眷恋の闇
15
『』は中国語です。
以前も、こうしてホテルの一室でジュウと向き合った。
あの時はジュウと対立している人物が自分を連れ出して・・・・・江坂が助けてくれて、こうしてホテルに来たと思う。
「・・・・・」
「・・・・・」
どんな言葉を交わしたのかもう詳細は覚えていないが、それでも自分は海藤のことが好きだと、ジュウの元には行くことは出来な
いと伝えたはずだった。
あれから少し時間が経って、海藤と共に過ごした時間もそれだけ増えて、以前と同じように香港に行くことを誘われたとしても答
えは同じでしかない。
それなのになぜ、ジュウはまた自分の前に現れたのだろうか。
(ただの友達だったら・・・・・良かったのに)
久し振りに友人が遊びに来てくれたとしたら、それこそ喜んで出迎えることも出来たのに、ジュウはそんな生易しい存在ではなく、
明らかに海藤と対立する立場で目の前に立っていて、真琴は先ほどから肌を刺すような緊張感に呼吸するのさえ苦しいと感じて
いた。
「・・・・」
部屋の中には真琴と海藤、そして綾辻と倉橋がいて、安徳と城内は部屋の外で待機をしている。
ジュウはウォンと2人きりで、己はソファに座り、ジュウはその後ろに立つという、前と同じような体勢にいる彼らを見つめていた。
「率直に言います。このまま香港にお帰り下さい」
海藤がそう話を切り出すと、ジュウは僅かに口元を緩めた。
「まだ、所用が済んでいない」
「真琴のことなら・・・・・」
「マコをこのまま連れて行かなければならないからな」
「・・・・・」
海藤の表情は変わらず、身体も動いていない。しかし、一気に纏っている雰囲気が冷たくなってしまったような気がして、真琴は反
射的にその腕に手を置いてしまった。
「マコをこのまま連れて行かなければならないからな」
その言葉を聞いた途端、海藤は目の前の男の襟元に掴みかかりたくなるほどの激情を感じ、それを抑えるのに必死だった。
(勝手なことを・・・・・っ)
傍からは冷静沈着、感情が無い機械とまで評されたことのある海藤だが、愛する者を得てからは劇的にその心中は変化した。
もちろん、仕事に関してはそれまでのスタンスを崩すことは無かったが、その他のことに関しては・・・・・それが私生活に限れば、驚く
ほどに感情が豊かに溢れてくる。
ただし、愛しいと思う愛情の他に、愛する者を奪われまいという嫉妬心も同時に育っていて、何時もは綺麗にそれらを隠している
海藤も、ジュウを目の前にしてしまうとどうも駄目だ。
「・・・・・」
(真琴?)
その時、自分の腕にしがみ付く真琴の手に気がついた。視線を向けると、不安そうな目がじっと自分を見つめている。
「・・・・・」
海藤は息をついた。ここは冷静にならなくてはならない。
相手は香港マフィアの大物で、ただの男ではないのだ。
「申し訳ありませんが、今の言葉は撤回していただかなくてはなりません」
「お前がマコの気持ちを代弁するというのか?」
「それが、真琴の意志です」
「そうなのか?マコ」
ジュウが真琴に視線を向け、自分も同じように真琴を見下ろす。
先ほどまでは海藤にだけ向けられていた眼差しが、目の前のジュウに向けられて・・・・・揺れていた。
「・・・・・俺は、海藤さんと一緒にいます」
「マコ」
「・・・・・」
「ただ、共にいるだけか?」
「・・・・・っ」
真琴の肩が震えるのが見えた。
ジュウが何を言おうとしているのか、真琴が何を考えているのか今の時点では分からなかったが、それでもこのままジュウに話しをさ
せてはならないと感じた。
今の真琴は、あまりにも不安定なように見える。
「ロンタウ」
海藤はジュウに自分の立場を自覚してもらうよう、わざとその総称で呼んだ。
「あなたが真琴のことをどう思っているのか分からないが、私は離すつもりはないし、本人もそう言っています。第一、血に重きを
置くあなたの一族が、日本人の真琴を受け入れるはずが無いでしょう」
日本のヤクザは世襲制もあるが、盃を交わした者に名前と組を継がせることもある。
しかし、大陸のマフィアは血統を重んじる。代々、同じ血筋の者をトップに据え、その者が力が無く、ただの傀儡と化しても、存
在だけはあり続ける・・・・・そういった組織だ。
特に、日本に対しては含むところの多い香港マフィアのファミリーが、たとえ、圧倒的な権力を持っているジュウが連れ帰ったとして
も、日本人の真琴を受け入れるはずが無い。
(いや、そもそも、そんな可能性を考えることもない)
海藤は真琴を手放さない。
「諦めてこのままお帰り下さい」
「・・・・・カイドー」
「はい」
「以前、私がマコを連れ帰らなかったのは、組織の中の裏切り者を粛清するためと・・・・・真琴を連れ帰る準備をするためだ」
「・・・・・」
「そして、再び私がマコの前に現れたということは、その準備が全て整ったからだ。後は、お前がその手を離せば話は終わる」
「準備が・・・・・整った?」
(本気で、真琴を自分の一族の中に迎えるつもりなのか?)
ジュウが口からでまかせを言っていたとは思わないが、それでもかなりの確率でそれはジュウの暴走だろうと思っていた。
しかし、今の話を聞く限りでは、組織の中の反対分子も全て片付けたということで、今度こそ本気で真琴を連れて行く気なのだろ
うと海藤は拳を握り締めた。
見た限りでは目の前の男に大きな表情の変化は無い。
しかし、握り締められている拳を見れば、男・・・・・海藤が自分の言葉に大きな衝撃を受けたのだということは理解出来た。
「もう、私の側にマイナス要素は無い」
「・・・・・」
そう、全ての準備を整えるためにこれだけ時間が掛かってしまったのだ。
(マコを抹殺しようなどという愚かな者もいたしな)
ジュウが婚約を解消したということはそれなりに大きな事件で、周りの者はこぞってその理由を聞きたがった。
いや、その前にジュウの日本での行動をかぎつけ、真琴を攫おうとした馬鹿な一族の男のせいで、顔は見えないまでもジュウのお
気に入りが日本にいることが知られてしまった。
老人達の中には今だ過去に囚われている者も多く、圧倒的なジュウの権力を理解してもなお、その気に入りの日本人を消そ
うとした者達がいたが、ジュウは予め罠を張り、ロンタウの命に背いた者として一同の前で粛清をした。
それから何人も出てきた馬鹿な裏切り者は端から処分して行ったジュウ。
そんなジュウに反旗の声が上がらなかったのは、正当な血筋ということと共に、誰よりも残虐さと冷酷さを持つということもあるが、そ
れ以上に、圧倒的なカリスマ性と統率力持っているからだった。
ジュウは、確かに自分の意見に背く者を何の慈悲もなく粛清していくが、かといって理不尽なことばかりしているというわけではな
い。
今回の真琴に関しては私情が大きかったが、それ以外に関しては、厳しい大陸の闇の世界の中で生き抜くための力をジュウなら
ば持っている・・・・・皆がそう認めているからこそ、若くして大きな組織のトップに立った。
そのジュウが、全力を持って真琴を身の内に入れるために動いたのだ。
少々時間は掛かったものの、ある意味不可能だったはずのことをやり遂げ、今、ジュウはここにいた。
海藤とジュウの会話は、お互いが表情に出ることが少ないだけに淡々としているふうに見えたが、真琴はどんどん空気が冷たく、
重くなっていくのを感じる。
(海藤さん・・・・・怒ってる・・・・・)
ジュウの言葉に海藤が怒りを感じているのは分かるし、もちろん真琴も彼と共に香港に行くことなど考えられないが、以前はきっ
ぱりと自ら海藤との関係を伝えた時とは違い、今の真琴の心は微妙に揺らいでいた。
それは、大学4年生という今の自分の立場だ。
未だ就職先も決まらず、明確に何をしたいのかも決まっていない真琴の未来は不安定だ。海藤はゆっくりと考えたらいいと言って
くれているが、それが長引けば長引くほど、海藤に負担を掛けてしまうことになる。
今でさえ、生活面に関しては海藤が全て面倒を見てくれている(真琴がバイト代を出すと言っても受け取ってもらえない)という
のに、更なる負担などかけたく無いという気持ちがあるのだ。
「マコ」
「・・・・・っ」
そんな真琴の心の葛藤が見えるかのように、ジュウが優しくその名前を呼んだ。
「お前はどう思う?」
「お、俺は・・・・・」
「・・・・・」
「俺は・・・・・さっきも、言った・・・・・ように・・・・・」
「真琴」
声が尻つぼみになる真琴の肩を海藤が抱き寄せる。
「無理をするな」
「・・・・・っ」
自分が情けない。今もまた、海藤に助けてもらっている自分が、本当にまだまだ子供だと思ってしまった。
「カイドー、マコは私と話している」
「真琴の心の隙に入るのは止めてください。それは腕力を振るう以上に卑怯です」
「・・・・・何と言った」
ジュウの眼差しに冷たい怒りがこもる。
真琴は止めてくれというつもりで海藤のスーツを掴んだが、海藤はその手に自分の手を重ねてしっかりと掴むと、ジュウから目を逸
らさないまま続けて言った。
「今の時期、真琴が何を考え、悩んでいるか、頭の良いあなたなら予想がつくでしょう。弱った心の隙をついて唆すのなら、私は
このまま真琴を連れて席を立ちます」
「交渉を決裂するというのか」
「元々、これは交渉なんかじゃない。あなたが勝手に日本に来て、喚いているだけです」
「・・・・・こんな屈辱的な言葉を吐いてまだ目の前に立っているのは、お前が初めてだよ、カイドー」
ジュウの言葉が終わらないうちに、ウォンが動いたのが視界の端に映った。
こちらの条件をのませるために、所持品のチェックはしていなかった。
しかし、もちろんこちら側も万一のことは考えていて、倉橋などは海藤に防弾チョッキを着るように勧めていたが、これから来る真琴
はそんなものを着けていないし、頭を撃たれたら終わりだからと、海藤は何の武器も持たない状態でジュウと向き合った。
その代わりのように、控えていた綾辻のスーツの内側には銃が忍ばせてあり、ウォンが動いたと同時に綾辻は海藤と真琴の前に
立ちはだかってスーツの内側で銃を握った。
「・・・・・」
「・・・・・」
「どうした、アヤ」
ジュウが口元に笑みを浮かべて自分の名を呼ぶ。
その直ぐ側に立っているウォンの手には・・・・・何も握られていなかった。
「・・・・・ごめんなさい。うちの会長が苛められていたから、思わず身体が動いちゃって」
綾辻はにっこりと笑ってそう言いながら、ウォンの全身に視線を向けたが、どうやら銃を持っている様子はなさそうだった。
(人騒がせなんだから)
舌を打ちたい気分だが、これがわざとだということも分かっている。
誤解させるような行動を取り、こちら側が武器を向けたとしたら、その事実を盾にして無理難題を押し付けてくる気だったのだろう。
寸前で手を動かさなくて良かったと思いながら、綾辻は背後の海藤に謝罪した。
「お話の邪魔をしてすみませんでした」
「いや」
綾辻はそのまま身体をずらすと、海藤の直ぐ側に立ち位置を変える。
何時、どこで相手が仕掛けてくるか。いざとなれば海藤と真琴を自分の身体で守れる位置に立っておかなければと、綾辻は改め
て目の前のジュウとウォンを見つめた。
![]()
![]()