眷恋の闇
17
『』は中国語です。
ジュウが部屋を出て行くと同時に綾辻は動き、そのまま彼らの後を付いていった。
このホテルから彼らが何事もなく出て行くまでを見届けるのが綾辻の役目だからだ。
「真琴、大丈夫か」
「・・・・・」
「真琴」
呆然とソファに座ったままの真琴を見つめた海藤は、そのまま肩を抱き寄せた。
ジュウの毒気にあてられたと言えば話は早いが、多分真琴の中では今の話し合いで思うことがかなりあったのだと思う。それを一つ
一つ耳にし、全てに答えてやりたいが・・・・・。
「・・・・・ごめんなさい」
「・・・・・」
「ごめんなさい」
小さな声で何度も謝罪する真琴に、海藤は抱きしめる手に力を込めた。
「お前が謝ることは無い。彼がお前を欲しいと言うのは彼の思いで・・・・・」
「違う・・・・・っ」
思い掛けない強い否定が返ったかと思うと、真琴はそのまま海藤へと真っ直ぐに視線を向けてくる。泣いては、いない。だが、辛そ
うに表情が強張っている様が可哀想で、海藤は宥めようと頬に手を伸ばしかけた。
しかし、真琴はその手を拒むように首を横に振る。
「ちゃんと、断るつもりだったんです。俺は日本から、海藤さんの側から離れないって・・・・・っ」
「・・・・・」
「それなのに、一瞬でも迷った!本当に、このまま海藤さんの側にいてもいいのかなって、迷って・・・・・!」
「もういい、真琴」
「ジュウさんのことを海藤さんみたいに好きにはなれないの、分かってるのにっ、俺っ、俺っ」
それ以上、自分を責め続ける真琴を見たくなくて、海藤は強引に頭を抱き寄せて自分の胸に押し当てた。
(お前が言わなくても、分かっていた)
真琴が悩んでいるのは海藤にも感じ取れた。しかもそれは、真琴の言うようにジュウへの恋愛感情ということではなく、真琴自身
の進路に関してだということも。
真琴のために猶予を与えてやろうと思った自分の態度が、反対にこんなにも真琴を追い詰めていたのだと、海藤はここに来て自
分の態度を深く後悔していた。
「お前が悩むのは当たり前だ。この先の、お前自身の生き方のことだからな。だから、真琴、自分を責めないでくれ。お前が悩ん
でいるということも、おれは受け止めるつもりだ」
ただ一つ思うことは、そんなことで側から離れようと思わないで欲しいということ。
どんなに悩んでも、苦しんでも、そのせいで自分に当たっても、ずっと自分の隣にいてくれたら何も言うことは無い。
「・・・・・」
海藤はしっかりと背中にしがみ付いてくる真琴の手の強さを感じながら、それ以上は何も言えずに髪を撫でてやることしか出来な
かった。
海藤が優し過ぎるから、辛い。
全てを受け止めてくれるから、腹立たしい。
しかし、何よりもずるくて嫌な奴は、何時までも海藤に甘えきっている自分自身だ。
「お前が悩むのは当たり前だ。この先の、お前自身の生き方のことだからな。だから、真琴、自分を責めないでくれ。お前が悩ん
でいるということも、おれは受け止めるつもりだ」
「・・・・・っ」
もちろん、そんなことは考えていない。ジュウに好意を抱くことはあっても、それが恋愛感情に変化することは、無い。
自分は一度に2人を愛することなんて、出来ない。
「・・・・・社長」
「・・・・・っ」
(そ、だったっ!)
突然聞こえてきた遠慮がちな第三者の声に、真琴はここにいるのが海藤と自分だけではないことに改めて気づき、大げさなくらい
肩を揺らしてしまった。
こんな態度を取ってしまえば、優しいこの声の主は自分を責めてしまうと分かるから、さらに自身の態度を後悔する。
「申し訳ありません。社長、このままこのホテルに滞在することも出来ますが・・・・・」
「真琴」
動揺する自分を気遣って、あまり動かない方がいいと思ってくれたのかもしれないが、真琴は早く自分のテリトリー内に逃げ込み
たかった。
(俺って・・・・・卑怯だ)
「・・・・・帰ります」
「そうか」
「海藤さんは、このまま仕事に戻ってください」
「真琴」
「俺、安徳さん達と戻ります」
まだ日が高いこの時間、忙しい海藤には仕事が待っているはずだ。
自分のせいでその仕事を投げ出させてしまい、こんな不快な思いをさせてしまったのだと思うと・・・・・。それに、真琴は海藤と離れ
てもう一度自分の心の中を見つめたかった。
「・・・・・」
「大丈夫ですから」
海藤の視線が向けられているのは感じるが、怖くて顔を上げることが出来ない。
「・・・・・大丈夫」
海藤にというよりは自分自身に言いきかせるように真琴は呟いた。
「では、車を回しますので」
倉橋は一礼してからリビングを出て、扉を閉めた途端に無意識に息をついた。
(・・・・・失敗したな)
ジュウと会った空間に何時までも真琴がいたいと思うはずが無いのに、宿泊の可能性を訊ねてしまった。自分の配慮の無い言動
を後悔してしまった倉橋は、ますます表情を消して、待機していた安徳達に声を掛ける。
「車の用意を」
ジュウ達が退出したのは見ていたはずなので、それは十分予測していたことなのだろう、城内がはいと短く頷いて直ぐに部屋から
出て行った。
「このままマンションに帰宅されるんでしょうか」
「いや、社長は事務所に戻られる」
「・・・・・では、真琴さんお1人で?」
「・・・・・そうだ」
命令されたことには忠実に従う安徳が、思わずというように聞き返してきた気持ちは倉橋も分かる。
真琴を溺愛している海藤が、こんな状況で真琴を1人にすることなど、本来は考えられないことなのだろう。
(・・・・・だからこそ、なのか)
真琴の動揺を目の当たりにした倉橋は、海藤が身をきられる思いで真琴を1人で帰すのだということが分かった。
「・・・・・」
「・・・・・」
真琴の歳も、学年も分かっていたつもりだったし、そんな真琴を海藤が支えて、ゆっくりと将来のことを考えるのだろうと理解していた
が、真琴はこちらが思っていた以上に自分の進路について思い悩んでいたらしい。
人に言えば、慌てて職を見付けなくてもよく、愛する相手と同じ屋根の下で余裕を持って暮らせるというのはとても恵まれたことの
ように思えるのだが、真琴という人間はそこまでずるくなれないらしい。
「今日はもう向こうも接触はしないと思うが、くれぐれも身辺に注意してくれ」
「はい」
「社長のスケジュールはこちらで調整して、予定よりは早く帰宅出来るようにするつもりだ」
「・・・・・倉橋幹部」
「なんだ?」
早速頭の中でスケジュールの組み換えを始めた倉橋に、安徳が改めて訊ねてきた。
「・・・・・綾辻幹部の手伝いはしなくてもいいんでしょうか」
「綾辻さんの?」
「ロンタウ相手に、人手は足りているのでしょうか」
倉橋は安徳を見つめる。
安徳に任せたのは真琴のガードで、それはただの身辺警護ではないと本人も自覚しているはずだが、その上で綾辻のことを言って
くるとは思わなかった。
(あの人のことを心配していると?)
綾辻が安徳を可愛がっているということは聞いているが、実際に2人の関係を自身の目で見たことは無い。
今託された仕事以上のことを申し出てくるほどに綾辻のことが気になるのかと思えば少し・・・・・胸の中がざわめくものの、倉橋は
表面上は感情の揺れを全く見せずに言った。
「お前は、任されたことに専念しろ」
「分かりました」
自ら言ったことを簡単に引くことが出来るのかと思ったが、安徳は直ぐに納得したように頷く。
自分と似て、安徳もあまり表情に出る方ではないようで、倉橋の言ったことを本当はどう思っているかなどは見た限りでは分からな
かった。
(10・・・・・15・・・・・20、くらい?)
エレベーターに乗ったジュウ達を追い掛け、久し振りに階段を駆け下りたが、その階段の途中でも明らかに一般客ではないよう
な男達とすれ違った。
途中、ジュウ達よりも下の階で別のエレベーターに乗り、一足早くロビーに着いて柱の影に待機をする。
彼らの乗ったエレベーターが開くと、歩くジュウに引き寄せられるように次々と現れる男達の姿は、こちらが予想していたよりも多い
気がした。
(ホント、侮れない男よね)
「・・・・・」
(あ、目が合っちゃった)
明らかにこちら側の存在に気づいていたらしいジュウは、綾辻と目線が合った時に少しだけ笑みを浮かべると、顎を動かして来いと
いう合図を送ってきた。
どうするかと迷ったのは一瞬で、綾辻は直ぐに柱の影から姿を現すと、モデルのように堂々とした優雅な足取りでジュウの面前に
立った。
「先ほどは驚かせてごめんなさい」
日本語で話し掛けたのはわざとだが、ジュウもそのまま日本語で答えてきた。
「いや。思いがけず反応が良くて、こちらの思惑どうりにはならなかった」
「ふふ、それなら良かったけど」
この香港マフィアのトップに銃を突きつけていたら、それこそ笑ってここにいることは出来なかったかもしれない。
綾辻は全く気にしていない風なジュウに訊ねてみた。
「今後もマコちゃんの前に現れるのかしら?」
「私はマコを連れ帰るために日本に来たのだからな」
「本人が嫌がっていても?」
「お前の目にはどう見えた」
「・・・・・」
真琴の迷いにつけ込むジュウを卑怯だと言うのは容易いが、そこまで真琴が追い詰められていたことに気づかなかった海藤を含
めた自分達も反省しなければならないだろう。
もちろん、真琴が海藤を捨てることなど考えることも出来ないが、目の前の抜かりの無い男がどんな手を使ってくるのかを全て想
像するのは難しい。
「アヤ、お前も何時でも組織に迎え入れてやろう。出来る人間は何人いてもいい」
本気か、それとも動揺を誘うためかは分からないが、ジュウは最後に笑って軽く手を振って歩き始める。
その後に続く明らかに異国の男達の列に、綾辻は思わず舌を出してしまった。
「綾辻幹部」
「あら、車?」
「はい。あの、彼らは?」
「帰っちゃったわ。今日はもう何も無いと思うけど、笑って嘘をついちゃう人達だから気をつけてね」
綾辻の例えに城内は少しだけ笑い、それでも律儀に分かりましたと答えてきた。
真琴のガードにつけるほどに有能でありながら、人当たりの良い城内は可愛い犬に見える。この犬を顎で使うのは気位の高い猫
だが。
「アンちゃんももっと笑えばいいんだけどね〜」
「え?」
「そう思わない?」
どこをどう巡ってそんな言葉になってしまったのか自分でも分からなかった綾辻だが、
「そんなの、勿体無いじゃないですか」
直ぐにそう返してきた城内の言葉に、少し驚いて目を瞬かせてしまった。
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