眷恋の闇
13
『』は中国語です。
そうでなくても大きな目が、驚いたように見開かれている。
(可愛いな)
そう感じたジュウは自然と目元を緩めた。人の顔を見ただけでこんな気持ちになるなど、今まで生きてきた中で真琴以外にはいな
かった。やはり、己にとって真琴は特別な存在なのだ。
「元気そうだ」
「ど・・・・・し、て?」
「お前を捜してここにきたら、偶然その男がお前のことを知っていると言った。そして、お前を呼び出す手助けをしてもらっただけだ
が・・・・・どうかしたのか?」
真琴はじっとこちらを見ていたが、偶然と小さく呟いた。その言葉を正確に聞き取り、ジュウは頷いた。
「偶然だ」
己の手先が誰になるかなど、ジュウにとっては関係ない話だ。多くの砂の中からほんの一つまみ、いや、指先についてしまったものな
ど、払えば見えなくなってしまうものだ。
「会いたかったぞ、マコ」
ジュウとって大切なのは目の前にいる真琴だけ。そんな自分の思いが本人にも伝わるように、ジュウは温めた思いの全てをこめて
その名前を呼んだ。
真琴は信じられない思いで目の前のジュウを見つめた。
(どうして・・・・・どうして・・・・・?)
ジュウのように目立つ男が構内の、それも内部の人間しか知らないような場所にまで1人で来れるとは思わない。絶対に誰か、こ
の大学内で協力者がいるはずだが、それが今自分を連れて来た島谷だと聞かされても、その繋がりが全く分からない。
ただの大学生の島谷と、香港マフィアのジュウ。
いったい、どんな繋がりがあるのかと考えるだけで怖くて、真琴は近付いてくるジュウを見ながら無意識に後ずさってしまった。
「マコ?」
とっさに、逃げ出したいと思った。
パッと後ろを振り向いたがドアは既に閉まっていて、何時の間にか島谷の姿も消えている。中から鍵をかけていないこの部屋からは
簡単に逃げられるはずなのに、ドアを開けた向こうで何が待っているのか・・・・・足が竦んでしまった。
(・・・・・海藤さんっ)
助けを呼んでしまうのは海藤だ。しかし、ここに海藤はおらず、切り抜けるのは自分自身の力しかない。真琴は一度大きく呼吸
をしてから、ゆっくりとジュウに視線を向けた。
「あ、あの・・・・・」
「抱きしめさせてくれないか?」
「・・・・・どうして?」
「来日の目的は一つだけだ。マコ、お前を香港に連れて行く」
「!」
(本気で、そんなことを?)
前も、ジュウは自分を香港に連れて行こうとした。結局、母国で問題が起きてそのまま1人で帰国することになったが、その時も
いずれ迎えに来ると言っていた。
あの言葉を嘘だと一笑に付すことは出来なかったが、それが現実になるということは考えてもいなくて。
「マコ」
穏やかに自分の名前を呼ぶジュウが怖くて仕方が無かったが、それでも真琴は両手の拳を強く握り締めながら、小さな声で拒
絶を口にした。
「行けません」
「マコ」
「俺は、日本にいます」
「どうして?お前の居場所は私の隣だろう?」
不思議そうに問い掛けてくるジュウは、本当に真琴の言葉の意味が分からないようだ。あれだけ、自分は海藤のことを愛している
と伝えたのに、どうして分かってくれないのだろうか。
「このまま、帰ってください、ジュウさん。俺は海藤さんと一緒にいます」
ドンッ
「!」
「・・・・・そんな言葉を聞きたいわけではないんだよ」
少しだけ眉を顰めたジュウが、側の机を拳で叩いた。
「ちょ、ちょっと図書室でいる本があるから。直ぐに行くので玄関で待っていてください」
真琴が背の高い同級生の後を追うように廊下の角を曲がったのを見て、安徳は直ぐにその後を追った。どんなに短時間で済む
用事でも、真琴を1人にしておくわけにはいかない。
ただ、自分達に気を遣う真琴の気持ちも考慮して、いったんは引いたように見せかけただけだ。
「あの学生を調べろ」
そして、城内にその命令を下すのも忘れなかった。
真琴の友人達のことは前もって調べていたが、その中にあの学生の顔写真は無かった。幾ら簡単な用があったとしても、あまり親
しくない同級生を頼るだろうか。
「・・・・・」
何だか嫌な予感がして、安徳の足は自然と速まってしまう。
真琴の背中から視線を逸らさないまま、やがて図書室についた。
(・・・・・学生がいない?)
試験期間でないことや、時間帯からも学生の姿が少ないのならば納得がいくが、ざっと見た限り人影というものが無かった。
そればかりか、普通ならいるだろう職員の姿も見えない。
「・・・・・」
理由ははっきりとしないまま、安徳は無意識のうちに内ポケットのものを服の上から押さえて確かめる。その間、2人は奥の準備
室と書かれた小部屋に入って行った。
「・・・・・」
(出てきた?)
そして、直ぐに1人だけあの学生が出てきたが、真琴はなかなか外に出てくる様子は見られなかった。
踏み込むか、それとももう少しだけ待つか。その判断を頭の中で考えていた時、安徳の携帯のバイブが鳴った。
「何だ」
【芳さんっ、あいつ、祖父母が中国国籍だっ】
「!」
その瞬間、安徳の足は動く。そして、
ドンッ
何かを激しく叩く音を聞いたと同時に、鍵が掛けられていない部屋のドアを開けた。
「真琴さんっ」
「安徳さんっ?」
いきなりドアが開いたかと思うと、飛び込むように入ってきた安徳の姿に真琴は驚いてしまった。
しかし、次の瞬間にはもう目の前に安徳の背中がある。自分よりも上背はあるものの、細身の安徳に庇うように背後に隠され、情
けないがホッとする自分がいた。
『香港伍合会のロンタウ(龍頭)・・・・・ジュウ?』
「安徳さん?」
(中国語、分かるんだ)
そう言えばアジアを中心に飛び回っていたということを思い出した。
ジュウも、いきなり飛び出した流暢な自国語に片眉を上げたが、驚いた様子は見えない。
『安徳芳』
「・・・・・っ」
反対に、安徳の肩が揺れた。
『・・・・・既に調べが付いているということか』
『私は今真琴と話している。このまま出て行くのならば何もしないが』
『私が彼を置いていくはずが無い』
何を話しているのか全く分からない。ただ、2人・・・・・いや、安徳の声は攻撃的な響きを帯びていて、真琴は思わずそのスーツを
引っ張ってしまった。
「・・・・・真琴さん?」
「あ・・・・・」
直ぐに振り向いてくれた安徳になぜかホッとする。真琴が知っているジュウは直ぐに何か行動を起こすような乱暴な人ではなかっ
たが、安徳達が把握している彼の顔はそうではないのだろう。
そんな彼に明らかな敵意を向ければ何が起こってしまうか。真琴はとにかくジュウから離れなければならない・・・・・そう思って安徳
に言った。
「行きましょうっ」
「・・・・・このまま見過ごすことなど出来ません」
しかし、安徳の足は動かない。
「安徳さんっ」
「マコ」
安徳を説得しようとその顔を見ていた真琴は、背後から掛かったジュウの声が少し低くなってしまったことには気付かなかった。
(なぜこんなものに視線を向ける?)
多少小奇麗なだけのこの男に、どうして真琴は必死な眼差しを向けるのか。
『邪魔だな』
今すぐ目の前から消し去りたいが、真琴の目に汚いものを映すわけにはいかない。やはりここから出た方がいいだろうとジュウは歩
み寄り、手を伸ばそうとしたが、その寸前で安徳の腕で行方を阻まれた。
『・・・・・』
確か、この男は東洋武術を身につけているらしい。真琴のガードとしてつけられていたが、こんな細身で何が出来るのかと思って
いた認識は少しは変えた方が良さそうだ。
(多少は出来るようだな)
視線と足さばきでどのくらいの力量かはある程度想像が付く。狭い部屋の中、肉体のみで争えば多少面倒なことになるかもし
れないだろう。
『・・・・・お前は、私をどうする気だ?』
『・・・・・上の指示を仰ぐ』
『・・・・・では、今すぐカイドーに連絡をしろ』
『・・・・・』
ジュウがなぜそんなことを言い出したのか、その真意を探るかのような眼差しを向けてくるが、ジュウは黙ったまま真琴を見つめ続
ける。香港に連れて行くにはもう少しだけ時間がかかるようで、それならばその間愛しい顔を見ていたい。
「安徳さん、海藤さんに」
「・・・・・はい」
真琴に促され、男は携帯電話を取り出した
「・・・・・安徳です。今・・・・・例の男が目の前にいて・・・・・いえ、真琴さんは無事です」
「・・・・・マコ」
他人の電話を聞き続ける趣味などないので、ジュウは真琴に向かって話しかけた。
「私に会えて嬉しいと思うか?」
「え・・・・・」
「少しは、気にしていたか?」
自分が香港の空の下、ずっとこの穏やかな面影を夢見ていたのと同じように、真琴も自分のことを懐かしく思ってくれていたのだ
ろうか。
真琴には海藤という愛人がいることは知っていたが、そんなものは自分にとっては関係ない。
(お前の気持ちだけが・・・・・大切だ)
愛しいと思う気持ちを、会えない時間ずっと抱えてきた。同じ種類の思いを真琴に返せとは今は言えないが、それでも少しは自
分のことを考えてくれていただろうか?
「・・・・・い、いいえ、全然・・・・・忘れていました」
「・・・・・」
(可愛いな・・・・・マコ)
今の言葉、自分の声が震えていることに気づいているのだろうか。それこそ、真琴が己のことを忘れていなかったという証拠だと、
ジュウの頬には自然に笑みが浮かんでいた。
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