眷恋の闇










                                                                     『』は中国語です。






 江坂の表情は変わらない。
彼にとって今の言葉がそれ程自然なのだと思うと、海藤も瞳を和らげて頭を下げた。
 「ありがとうございます」
 「お前が礼を言うのはおかしいだろう。私が手を貸すのはあくまでも静の友人であるあの青年だ」
 「はい」
 「それから、連絡は私の携帯に」
 「分かりました」
 その返事を聞くと、江坂はそのまま立ち去る。
理事から総本部長に。立場が上になり、握る権力も大きくなるにつれ、江坂の責任は重く、仕事量も増えるのだろう。それは江
坂だけに言えることではなく、新しく理事になった自分にもいえることだ。
 「・・・・・」
 海藤は深く息をついた。自分に理事という重い役が務まるかどうか、承知をした上でなおも考えてしまう。
しかし、一度口にしたことを覆すことは出来ず、大きな責任をこの背に負わなければならない。きっとそれは、将来の自分と真琴に
プラスになるだろうと信じた。
 「・・・・・」
 時計を見下ろせば、まだ昼には間があった。
別室に呼ばれた倉橋が戻ってくるまでにはまだ間があるだろうと、海藤は少し考えて携帯を取り出す。
 「・・・・・真琴?」
掛けた電話の向こうでは、真琴の明るい声がする。無意識のうちに頬を緩めた海藤は、そのまま真琴の声を聞いていた。




 「よろしかったのですか?」
 真琴が研究室の中にいたのは30分も無かった。就職相談と言っていたのにこんなにも早いものだろうかと安徳は声を掛けたが、
真琴は十分でしたと笑みを向けてきた。
 「今日で全部決めるわけじゃないし、参考として話を聞きに来ただけですから」
 「・・・・・」
 それはきっと理由の一つだろうが、多分守っている自分達のことを気にして早々に切り上げたのだろうということは当然想像出来
た。守らなければならない相手である真琴に気を使わせることを申し訳ないと思い、安徳は真琴から見えないように唇を軽く噛み
締める。
 「バイトはどうするんです?」
 そんな安徳から会話を引き継いで城内が訊ねると、そこでも真琴はきっぱりと言った。
 「しばらく休むつもりです」
 「真琴さん」
 「元々、4年生になってからはあまりシフトを入れてなかったんです。俺も就職のことを色々考えないといけないし。この機会に少
し長めの休みを貰って時間を掛けて考えるつもりです」
 「・・・・・そうですか」
城内は頷く。安徳と同じことを考えているはずだが、それは顔には出なかった。
自分よりも年下のくせに処世術を心得ている男を憎らしく思うものの、安徳も直ぐに意識を切り替える。今は自分の感情などは
捨てて、真琴を守ることだけに意識を向けなければならなかった。
 「大学にはこの後講義に?」
 「今日は無いんです。なんだか、これだけのためにここまで付いてきてもらっちゃって・・・・・」
 「それは構いませんが、今からはどうされますか?」
 「夕飯の買い物をして、マンションに帰ります。海藤さんも話があるって言っていたから早めに帰ってくるだろうし・・・・・あの、すみま
せん、どこかスーパーに寄ってもらってもいいですか?」
 「分かりました」
真琴の日頃の行動範囲は知っている。その中で一番安全な場所を選んで連れて行けばいいと安徳は頷いた。




 教授との話では、やはりまだ自分の目的をはっきりと絞ることは出来なかった。
これも今までのんびりとし過ぎたせいだと後悔しても遅いと、真琴は様々な資料を貰ってまた来ますと頭を下げた。
 待ってくれていた安徳と城内には、出来るだけ迷惑を掛けないようにと研究室の中からバイト先には連絡を入れて、しばらく休む
許可を貰った。
 本当は、大勢と話したり、忙しく身体を動かす方が色々と考えなくても済むのだが、以前もそうしてまんまと連れ去られてしまった
ことを忘れてはいない。今の自分は自分だけの身体ではないのだとちゃんと自覚して、慎重に行動しなければならないということを
さすがに真琴も学んでいた。

 構内で数人と講義のことで話したので、少し時間を食ってしまった。
門外に待っていた車に乗り込んだ時は昼にはなっていなかったが、それでも買い物をしたりすれば昼を過ぎるのは確実だ。
(安徳さん達のお昼ご飯・・・・・どうしよう?)
 夕食も一緒に食べた方がいいかもと思っていると、不意に鞄の中の携帯が鳴る音を聞いた。
 「・・・・・」
急いで取り出せば、それは海藤からだった。真琴は急いで通話ボタンを押す。
 「海藤さん」
 どうやら少し時間が空いたらしく、真琴の様子を聞くためにわざわざ電話をしてくれたらしい。
仕事の邪魔をしたのではと思う反面、そんな時にも自分のことを忘れてはいないのだと思うと嬉しくて、真琴は何度も大丈夫です
と安心させるために言った。
 「安徳さんも城内さんも付いててくれて、すごく心強いし・・・・・はい、家で待ってますから」
 出来るだけ早く帰るという言葉に思わず笑って、真琴は電話を切った。
 「海藤さんからでした」
 「はい」
 「早めに帰るって言ってくれたから、やっぱり・・・・・」
 「すみません」
唐突に、運転していた城内が真琴の言葉を遮る。その声が少し硬いような気がして、真琴はどうしたんだろうと思わずバックミラー
を覗いてしまった。
 「車が追尾してきています」
 「え?」
 真琴は思わず聞き返してしまったが、
 「何台だ」
隣に座っていた安徳は冷静に聞いた。
 「目視では2台です。こちらの間に割り込んできていますね・・・・・ああ、レンタカーだ」
 城内の報告を聞きながら、安徳が直ぐに携帯を取り出した。
 「私だ。今から言うレンタカーの借主を調べてくれ」
自分の隣で交わされる話を聞いていると、グンッと身体が浮遊する感じがする。城内が車のスピードを上げたようだ。
 「真琴さん」
 「は、はい」
 「買い物する場所、俺が決めてもいいですか?」
 「も、もちろんいいですけど」
 「じゃあ、少しドライブしますか」
 真琴と話す声の調子は何時もと変わらず、纏っている空気も変化はないのに、真琴はどんどんと不安になってきてしまう。
今、ここで、何かされることはないだろうが、目に見えない手が伸びてきているような気配を感じて何だか怖い。
 「・・・・・」
 後ろを振り向いて、付いてきているという車を確かめようとしたが、電話をしていた安徳がその腕を掴んだ。
 「後ろを向かないでください」
 「あ・・・・・」
 「スモークをしているので見えないとは思いますが、用心の為です」
 「・・・・・っ」
(何が起こってるんだろ・・・・・)
日常の中の非現実的な出来事。自分の置かれている立場を改めて考えた真琴は、膝の上の手をギュッと強く握り締めた。




 綾辻は突然入ってきた連絡に秀麗な眉を顰めた。
 「それで?相手は九州の人間なの?」
大学から帰ろうとしていた真琴の車を追尾しているというレンタカー。その借主はどうやら九州の人間らしく、身元も普通の会社員
ということらしい。
 しかし、今は一般人も何をしているのか分からない世の中だ。僅かな報酬や、あるいは借金のために、自分の免許書を売買し
ている者も居る。
(ジュウが日本にそんなツテがあるとは思えないし、どこかの組と繋がっている可能性が高い・・・・・か)
 日本でも一、二を争う大きな組織、大東組の、開成会の海藤といえば名前もかなり知られている。今の世の中を悠然と生き
残っている彼を憧れの目で見る若い者は多いが、年寄り連中の中には煙たく思っている者も少なくはないはずだ。
 いまはまだ、新理事に内定したという噂は広まっておらず、今のうちに叩こうとする者がいても不思議ではない。
(マコちゃんに手を出そうなんて・・・・・ホント、馬鹿)
 「分かったわ。アンちゃん、助っ人いる?・・・・・ふふ、頼もしいわね。一応、5分毎に連絡をちょうだい」
電話を切った綾辻は、直ぐに今の情報を頭の中で整理をした。
今頃、海藤は千葉の本家にいて、新理事に就任するための手続きをしているはずだ。まだ全ての席が埋まっていないようで、発
表はもう数日先になるだろうが・・・・・。
 「流すか」
 この情報を、さっさと流してしまった方がいい気がする。
海藤が近いうちにどういう地位に就くかを知らしめれば、今から動こうとする勢力を牽制出来ると思った。
それには、その情報が開成会から漏れたとは思わせない方がいい。綾辻は一瞬考えると、直ぐにパソコンのメール画面を開いた。




 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 車の中は沈黙が支配している。
真琴は何度も後ろを振り返りたい気持ちを抑え、自分の手を強く握り締めたままでいた。
 「仕掛けてきませんね」
 時間で言えば1時間も経っていないだろうが、どうやら背後の車に変化はないらしい。直接的な行動を取ってこない代わりに、そ
のまま逃げることもしない。相手はいったい何をしようとしているのか、城内の口調にも困惑した様子が含まれていた。
 「芳さん、どうします?」
 「・・・・・何時までも付き合ってやる義理はないな」
 「ええ」
 「・・・・・真琴さん」
 「は、い」
 安徳は緊張して声が裏返った真琴に苦笑を見せた。
 「車を止めますが、このまま中から出ないで下さい」
 「え・・・・・」
(それじゃあ、相手と話すってこと?)
話す・・・・・そんな平和的な交渉が出来るのかどうかさえ分からないのに、安徳は大丈夫なのだろうか。不安がそのまま表情に出
てしまった真琴に、安徳は淡々と続けて言った。
 「大丈夫ですから」
 「で、でも」
 「車には城内を残しておきます。・・・・・そこを右」
 何時の間にか車は郊外に向かっていた。中心部とは違い、所々畑もある住宅地。車は安徳の誘導で、ある大手スーパーの広
い駐車場に入って行き、一番奥に行って止められた。
 「頼むぞ」
 「はい」
 短く会話する安徳と城内の間では全て話が出来ている様子だが、真琴は車から出て行ってしまった安徳の背中を心細く思い
ながら見送ることしか出来ない。
 「城内さんも行ってくださいっ。俺、ちゃんとこの中で待っていますから」
 「真琴さんを1人には出来ませんから」
 「でもっ」
 「芳さんは大丈夫です」
 確信を持っているかのように力強く言ったかと思うと、城内はようやく振り向いて真琴に笑い掛けてくれた。こんな緊迫した状況だ
というのに、その笑みは随分と柔らかい。
 「真琴さんは安心して待っていてください」
 「・・・・・」
本当に、ここで待つだけでいいのだろうか。真琴は城内が止めないので背後を振り向く。スモークを張っているので外の景色は分か
りにくかったが、それでも少し離れた場所に同じように止まっている車に向かう安徳の姿は見えた。