眷恋の闇
11
『』は中国語です。
「ちょっと、甘い?」
「いや、美味しい」
「海藤さんの味付けには遠く及ばないけど・・・・・」
「俺の口には、お前の味が一番馴染むし、美味しい」
本当にそう思って言ったのだが、真琴は照れくさそうに目を伏せた。
そんな真琴を目を細めて見つめ、作ってもらった温かな料理を味わって食べながら、海藤はマンションに帰ってきた時のことを思い
浮かべる。
「えっと・・・・・なんか、変な車に後をつけられたみたいで」
海藤が切り出す前に、真琴の方から今日の不審な車のことを話してくれた。隠していても、安徳達から報告がいくだろうと思った
のかもしれないが、海藤は何事も隠さずに話してくれたこと自体が嬉しかった。
それと同時に、自分の方も、今日正式に受けた話をしなければならないと思った。真琴の誠実な思いに、自分も同じようにそれ
を返さなければ・・・・・。
「真琴」
「え?」
箸を置いた海藤に、真琴は顔を上げた。
「お前に話さなければならないことがあると言っただろう」
「あ・・・・・はい」
深刻な話だということが伝わったのか、真琴も箸を置いた。食事時に話すようなことではないかもしれないが、2人の日常の中で変
化を伝えたいと思った。
「組の役を貰った」
「・・・・・役?・・・・・でも、開成会の会長って海藤さんですよね?」
ああと、海藤は真琴の勘違いを訂正する。
「組というのは開成会ではなく、上部組織の大東組だ。そこで、新しい理事として力を尽くすことになった」
「理事・・・・・」
「・・・・・」
「今よりも動かせる人間は多くなるし、扱う案件も増える」
「あ、危ないことですか?」
「いや、俺は指示をする立場だ。ただ、恨みを買うことは多くなるかもしれない」
理事という仕事は様々なものがあるが、一番はやはり今の組長を支え、大東組をさらに大きな組織にしていくことだ。海藤自身が
現場に出ることは少ないだろうが、その名前の重みというものはさらに加わり、こちらが意図しないまま恨みを買うことは多くなるだろ
う。
自分は、それを受ける覚悟がある海藤だが、矛先が身内・・・・・それも、真琴に向かうということも考えなければならない。今以
上に窮屈な生活を強いることもあるかもしれない。
真琴はそれを、受け入れてくれるだろうか。
「怖いか?」
これから真琴が置かれるであろう立場と共に、骨の髄までその世界に染まろうとしている自分のことをどう思うか、海藤はじっと真
琴を見つめた。
(理事・・・・・)
その響きからも、偉い立場になるんだなと思う。
何度か会った江坂に対して、あれ程不遜な上杉も頭を下げていた様子を考えれば、海藤もそれだけの権力を握るのだと理解は
出来ても、本当に自分はそんな海藤を受け入れることが出来るだろうか。
「怖いか?」
「・・・・・」
怖い・・・・・そう、確かにそう思う。
今よりももっと自分が普通の生活からかけ離れてしまうのではないかという恐怖。しかし、それ以上に真琴が怖いと思うのは、自
分の側から海藤がいなくなるのではという恐怖だ。
何らかの攻撃を受けて命の危機に陥ることも、立場上、他の誰かを身の内に入れなければならないかもしれないということも、
全て突き詰めて考えれば、真琴が恐れているのは自分と海藤の関係が崩れてしまうことだった。
「・・・・・俺は、ここにいても・・・・・いいんですか?」
小さな声でそう言えば、海藤の目が驚いたように見開かれた。
「いい・・・・・ですか?」
「側にいてくれ」
「海藤さん・・・・・」
「俺がこの役を受けたのは、お前を守る力がもっと欲しかったからだ。そのお前が側を離れてしまったら、何のために理事になるの
か分からない」
海藤の目をじっと見つめていた真琴は、真摯なその思いを強く感じ取った。
(俺のため・・・・・)
この先もずっと、側にいてくれることが分かれば、その後のことなど何とかなるんじゃないかと思えてしまう。
「ずっと、一緒にいてください」
「真琴」
「俺、俺も、海藤さんを守れるように・・・・・頑張ります」
涙を流しながら言っても説得力は無いかもしれないが、それでも大切な言葉は伝えられたのではないだろうか。
その証拠に、曇った視界に映る海藤の顔も感情を耐えるような表情をしていて・・・・・やがて、片手で目を覆う彼を見て、真琴は
自分も感情のままに涙を我慢することはしなかった。
嬉しくて泣くということを、真琴と出会ってから知った。
それまで、涙というものは肉体的な痛みから自然に零れるものだと思っていた海藤は、熱くなった目頭を真琴から隠すように片手
で押さえる。
「ずっと、一緒にいてください」
側にいて欲しいというのは海藤の方の思いなのに、真琴はまるで自らの願いのように言ってくれる。自然に出来る彼の気遣いに、
海藤はどうすれば真琴にこの嬉しさを返せるのか分からなかった。
口下手な自分では想いを全て言葉にして与えることはとても出来ず、それが悔しいと思っても、真琴はそんな自分の気持ちさえ
分かっているかのように、涙声で話しかけてくれた。
「・・・・・ご飯、食べましょう?」
「・・・・・」
「せっかく、海藤さんが褒めてくれたスキヤキ・・・・・残さないでくださいね」
「・・・・・ああ」
思いが、溢れそうだ。
海藤は奥歯を噛み締めてその感情に耐え、真琴の言葉を実行すべく箸を握った。
伝えなければならない話を終え、お互いの感情が少し落ち着いた頃、真琴が聞いてもいいですかと話しかけてきた。
「海藤さんは、今度江坂さんと同じ立場になるんですか?」
「いや」
そう言えば、まだこちらの話はしていなかったことを思い出す。
「江坂理事は総本部長に格上げになった」
「総・・・・・本、部長?理事よりも偉いんですか?」
言葉の響きから、部長よりも理事という地位の方が高いのではないかという素朴な疑問が聞き取れて、海藤は笑みを浮かべな
がらそれは違うと言った。
「この世界では全組織を取り仕切るのが総本部長という立場の人間だ。あの人は実質組のNo.3になるし、もちろん俺を使う
立場だ」
「へえ・・・・・」
よく分からないというような表情だが、海藤はそれでいいと思っていた。真琴をこの世界に引きこむつもりは毛頭無いし、彼が自
分の側から離れないということだけを確認出来ればそれでいい。
「日にちって決まってるんですか?」
「披露目は15日だ」
「15日・・・・・」
もう、時間はそこまで迫っている。
保留になっているらしい上杉を相手に江坂も動くということを聞いたし、多分ここ2、3日の間に全てが決着し、予定の15日には
新総本部長と新理事が大々的に発表されるだろう。
(気を引き締めなければならないな)
周りの状況が変わっても海藤自身には変わらないこともある。それは、真琴を守るということ。それだけが海藤の一生の誓いでも
あった。
(15日かあ)
本当に直ぐだなと思う。
普通、昇進する時はもう少し早く知らせてくれるのではないかと思うが、特殊な世界なだけにギリギリまで対外的に秘密にするのだ
ろうか。
(何か、お祝い贈った方がいいよな)
どういう世界にしろ、良いことは祝いたい。
何がいいだろうか、時間が押し迫っているだけに考える時間は少ないだろうが、それでも自分に出来ることをしたかった。
(あ、江坂さんもだ)
そのことについて色々なことを考え始めた真琴は、そのおかげか、今日の不気味な追跡車のことは何時の間にか頭の中から消え
てしまっていた。
都内の、標準的なホテルの一室。
硬いソファに座っていた男は、目の前に立つ男からの報告に片眉を上げた。
『大東組の理事に?』
『まだ内定の段階のようですが、15日には公表されるようです』
『・・・・・なるほど。少しは力を欲するようになったということか』
以前向かい会った時、マフィアという世界に身を置いているとは思えないほど、男は真っ直ぐな視線で自分を見つめてきていた。
男の力も、性格も、会わなかった時間にかなり詳細に分析をした。人間的には信用の置ける人物だと思ったものの、ある問題を
通して対立している自分にとっては明らかな敵だった。
『マコの様子は?』
『仕事先は休暇を取っています』
『では、やはり捕まえるのは大学か』
先日、一目だけ見た姿を思い出し、自然に口元が綻ぶ。それはごく僅かな変化だったが、常日頃の自分からすれば驚くほどの
感情表現だ。
しかし、そんな気持ちとは裏腹に、側近の口調は先程よりも少し硬くなって言った。
『新しいガードが付いているという報告を受けていますので、簡単ではないかもしれません』
『確認したのか』
『本日。写真も撮っていますので、明日にはその調査もあがってきます』
『新しい、か』
(では、カイドーも本腰を上げてきたということだな)
自分が接触したことはもう報告をされているはずで、そのままの体制で守り続けるというのは考えられない。あの海藤が選んでつけ
たガードだ、綾辻のようにやり手だと考えておいた方がいいかもしれない。
『理事という立場になれば、カイドーにも手出しはし難くなります。出来ればその前に動こうとは思っていますが・・・・・』
『出来ないのか?』
『いいえ、出来ます』
きっぱりと言い切るということはそれだけの確信を持っているのだろう。幾ら側近とはいえ、口だけの者だったらとうに排除している。
確かに、ここは自国ではなく日本で、動き難いというハンディはあるが、それで物事が進めないというのはいいわけだ。
『前回は問題も残っていたからマコを連れて帰ることは出来なかったが、今回私が香港に戻る時はマコが隣に座っていることが
最低の条件だ』
『はい』
『時間を掛けないようにというのは私も賛成だ。ウォン、お前を信用している』
『ありがとうございます、ジュウ』
即座に返ってくる言葉を聞きながら、男・・・・・ジュウは早く夜が明けないかと窓の外を見つめていた。
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