眷恋の闇










                                                                     『』は中国語です。






 【香港伍合会が真琴さんに接触をしました。側近のウォンの姿は確認済みですが、側にいた男がロンタウかどうかは不明です。
このまま事務所に向かいますので】

 海藤は部屋の時計を見上げた。
海老原から連絡があって30分ほど経つ。普段よりも急いでいるはずなので、もうそろそろ車は到着するはずだ。
(あの男が日本に・・・・・)
 そんな報告は全く無かった。
前回のことで、男の真琴に対する執着を思い知った海藤は、香港にいる綾辻の知り合いからもたらされる情報を逐一把握してい
た。
情報が大きく漏れてくることは無かったが、それでも男が香港を出たという報告は聞かなかったが・・・・・もしかしたら自家用ジェット
ではなく、普通の国際便で氏名を偽って入国したのかもしれない。
 組の者達、特に真琴の側にいる者には注意をするようにと言い渡していたが、今回は海老原が上手くやってくれたようだ。
 「社長」
側にいて、一緒に電話の内容を聞いていた倉橋も、気遣わしげな表情になっていた。
 「ロンタウも一緒に来られているでしょうか?」
 「・・・・・多分な」
 「目的は・・・・・」
 「真琴のことだとは思いたくないが・・・・・本家からも何も言ってこなかったしな」

 開成会の上部組織である大東組は、香港伍合会と事業の一部分において提携をしている。
中国国内でも大きな勢力を誇る香港伍合会と早めに手を結んでおくということは、表向き経済的に、そして闇の部分でも有利だ
ということを上の人間が判断したからだ。
 それでも、全面的な協力体制ではないというのは、香港伍合会のトップ、ロンタウといわれる人間の人となりが不明だからで、今
のところはごく僅かな部分だけでお互いを試している・・・・・そんな状態だった。

 その大東組本部からも、今回香港伍合会のウォンが来日するという知らせは無く、ましてやロンタウであるジュウの動向など漏れ
てくることも無い。
 「本家関係では無いということですね」
 「そもそも、本家にジュウと面識がある人間っているのかしら・・・・・あー、組長と江坂理事がいたっけ」
 綾辻は会話に入ってきながらも、忙しく携帯電話で連絡を取っている。香港伍合会の現状を知るというのが目的だが、相手も
なかなか手の内を見せないようだ。
 何も知られていないのならばともかく、ジュウは海藤の側に綾辻という男がいることを知っているのだ。自分達の動向の情報が遅
かれ早かれ海藤にまで知られるということは予測の範囲内だろう。
 「マコちゃんも、厄介な奴に見初められたものねえ」
 「・・・・・」
 「綾辻」
 「社長だってそう思っているでしょう?私達の世界とはまったく違う所で生きているはずのマコちゃんが、大陸のブルーイーグルに好
かれちゃうなんて笑い話にもならないわ」
 「・・・・・」
 綾辻はそう言うが、海藤は漠然とだがジュウの気持ちが分かる気がしていた。
確かに、真琴はごく普通の青年だが・・・・・いや、自分達の中にいるというのに、ごく普通でいられること自体が稀有なことなのだ。
(真琴の優しい雰囲気を、何もかも包み込んでくれる眼差しを、自分だけのものにしたいと思ったんだろう)
 気持ちは分かる。それでも、海藤はそれに頷かない。
日本で一つの会派をたちあげ、名実ともそれなりのものにしたはずだが、ジュウはそんな自分よりも遥かに大きな権力を持っている
男だ。
 勝てるかどうか・・・・・いや、そんなことを考えている余地などない。
(真琴は、俺のものだ)
唯一のものだと自分が望んだ相手を手放すことなど、海藤には想像も出来なかった。




 トントン

 扉がノックされ、続いて失礼しますという声と共に開かれる。
現れたのは綾辻の補佐をしている久保という強面の男で、その後ろから待ち望んでいた真琴と海老原が姿を現した。
 「真琴」
 「・・・・・海藤さん」
 真琴の顔色は青褪めていたものの、どうやら泣いてはいないようだ。
 「大丈夫だったか?」
 「・・・・・ごめんなさい、心配掛けて」
こんな時にも、自分のことを気遣ってくれている。
立ち上がった海藤は目を細めて安心させるように笑い掛けると、真琴は謝ることなど何もないのだという思いを込めてその身体を
強く抱きしめた。
 「か、海藤さん?」
 「あの男だったか?」
 「・・・・・っ」
 ビクッと震えた身体が、言葉以上の返事をしている。それでも、海藤はきちんと真琴の言葉で確認を取らなければならなかった。
 「真琴」
 「・・・・・ジュウさん、だった」
 「・・・・・そうか」
やはり、来日したのはウォンだけではないらしい。
海藤は真琴の身体を少し離すと、その顔を覗き込むように身を屈めて訊ねた。
 「何を話した?」
 自分が衝撃を受けたように、真琴もジュウの出現には動揺しているはずだ。そんな中、直ぐにこんなことを訊ねるのは可哀想だと
思ったが、あの男相手では少しでも早く手を打っておかなければならない。
 「真琴」
再度促した海藤に、真琴は揺れる眼差しを向けてきた。




 【直ぐに分かれという方が無理だったか】
 【私の声を忘れたか?私の可愛いトウゥ】

 ジュウの声音は、遠い記憶の中にあったものと変わらずに穏やかで。とても香港マフィアのトップの人間だとは思えないものだった。

 【名前は覚えていてくれたのか】
 【久し振りだな、マコ。お前が変わっていないようで嬉しい】

交わした会話も、ほんの数言だけ。それも、久し振りに会ったという挨拶のようなもので、普通に考えればおかしなことを言われた
わけではないと思う。

 【お前を見てそう思った】
 「見た限りでもそう思うが?」

 その目で彼の姿を見た時、真琴は身体が震えてしまった。しかし、それは恐怖に駆られてという感情とは少し、違う気がする。
真琴の中で、ジュウは負の存在だとは言い切れないのだ。
(そんなこと、とても言えないけど)
 以前連れ去られてしまったという事実があり、海藤達は自分のことを心配して先回りして守ろうとしてくれている。
それを過保護だということは出来なかったし、真琴も、たとえジュウが自分にとって悪い存在ではなかったとしても、大切だと思う者
はちゃんとここに、目の前にいるのだ。
 「・・・・・それだけ」
 電話での短い会話を伝えただけで疲れてしまい、真琴はほうっと息をついた。
 「直ぐに海老原さんが来てくれたから、それだけしか話していないです」
 「・・・・・」
海藤は真琴から入口近くに立っている海老原に視線を向ける。
 「御苦労だったな」
 「いえ」
 「それで、お前が見たことを説明してくれ」

 海老原はその場にいた男達の人数や車のナンバーなど、真琴が茫然自失としていた間、あんなにも瞬間的にきちんと周りに目
を配っていたようだ。真琴が感心していると、
 「どうぞ」
 「あ、すみません」
倉橋が飲み物を入れてくれた。
ここにいる人間はほとんどがコーヒー派だが、真琴が来るようになってから倉橋は紅茶も葉から用意してくれているらしい。
その日の気分によって様々な種類のものを入れてくれているが、今日は気分を落ち着かせるためなのかハーブティーが差し出され
ていた。
 「心配されることはないですよ」
 「え?」
 「社長に任せていれば、何事も無く全てが終わります」
 「倉橋さん・・・・・」
 綺麗で、それでいて人形のように無表情が普通の倉橋だが、ごく親しい者達には感情の揺れを垣間見せてくれる。
今も、真琴を元気付けようとしてくれているのだろう、切れ長の目に気遣わしそうな色を湛えているのが見え、真琴はそれほどに心
配してもらって何だか申し訳ないような気分になってしまった。
 「それに、微力ながら私も側にいさせてもらいますし、綾辻のことも遠慮なく使ってください」
 「なによぅ、克己〜。私は高いのよ?そうね、一日克己のキス一つくらい?」
 「・・・・・何を考えているんですか」
 「・・・・・」
 目の前で繰り広げられている幹部である彼らの会話を呆気にとられて見ていた真琴は、ねえマコちゃんとモデルのように華やかな
美貌を情けなく歪めた綾辻に思わず笑ってしまう。
 「やだあ、マコちゃん、何笑ってるの?」
 「だ、だって」
 多分、倉橋も綾辻も、自分の気を紛らわせるためにわざと言い合いをしているのだろうということが分かり、その2人の気持ちが
嬉しくて、申し訳なくて・・・・・笑った。
自分が笑うことが2人を安心させることではないかと思い、場違いだとは思っても笑みを消すことはしなかった。




 「・・・・・」
 倉橋と綾辻と。どうやら2人は真琴を和ませることに成功したらしい。
海藤は少しだけ安心すると、今聞いた海老原の報告から素早く手配を始めた。
(車がレンタカーでなかったということは、日本で彼らを受け入れている組織があるはずだ)
それが、ジュウの組織か、それとも日本の、大東組以外の組織かは分からないが、ここが日本である限りは調べて分からないこと
はないはずだ。
 それに・・・・・。
 「・・・・・」
海藤は少し考えた後、ある番号を回した。
 【私だ】
数回のコールの後、相手は電話に出た。
 「突然すみません、海藤です」
 【何があった】
 海藤が非常時以外、事前連絡もなくプライベートの携帯番号に電話を掛けたとあっては、何事かがあったのだと容易に察しが
ついたのだろう。電話の相手の促しに、海藤は直ぐに用件を切り出した。
 「香港伍合会のロンタウが来日しています」
 【何時だ】
 「約一時間前、私の身内が都内で確認しました。今、組で彼と面会する予定などありますか?」
 【・・・・・いや、来日の報告も受けていない】
 日本だけでなく、自国でも滅多に顔を出さないジュウがわざわざ来日しているのだ、電話の向こうの相手もそこに何らかの意図
が含まれていることに気付いたのだろう。
 【こちらでも調べてみよう。海藤、何かあったら連絡をしてくるように】
 「分かりました。よろしくお願いします、江坂理事」
 海藤の言葉にそれ以上の反応は無く、電話は向こうから切れた。
しかし、大東組の中でも有能な男・・・・・江坂に任せれば、海藤も掴めないあちらの情報が得られるかもしれない。真琴のため
に江坂を利用することを、今の海藤は躊躇わなかった。