眷恋の闇
16
『』は中国語です。
(あ、綾辻さん、今・・・・・)
いきなり動き、自分と海藤の前に立ち塞がった綾辻。そこには意味があるだろうし、それはきっと自分達を守ろうとしてくれたせい
だと思った。
「・・・・・っ」
真琴が呆然と綾辻とジュウを見ていると、不意にギュッと手を握られた。
(・・・・・海藤さん?)
それは海藤で、真琴が視線を向けると僅かに目を細めて笑ってくれる。肌を刺すような緊張感が部屋の中を支配しているのに、
こうして海藤の存在を感じると不思議と少し落ち着いた。
(そう、だよな。ここにいるのは・・・・・香港マフィアって呼ばれている相手なんだ)
真琴にとっては初対面の印象が強く、何時も穏やかに、優しく接してくれたジュウのことをどこかで嫌いになりきれなかった。
しかし、改めて考えるまでも無くジュウは香港マフィアの組織のトップで、海藤よりも上に立っている相手なのだ。
惑わされてはいけない。
「ジュ、ジュウさん」
「どうした、マコ」
真琴から話し掛けたことにジュウは笑みを深くする。
自分の手を握る海藤の手にも力が込められたが、真琴はその手を握り返しながらジュウに改めて言った。
「俺は、日本から離れません」
「・・・・・」
「俺は、海藤さんの側にいます」
「マコ」
「真琴」
そう、自分の意志がはっきりしていれば、ジュウも妙な期待を持たないはずなのだ。
自分の中のどこがそんなに気に入られたのかは未だに分からないが、それでも真琴は彼と同行するほどにジュウのことを知らない。
いや、もしも彼のことを知っていたとしても、海藤のことを愛している自分は・・・・・揺らがない。
「ごめんなさい、このまま帰って下さい」
「・・・・・」
「ごめんなさい」
こんな謝罪でジュウは納得してくれるだろうか不安で仕方が無かったが、真琴は今こうして頭を下げることしか出来なかった。
「・・・・・」
優しい真琴は、これまで側にいた海藤のことを思い遣っているらしい。その心根はとても尊いものかもしれないが、今の真琴の中
には海藤の側にいてもいいのかという迷いも少なからずあるはずだ。
(お前の隙を、このまま私が見逃すと思うか?)
多分、このままジュウが引けば、真琴の中ではうやむやになってしまう思い。ジュウは組んでいる手に少し力を込めながら真琴に
問い掛けた。
「お前が海藤を裏切ることが出来ないと思うのは分かる。だが、このままで本当にいいのか?」
「・・・・・」
「マコ」
真琴の瞳が揺れている。
「私なら、お前をサポートするのに甘いばかりではない」
「ジュ、ジュウさん」
「香港に来れば、お前は新たに向かい合うことばかりだろう。それでも、充実した日々を過ごせると思うぞ」
(だから、来い、マコ。私の腕の中に)
自家用ジェットに乗せさえすれば、ジュウは真琴を己の腕の中から放すつもりは全く無かった。香港は日本よりも刺激的だが、マ
フィアの首領であるジュウにとっては危険と相反する街だ。そんな所を、真琴1人で歩かせるなどとんでもない。
海藤の庇護と、自分の庇護。真琴にとってどちらがより力のあるものなのか考えるまでも無いだろう。
「私と共に来なさい。それが、お前の新たな道の始まりとなる」
(そして、私の安らぎになって欲しい)
腕力や暴言で責めてこない分、ジュウの言葉が真琴の胸の中に確かに留まっていくのを海藤は感じていた。
今の時期・・・・・本当に今、なぜ現れたのかと思うものの、ジュウが明らかに狙っていたのだろうということは容易に想像がついた。
1人立ちしたいという真琴を海藤ももちろん応援するつもりだが、そこには愛情ゆえの甘えを許すという気持ちがあることは否め
ない。
将来のことを考え、迷う真琴に、ゆっくり決めたらいいのだと言ったのも、その間自分ならば真琴を十分支え、庇護することが出来
ると思ったからだった。
しかし、責任感の強い真琴は、そんな己を情けなく思っているのだろう。どうすればいい、どうしたら・・・・・そんな中のジュウの言
葉は確かに甘い誘惑だった。
知り合いがいない外国に行けば、嫌でも毎日緊張感を感じるだろうし、どうにかしなければという危機感も感じるだろう。
しかし・・・・・ジュウがただの真琴の後見人の位置に座るとは思えない。真琴が望まなくても、その腕の中に閉じ込めてしまう、そ
れこそ、日本の比ではなく、真琴には自由が無くなってしまうのは確実だ。
「・・・・・」
俯く真琴と、
「・・・・・」
そんな真琴をじっと見つめるジュウ。
「・・・・・」
海藤は握っている真琴の手をそのまま、いきなり立ち上がった。
「か、海藤さん?」
どうしたのだと驚いたように自分を見る真琴に一瞬だけ笑みを向け、海藤は再びジュウを見据えた。
「これで失礼します」
「まだ、マコの返事を聞いていない」
「返事は聞かずとも同じ、NOです」
「お前はマコの心の内が覗けるのか?」
揶揄するような言葉の中には、暗にお前は何も理解していないのだろうという皮肉が込められているのは感じた。
確かに、海藤は真琴の心中を全て計り知っているわけではないし、多分・・・・・今真琴が悩んでいるようなことはとても理解出来
ないと思う。
それでも、この手を離すつもりは無く、海藤は強引にでも真琴を連れ帰るつもりだった。
「真琴を香港に行かせることはありません」
「・・・・・」
「このまま引き取っていただければ、こちらからは何もする気はありませんが、これ以上真琴に係わるのでしたら私も覚悟を決めさ
せてもらいます」
「私は、大東組とも提携している組織の長だが」
「私が大東組を出れば、そんな柵など関係なくなるでしょう」
「えっ?」
さすがに驚いたように叫ぶ真琴に、海藤は頷いて見せた。
先日、大東組の新しい理事に就任するという話をしたばかりの自分が、その組織から出て行くということはとても信じられないこと
だろうが、海藤は口が滑ったわけではなく、本気でそう思うからこそ口にした。
(そもそも、俺が理事を受けたのは真琴のためだ)
真琴を守る力が欲しくて、理事になることを受け入れた。
それならば、真琴をこの手に留めておくために大東組という看板が邪魔ならば、海藤はあっさりとそれを捨てることが出来る。
真琴と何かを比べることなどしたことが無いが、海藤にとって優先すべきことは真琴と共にいることで、彼を離さないためならばど
んな手段も講じるつもりだった。
「お帰り下さい、ロンタウ」
(あなたがいる場所は、ここではない)
組織のトップに立つ人間の孤独は分かるが、それを癒すならば真琴以外の存在を捜して欲しい。海藤も、ようやく真琴を見つ
けたのだ、絶対に・・・・・手放さない。
『どうされますか』
一歩も引く様子の無い海藤を見ながらウォンが口を開いた。
このままこの部屋で海藤達を始末し、真琴を攫うのが一番仕事は早い。
『関心している』
『・・・・・』
『よくもこの私に、堂々と逆らうとはな』
冷静に考えて、ジュウと海藤では組織力はかなりの差がある。幾ら有能な部下がおり、海藤自身も優秀なトップだとしても、ジュ
ウに遠く及ばないだろうとウォンは確信していた。
一方で、よくジュウが黙って座っていると思う。彼は確かに短気ではなく、思慮深い性格だが、それでも長い間欲していた真琴を
前にして、なぜ直ぐにでも手を伸ばそうとしないのか。
『ここでカイドーを消せる確率は』
『70パーセントです』
『100ではないのか』
『あの部下は厄介ですから』
真琴と海藤が座るソファの直ぐ側に立っている男。
華やかな容姿で目立つのだが、不思議とその存在を消すことに長けている男。
こちらの調べでもその出生を全ては調べることが出来なかった謎の多い男だが、油断がならないほどに有能だということは分かっ
ている。
現に今も、こちらを見ていて、視線が合うとウインクをしてきた。
『私達の会話は全て聞き取っているはずです』
『なるほど』
ジュウは頷いた。
本当は穏やかな話し合いで真琴の側にいる権利を貰うつもりだったが、やはりというか・・・・・海藤は首を縦には振らなかった。
予測はしていたことだが、それも仕方が無い。
『マコの前で血を流すことは出来ないな』
『では、このまま帰すと?』
『別れを惜しむ時間は必要だろう』
『分かりました』
ジュウの言葉にウォンは頷いた。
日本に来る前に何カ国か回ってきたので、あまり長い間香港を空けることはしたくなかったが、ジュウが手荒なことをしたくないという
のならばこの場で海藤を殺すのは止めなければならない。
もっとも、ジュウが懸念するのは真琴の目だけなので、真琴がいない時にどれだけ血を流しても構わないということだろう。
(時間は掛けられないが)
ジュウの心の安寧のためにも、早く真琴をこちら側に連れてこなければ・・・・・ウォンはそう思いながら、頭の中でこれからのことを素
早く計算した。
『マコの前で血を流すことは出来ないな』
『では、このまま帰すと?』
『別れを惜しむ時間は必要だろう』
「・・・・・」
(ふ〜ん、余裕じゃない)
自分がこの会話を聞き取っているのだと知ったうえで、堂々と海藤を手に掛けるという話をする2人。綾辻は恐怖よりも感心し
ながら海藤の耳元に口を近づけた。
「いったん、引くようですね」
「・・・・・」
頷いた海藤の耳にも、ジュウ達の会話は聞こえているはずだ。簡単な中国語ならば海藤も分かるので、綾辻は話を訳す必要
は無かった。
それは、真琴に話の内容を聞かせないという必要からも助かった。真琴がもしもこの会話を聞いてしまったら・・・・・それこそ、海藤
を守る為にジュウのもとに行くと言い出しかねない。
(好きな相手のために自分が犠牲になるなんてナンセンスよ。好きならば、絶対に離したら駄目なのよ、マコちゃん)
しかし、今それを言っても真琴が頷くかどうかは分からなかった。
「カイドー、今日はこれで引こう」
「・・・・・はい」
「だが、私はもうしばらく日本に滞在する。前とは違い、今度は忘れ物をするわけにはいかないからな」
「・・・・・」
「・・・・・」
ジュウが立ち上がり、ゆったりとした足取りで扉へと歩いていく。そのドアをウォンが開くと、ジュウは一度真琴を振り返り、
「再見(サイチェン)」
と、言って笑った。
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