらしい。
そう思うと、ノエルは本当に医師としては誠実な男なのだなと、珠生も、そして他の人間もそう感じていた。

 しかし、もちろん珠生達からすればミシュアが目覚めることが一番の望むことで、毎日毎日、その目覚めを待って時間を過ごし
ていた。
微かな胸の上下で確かに生きていることを確認しながらも、早く目覚めてくれとその顔をじっと見つめる。
昨日、ようやく部屋に入ることが許された珠生も、そっとミシュアの指先に触れながら、お願いだから目を覚ましてくれと祈った。
自分も、ラシェルも、他の皆も、そしてなにより父が待っているからと、思いが伝わるように祈っていた。



 ラディスラスは、エイバル号の乗組員達には、医師が見つかった事とミシュアが無事治療を受けたことは伝えた。
それでもまだ目覚めるまでは油断がならず、目覚めたとしてもしばらくは生死の境を行き来するだろうからと、もうしばらくのベニート
共和国への滞在も同時に告げた。
 乗組員達も僅かな期間とはいえ一緒に旅をしたミシュアの容態を心配し、それと同時に瑛生と珠生のことも気遣って、ラディス
ラスの言葉を皆了承してくれた。
自分の部下達の素晴らしさを改めて実感したラディスラスは、その期間を船の補修と装備の充実、そして乗組員達の静養にあ
てると決めたのだ。
 「本当にエーキの腕は上がったな。もうジェイにも負けないんじゃないか?」
 ノエルと同じ様に感嘆の声を上げるラディスラスに、珠生はノエルに対するそれよりは幾分調子を落として言ってきた。
 「とーさんが料理上手いの当たり前。でも、ジェイの料理もおいしーよ」
 「はは、まだまだ彼には敵わないよ」
先程から褒められている当人は、それぞれの皿に料理を取り分けながら穏やかに笑っている。
皆の三度の食事を作る瑛生には、ジェイを呼ぼうかとも提案したのだが、何かしていた方が気が紛れるからとやんわりと断わられ
た。
 料理を作っている以外は、ずっとミシュアの枕元に座っている瑛生。
手を握り、じっと眠っているミシュアの顔を見つめている彼の気持ちがどんなものか、ラディスラスにはとても想像がつかなかった。
いや、あの治療をして眠っているのが珠生で、側で見つめているのが自分・・・・・そう置き換えたこともあったものの、脳が即座にそ
れを否定してしまった。
仮に例えの話だったとしても、珠生が死ぬというようなことを想像したくは無かったからだ。
(いや、死ぬなんて思っちゃいけないんだがな)
 治療から今日で三日目。
一向に目覚める気配の無いミシュアに、悪い方の想像がどんどん膨れていってしまっている。
諦めそうになるラディスラスの思いを引き止めるのは、絶対に大丈夫だからと強がる珠生の言葉と、穏やかな瑛生の態度だ。
諦めからではないだろう瑛生のその態度に、ラディスラスも僅かな希望を託す。
(絶対・・・・・目覚めてくれよ、ミュウ)



 朝食が終わってしばらく経った頃、ユージンがたくさんの差し入れを持ってやってきた。
正直に言って、部屋で鬱々とただミシュアの目覚めを待っている時間は辛くて、珠生はユージンが持ってきてくれた王家専属菓子
料理人の作ったサビアに歓声を上げた。
 「すっごいおいしそー!」
 「美味しいぞ。今の時期一番美味しい物を使って作っているからな。肉を挟んだ物も、果物を使った物も、どちらも絶品だぞ」
 「ぜっぴん・・・・・」
 先程父の美味しい朝食を食べたばかりだというのに、珠生の腹の虫は今にも鳴り出しそうだ。
そんな気配をちゃんと読み取ってくれたらしいラディスラスが、笑いながら珠生の頭を撫でてくれた。
 「今から食うか?」
 「・・・・・食べていい?」
 「お前が食べられるなら遠慮なんかしなくていいんだぞ?」
 「・・・・・じゃあ、ちょっとだけ」
 ホールの形のサビアを切り分けた珠生は、ふとこれを父にも持って行ってやろうと思った。
朝食の後片付けを終えた父は、今はまたミシュアの部屋にいるはずだ。
 「ノエル、これおーじの部屋に持ってっていい?」
 「ああ、いいぞ」
 「じゃあ、ラディ、俺とーさんとこ行って来る」
 「慌ててこけるんじゃないぞ」
 「バカ!子供じゃないんだからな!」



 珠生が部屋を出て行くと、部屋の中の空気は一変して重くなった。
先程まで何時もの軽い調子で話していたユージンは、表情を引き締めてノエルに言った。
 「ミシュアの容態は?」
 「・・・・・はっきり言えば、今日目覚めなければほとんど諦めた方がいい」
 「・・・・・っ」
目に見えて動揺したラシェルが思わず椅子から立ち上がったが、何を言っていいのかも分からない様子で再びガックリと椅子に腰
を下ろした。
ラディスラスもアズハルも、そしてユージンも、ノエルがどれ程の覚悟の上でその言葉を言ったのか何となくだが感じ取れていた。
実際に治療を施したノエル自身、その言葉を口にするのはかなり辛いことなのだろう。
(タマ・・・・・泣くだろうな)
 多分、どんな慰めの言葉も耳には届かないかもしれないが、それでもきちんと向き合わせなければならないだろうということも覚
悟していた。
現実から目を逸らしたら、一歩も前に進むことは出来なくなる。
 「・・・・・そうか」
重々しくユージンが呟き、部屋の中を沈黙が支配する。
ラディスラスは自然と、珠生が消えたドアの方へと視線を向けていた。



 ドアを小さくノックしても、中から父の声はしなかった。
(あれ?いないのか?)
そう思いながらそっとドアを開けた珠生は、ミシュアの枕元に置かれた椅子に座っている父の姿を見つけた。
既に景色の一つとなっているようなその光景に、少し変化を見つけた。それは、父が眠っていたからだ。
 『父さん・・・・・』
(疲れてるんだろうな・・・・・)
 何時ミシュアが目覚めるのか分からないので、父は夜もほとんど眠ってはいないはずだ。それも今日で三日目で、そろそろ身体
も限界に近付いているはずだった。
それを気力で持たせている理由は何なのか・・・・・珠生はじっと、ミシュアの手を握っている父の手を見つめる。
眠っていても離れないそれに確かな愛情が見えて胸が痛んだ。でもそれは、多分嫉妬とは違う感情だと思う。
(王子・・・・・早く、目を覚ましてよ)
 とにかく目を覚まさない限りは次の段階は無いのだ。
今までも痛みで相当辛かったはずだが、また目覚めてしまったら・・・・・多分別の痛みがミシュアを襲うだろう。
それでも、彼なら乗り越えてくれと信じている。だからこそ・・・・・。
 「早く、起きろ」
 小さく呟いた珠生が、ミシュアの顔をもう一度覗き込もうとした時、
 「・・・・・え?」
伏せられた長いまつげが、微かに震えたような気がして、珠生は思わず持っていた皿を床に落としてしまった。

 ガシャッ

 木の器が床に落ちる音に、うたた寝をしていた父がはっと目覚めて、目の前にいる珠生を驚いたように見上げた。
 『珠生?どうしたんだ?』
 『と、父さん、王子、王子が・・・・・っ』
 『!』
珠生の声に父はパッとミシュアに視線を向ける。
珠生と、父と・・・・・2人の視線が見守る中、まつげは小さく震え続け、やがて、
 『!!』
ゆっくりと開いた瞼は何度か瞬きを繰り返すと、濡れた綺麗な碧がゆっくりと現れ・・・・・自分の顔を覗き込んでいる2人の顔が
判ったのか、まるで確かめるように僅かに細められた。