海上の絶対君主




第三章 顔の無い医師


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※ここでの『』の言葉は日本語です






 「!!」
 何かが落ちる音が聞こえ、ラディスラスはハッと顔を上げた。
 「今・・・・・」
 「何か聞こえた」
その音が聞こえたのはラディスラスだけではなかったようで、その場にいた者達は直ぐにその音のした場所へと向かう為に部屋を飛
び出した。
 「・・・・・っ」
(タマ・・・・・っ)
あんな音を出す人物は、多分珠生しかいないはずだ。
いったい何があったのか、ラディスラスは胸騒ぎを感じながら先頭に立って走っていた。

 「タマ!」
 ミシュアの眠っている部屋へと飛び込んだラディスラスの目に最初に飛び込んできたのは、寝台の側に呆然と立っている珠生の
姿だった。
(タマ・・・・・?)
そして、次には、その寝台の直ぐ脇に跪いている瑛生の姿が目に入る。瑛生は、寝台に横たわっているミシュアの手を握り締めて
いるようだったが・・・・・そこまで視線が行った時、ラディスラスも大きく目を見開いた。
 「目覚めたのかっ?」
今朝訪れた時はまだ眠っていたはずのミシュアの目が開かれているのにようやく気付いたラディスラスは、反射的に自分の後ろを振
り返って叫んだ。
 「ミシュアが目覚めた!」



 珠生は目の前で慌しく動く人の様子を、ただ呆然と見つめているしか出来なかった。
ミシュアが一日も早く目覚めるようにと毎日祈るような気持ちでいたはずなのに、いざ実際にミシュアが目を開いた時に自分が何を
言えば、何をすればいいのか、全く分からなかった。
 「・・・・・」
 今、ノエルがミシュアの身体を診ている。
その身体が盾になって見えないが、きっとあの細い身体には手術の痕が生々しく残っているのだろう。
珠生はそれを自分の目で確かめるのも怖かった。
 「良かったな、タマ」
 そんな珠生の側にやってきたラディスラスは、珠生の頭をクシャッと撫でてくれながら笑った。
その顔は本当に嬉しそうで、ミシュアの目覚めをラディスラスも心から喜んでいるのが良く分かる。
 「ラディ・・・・・」
 「でも、ここからが本当の勝負らしい」
 「え?」
 「今からミュウは治療痕の痛みに耐えなければならない。それはかなりの痛みらしいからな、体力の落ちているミュウがどれ程耐
えることが出来るか・・・・・」
 「・・・・・」
(そっか・・・・・これで安心なわけじゃなかった・・・・・)
 珠生はようやく、自分が今感じている不安がなぜなのかが分かった気がした。
それは、一度こうして目覚めたミシュアがどれ程の確率で回復するのか、こんなにも目覚めたことを喜んだ後で、もしも・・・・・そう
いう悪い想像が頭の中に消えずにあって、珠生はそれが不安で仕方が無いのだ。
絶対にこれで大丈夫だと思いたいのに、手術の後に見たノエルの血だらけの姿が記憶から消えない。
あんなにも血を失って、薬も道具も完全ではない(この世界からすれば最上なのかもしれないが)状態で、本当にミシュアの体力
は持つのだろうか。
(父さん・・・・・)
 父はミシュアが目覚めてからもずっと手を離さないままで、ノエルもそれを注意することは無い。
今、父は何を思ってミシュアの側にいるのだろうか。
(本当に・・・・・大丈夫なのか・・・・・?)
 珠生が不安そうに頬を強張らせた時、ノエルが顔を上げてアズハルに言った。
 「傷口から出血している。綺麗な布と湯と、この間俺が教えた薬と薬草も持ってきてくれ」
 「分かりました」
 「アズハル、手伝う」
アズハルとラシェルが部屋を出て行くと、急に音と人の気配が少なくなってしまい、珠生は思わず縋るように側に立つラディスラスの
服を掴んでしまった。



 「俺達は席を外しておこうか」
 「う、うん」
 嫌だとゴネまくるかと思っていた珠生は、意外に素直に頷いた。
ラディスラスは一瞬おやと不思議に思ったが、本人が承諾をしているうちにとそのまま珠生の肩を抱いて部屋を出た。
その時に一瞬見えた寝台の上の様子。ミシュアの白い肌の上に、醜く引き攣れた傷の痕。
(あれ・・・・・治るのか?)
 聞いた話では、ノエルはかなりミシュアの肌に気を遣ってくれ、出来るだけ治療の痕を最小限のものにするようにと努力をしてくれ
たらしい。
しかし、血が滲んだその傷痕はまだ日が浅いせいか、眉を顰めてしまうほどに生々しく、醜かった。
(それでも・・・・・生きているしな)
 そう、たとえ傷痕が醜く残ってしまったとしても、このまま生きることが出来るのならば全く問題は無い。
あんな傷痕ごときでミシュアの存在価値が落ちることはないし、きっとミシュア本人も生きる証となるその傷を誇らしく思うに違いは
無いだろう。
(エーキだって、そんな傷を気にするとは思えないし)
 「これで一先ず安心だな」
 「ラディ・・・・・」
 「ノエルが、先ずは目覚めなければ始まらないと言っていた。俺も、それは正しいと思ってる」
 「う・・・・・ん」
 「タマ?」
 「・・・・・でも、せっかく目を覚ましたのに・・・・・直ぐに変なことになっちゃうとか・・・・・しない?」
 「当たり前だろう」
 どうやら珠生の頭の中には、悪い想像が渦巻いているらしい。
目覚めたと喜んだその後にミシュアの容態が急変したら・・・・・そう思うと、素直に今の状態が喜べないのだろう。
確かに、今のミシュアの状態はかなり危ういとラディスラスも思う。
目覚めたといっても、今見たミシュアの顔色は真っ青で、額には脂汗が滲んでいた。必要以上に我慢強いミシュアがあのような表
情をするとは、今感じている痛みは相当強いのだろう。
(ミシュア・・・・・頑張ってくれ)
 喜びの後に、もしも不幸な結果になったとしたら、その悲しみや苦しみは最初から諦めていた時よりも大きいものになるはずだ。
ラディスラスはとにかく珠生を元気付けようとしたものの、気軽に大丈夫だという言葉は言えなくなってしまった。



 ミシュアが目覚めたことにより、屋敷の中の生活習慣もかなり変わった。
相変わらず父はミシュアに付いているし、ノエルやアズハルも交代で経過を見守っている。珠生も日に何度か足を運ぶが、そのた
びにミシュアは小さな笑みを向けてくれるものの、彼がかなりの痛みを感じていることは珠生も知っていた。
部屋の前を通ると、時折唸るような、苦しげな声が聞こえてくる。
その声が何の声なのか、誰が出しているのか、珠生は嫌というほど分かっていながら、ミシュアに頑張ってという一言が言えず、た
だ、じっと手を握り締めるだけだった。
 そんな事でいいのだろうか・・・・・珠生はアズハルに相談してみた。
父にはとても言えないし、ラディスラスに言うのも・・・・・なんだか自分が余りに情けない気がして、恥ずかしくて言えなかったのだ。
何時も優しく接してくれ、医者でもあるアズハルなら、自分でも分からないこの気持ちを分かりやすく説明してくれるのではないか
と珠生は考えたのだ。
 「それは、おかしいことではないですよ、タマ」
 「・・・・・ホント?」
 「普通の人間ならば、死というものに恐れを抱いていてもおかしくはありません。私やノエル医師は医者として人の生死に関わっ
てきましたし、ラディやラシェル、そしてユージン王子も、戦いの中でそれを経験してきたはずです。そういったことに関わりを持ってい
なかったあなたが途惑うのは自然なことですよ」
 「・・・・・とーさんは?とーさんだって・・・・・」
 「エーキは少し事情が違うでしょう?」
 「じじょー?」
 「彼はもう悟っているのだと思います。ミシュア王子がこのまま回復しても、もしも・・・・・死ぬことがあったとしても、けして目を逸ら
さずに全てを見届けるということを」
 「・・・・・」
 「あなたの父上は素晴らしい方ですね、タマ。人としてとても尊敬します」
 父の事を褒められるのは正直嬉しい。
それでも、もしもこのままミシュアが死んでしまったとしたら・・・・・珠生は父はどうするのだろうかと、心配でたまらなかった。