眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 普通のレンタカーを一般人の名前で借りたという報告を受けていた。その通り、車には何の改造もされておらず、フロントガラスの
向こうには運転手の・・・・・女が見える。
(こんな場面に女を使うか?)
 まだ距離があるので日本人なのか中国人なのかは分からないが、面立ちからアジア人だということは分かる。安徳は、内ポケット
にチラッと視線を向けた。
(車までの距離は20メートル・・・・・何を携帯しているのかは分からないが、一応は大丈夫か)
 防弾処置を施している車に銃が向けられても、取りあえずは安全だと思う。
それを確認して一息ついた安徳は、ようやく行き着いた車の助手席の窓を軽く叩いた。
 「失礼だが」
 「・・・・・」
 「何の目的で私達の後を付いてきた?」
 「・・・・・」
 真っ直ぐに前を向いていた女が顔を向けてくる。言葉が分からないというふうには見えないが・・・・・。
 「答えないつもりか?」
反応を示さない女に向かい、安徳はわざと見えるように上着の内ポケットを覗かせる。そこには普通の日本人は持っていないもの
が携帯されていた。
(・・・・・やはり、向こうの手のものだな)
 こんなものを見せられたのならば、普通なら驚き、焦り、パニックになるはずだ。それならばこれは玩具だと言って誤魔化すことも
出来るが、こちらを見ている女の瞳には欠片の動揺も見当たらない。
拳銃という、非現実的で直接死を連想させるものを見せれば、ヤクザと呼ばれる男達でも多少の動揺を見せるはずで、それだけ
でも女が相当に訓練されているのだろうと察しがついた。
 「このまま逃げられるとは思っていないだろう・・・・・出て来い」
 「・・・・・」
 女は・・・・・笑った。まるで人形のような人工的な笑み。
(・・・・・何だ?)
何を考えているのだろうか、一瞬安徳は眉を顰めて・・・・・反射的にその背後を見た。
(もう一台かっ!)
 最初に城内が追尾に気づいた時は、確かに2台見えると言った。
しかし、途中から1台の姿は消え、この駐車場に誘導した時も1台しかついてこなかったので油断してしまった。
 「!」
 どこにその車がいるのだと辺りを見回した時だった。

 キュルルルッ

大きくタイヤを鳴らし、目の前の車が急発進をする。
 「!」
 とっさに身体を避けた安徳の数センチ目の前を、猛スピードで走り抜けていく車。止めようと身体が動いたものの、安徳は深追
いをすることはなかった。
ここは日本で、銃で威嚇することも出来ないし、下手に刺激して真琴にまで危害を加えられたらと思うと二の足を踏む。
 自分達に課せられたのはあくまでも真琴の身の安全で、襲撃者の確保ではないのだ。
 「・・・・・っ」
それでも、こみ上げてくる感情はある。安徳は手の平に爪が食い込むほどに強く拳を握り締めると、直ぐに意識を切り替えて車へ
と戻り始めた。
(それにしても、途中で消えたもう1台は何だったのか・・・・・)
 ただの偶然か、それとも意味がある者達だったのか。
(きちんと判断しなければならないな)
これで終わりではない。今後の警備のためにも今回の出来事を素早く判断しなければならないと、安徳は事の顛末を真琴に聞
かせないようにと携帯を取り出し、
 「安徳です」
歩きながら説明を始めた。




 全てが一瞬の出来事のように思えた。
車に近付いた安徳は助手席を覗き込むように身体を近づけたが、その途端車は猛スピードで走り去ってしまった。
 一歩間違えば安徳を轢いてしまいそうなほどに危ない運転に、
 「あっ!」
真琴は思わず声を上げ、そのままドアに手を掛けたが、直ぐに城内が動かないでと冷静な声で制止してきた。
 「車から出ないで下さい」
 「でもっ」
 「芳さんは大丈夫です」
 「・・・・・っ」
 城内の言うように、安徳には怪我は無いように見えたし、こちらに向かってきながら携帯で話す姿も見ることが出来たが、それで
も真琴の心臓は早鐘のように鳴っている。
(今の、やっぱり・・・・・)
 こうして離れて見るだけでは分からないが、あの車を運転していたものがこちらに対して思うことがあったというのは事実だろう。
それが自分に対してか、海藤に対してかは分からないが、単に因縁を吹っかけられたというにはあまりにも時期が悪い。
 「安徳さん・・・・・大丈夫かな」
 幾らこの世界に身を置いているとしても、車に轢かれそうになったショックというものはあるはずだ。思わず呟いてしまった真琴に、
城内が柔らかい口調で答えた。
 「大丈夫ですよ」
 「城内さん・・・・・」
 「私達はこういった事態も想定していますから」
 「・・・・・」
 そんなことを考えること自体が不幸で悲しいと思うが、それを自分の口で言うことも違うのかもしれないと、真琴は唇を噛み締め
ることしか出来なかった。

 「お待たせしました」
 数分、外で携帯で話していた安徳は、戻ってくると直ぐに真琴にそう謝罪した。
 「だ、大丈夫ですかっ?」
 「ご心配なく」
 「あの、車に乗っていた人って・・・・・」
 「女でした」
 「・・・・・女?」
それは全く考えていなかったので、真琴は思わず聞き返してしまう。
 「女の人が運転していたんですか?」
 「他の人間はいませんでした。日本人かどうかも、口を開いていないので確認は取れていません」
 「・・・・・」
(女の人・・・・・)
 車がついてきていることが分かってから、城内はかなり車を複雑に走らせていた。
それを全てきちんとついてきたということは、それなりに都内の地理は頭に入っているということではないか。
(じゃあ、ジュウさんの部下じゃないってこと?)
 ジュウでなければ、いったいどんな思惑でこんな行動を取ったのか。考えれば考えるほどに分からず、真琴はただ安徳が無傷だっ
たことだけが良かったと思うしかなかった。




 「お帰りなさ〜い」
 午後6時を回る頃、ようやく海藤と倉橋が事務所に戻ってきた。
もしかしたらそのまま宿泊するのではないかと思っていただけに、それは意外なほどに早い帰社だった。
 「どうでした?」
 「正式に受けることにした」
 「・・・・・そうですか」
 きっぱりとした海藤の口調に、綾辻は感慨深い思いがした。
海藤の伯父である菱沼(ひしぬま)に誘われて海藤の下に付いた時、菱沼と同様に圧倒的なカリスマ性は感じたものの、そのあま
りの欲の無さに驚いたものだった。
 知れば知るほどに有能な男だった海藤は、望めばもっと早くそれなりの地位に就けたはずなのに・・・・・。
《厭世》と、言うほどではないかもしれないが。
まさに、世の中や人生を達観しているかのような海藤のことを勿体無いと思っていただけに、今回どんな理由からにせよ、彼が前に
踏み出そうと思ったことは喜ばしいと思った。
 「他の理事はどうなってるんです?」
 「上杉会長は保留。・・・・・横浜清竜会の藤永会長は辞退したらしい」
 「・・・・・へえ」
(あの人が、ねえ)
 自分と浅からぬ因縁のある名前が出てきたことに思わず苦笑が零れたが、彼が今回の就任を断ったことはすんなりと理解出来
た。
海藤とはまた違うが、彼が地位や財力というものに執着を持たないことは自分も知っているからだ。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 チラッと見た倉橋の表情は何時もと変わらない。
だが、本家で初めて藤永の名前を聞いた時、多少は・・・・・動揺してくれただろうか。
(ふふ、社長が側にいる時にそんな私情は挟まないか)
 一応は恋人である自分よりもはるかに、倉橋が海藤のことを大切に思っていることを知っている綾辻は自分で自分の考えに情
けなくなりながらも、今まで黙っていた報告をしなければならないと海藤に向き合った。




 「大学からの帰り、マコちゃんの乗った車が追尾されました」
 「・・・・・」
 綾辻の言葉に反射的に視線を向けた海藤は、その表情が落ち着いていることを読み取った。既にその問題は解決していると
いうことなのだろう。
 「真琴は?」
 「無事です。接触もありません」
 「・・・・・そうか」
 真琴のことは全て知っておきたいし、今はジュウのこともあり、海藤は自分がピリピリしていることも自覚している。
それでも、なぜ直ぐに自分に報告しなかったのだと綾辻を責めることができなかった。今日の本宅への訪問が開成会の代表であ
る海藤にとってどれほど重要なものか、綾辻も知っていたからに違いないからだ。
 もちろん、真琴に危険が迫った場合は必ず連絡があっただろうということも分かっている。それだけの信頼関係はあるはずだ。
 「それで、相手は?」
海藤は直ぐにそう訊ねた。それ以前も大学に来たというジュウが、再び現れたのだろうか。
 「女だったそうです」
 「・・・・・女?」
 「外見はアジア系、まだ20代といった感じだったそうです。会話はしていないので、日本人なのか外国人なのかは不明」
 「・・・・・」
 「車はレンタカー。借りたのは一般会社員の男でした。もちろん、ジュウとは全く関係が無いですけど」
 「金か?」
 それで、自分の名前を売ったのかと訊ねれば、綾辻は多分と答えてきた。
 「まだはっきりは分かりません」
 「・・・・・」
 「香港伍合会に女がいないとは思いませんが、こんなプライベートといってもいい問題に絡ませるかといえば疑問ですね。逃がし
ちゃったのは勿体無かったってとこかしら」
 「綾辻」
 「せっかく呼び戻してマコちゃんに付けたけど、役に立たないのならば帰ってもらった方がいいかも」
海藤が言う前に、それとなく安徳達の失態を責める綾辻だが、その言葉が優しさゆえだということは承知している。
トップである海藤が声を上げれば、安徳達に何らかの罰を与えなければならないし、それを止めるためにも2人の直接の上司であ
る綾辻が率先して非難しているのだ。
 「重要なのは真琴が無傷で無事だということだ。不審者の割り出しは・・・・・」
 「は〜い!私がします〜」
 「・・・・・頼む」
 「マコちゃんはもうマンションに戻ってますよ。今夜はスキヤキですって」
 「それは楽しみだな・・・・・お前達も来るか?」
 「今夜は遠慮しておきます。水入らずでごゆっくり」
 今夜何が話し合われるのかを分かった上でそう言っている綾辻に、海藤も直ぐに頷いて見せた。誰かの存在を頼るのではなく、
自分の言葉できちんと真琴を説得しなければならないのだ。