眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 「何かあったら直ぐに連絡をして来い、いいな?」

 ホテルの前で別れた時に言われた海藤の言葉に頷きはしたものの、真琴は自分の我が儘で海藤の仕事を邪魔するつもりは無
かったし、海藤と離れて今回のことをよく考えてみようと思った。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 運伝している城内も、隣に座っている安徳も、先ほどのジュウとの会話のことは全く口に出さない。それは、海藤の個人的な問
題には関与しないという姿勢からかもしれないが、真琴を気遣ってという部分もあると思う。
(・・・・・申し訳ないな)
 今回のことは、海藤達にとっては本来考えなくても良かったはずの問題で、自分がジュウと係わりを持ってしまったせいで余計な
仕事を増やしてしまった。
多分、海藤は・・・・・いや、彼だけでなく、綾辻も倉橋も、ここにいる安徳や城内だってそう思っていないだろうとは思うものの、本
当にどうしていいのか分からない。
 「・・・・・」
 溜め息をつくと、一瞬視線が向けられるのが分かった。
(ご、ごめんなさいっ)
なんだか、何をしても卑屈になってしまいそうだ。




 マンションに着いても、まだ夕食の仕度をするには早い時間だった。
 「あの」
 「はい」
玄関先に立った真琴は、少し躊躇ったが思い切って安徳達に言った。
 「お茶、飲みませんか?」
 「・・・・・」
 「あ・・・・・えと、仕事が忙しいなら・・・・・」
 「いいえ、頂きます。城内」
 「はい、お邪魔します」
 2人は断りを言って靴を脱ぎ始める。
1人になりたいくせに、この広いマンションの中で海藤が帰って来るまで1人でいることが居たたまれない気もして引き止めた。随分
我が儘だと思うが、それでもこうして来てくれる2人の気持ちが嬉しい。
 守ってくれるという彼らの行動が海藤の命令からだとしても、その言動の細部までは海藤の意を酌んでというより、彼らの自発的
なものだと思えた。

 「もらい物なんですけど、シュークリーム、食べてください」
 コーヒーと共に出した箱を覗き込んだ城内が苦笑した。
 「これ、社長のじゃないんですか?」
 「海藤さんは甘い物あまり食べませんから」
 「じゃあ、頂きます」
しばらくは無言でコーヒーを飲み、シュークリームを食べた。
安徳達のために出したつもりだったが、先ほどのジュウとの対面は思った以上に疲労を蓄積していたようで、甘い物がとても美味
しく感じた。
(・・・・・嫌いじゃなかったかな)
 城内は美味しそうに、安徳はあまり表情を変えなかったが、2人の食べるスピードは真琴に安心感をもたらしてくれる。
少し落ち着いたせいか、真琴はコーヒーカップを両手で持ったまま、あの、と、2人に向かって切り出した。
 「お2人から見て・・・・・ジュウさんの言ってること、本気に思えますか?」
 「個人的な意見で言えば、十分本気だと思います」
 カップを置いた安徳が真っ直ぐに真琴を見つめた。
 「そもそも、彼が私的な用で来国すること自体特筆すべきことなんです」
 「え?」
 「香港マフィアの中では香港伍合会はかなり大きな勢力です。しかし、日本のように生温い馴れ合いなど無い世界ですから、
何時自分が追われるか、基盤を強固にしていなければ翌日には死体になって転がってしまう可能性もある。そんな中、海外の仕
事を終えてわざわざ日本に来るなんて、彼にとって真琴さんの存在がそれ程大きいということでは無いでしょうか」
 「海外、から?」
 「香港伍合会は珍しく対外的にも資金援助や部分協力をしているものが多い組織で、今回もアメリカで大きな取引があったよ
うです。本当なら、その成果を持って直ぐに帰国するのが妥当ですが」
 「・・・・・」
(俺のために、わざわざ日本に寄ったってこと・・・・・?)
 「真琴さん」
 「あ、はい」
 「私は彼を擁護するつもりはありません。彼はあくまで社長に不利益を与える存在で、排除すべき存在だと思います。ですが、こ
のまま気の迷いだと口先だけで誤魔化して一時凌ぎをするのはあまり好ましくないと思います」
 淡々とした安徳の言葉は真琴の胸を貫いた。
確かに、自分はどこかでジュウの告白は彼の気の迷いだと誤魔化そうとしていたところがあった。どちらかといえば、その言葉の中に
あった自身の大学卒業後、進路のことの方が気になったくらいだ。
 全く別の問題のはずなのに、今という時期がそれをくっつけてしまい、さらに問題を複雑にしているように見えるが、ここはもっとシン
プルに考えた方がいいのかもしれない。
 大切なのはただ一つ。

《この先も、ずっと側にいたいのは誰か?》

海藤の気持ちも、ジュウの気持ちも聞いた。後は、真琴自身がはっきりと答えなければならない。その上でジュウがどんな反応を
するのかも気になるが、その時はその時で考えよう。
少しだけすっきりした気分になった真琴は、残ったコーヒーに再び口をつけた。




 海藤は倉橋が入れてくれたコーヒーに口をつけた。
(・・・・・甘い)
僅かだが、砂糖が入っているようだ。海藤の好みを熟知している倉橋が失敗をするわけは無く、これが自分の身体を気遣ってのこ
とだと直ぐに気がつくことが出来た。
(余計な心配をさせているな)
 極々私的なことだというのに、組の力を動かしている己を責めることなく、こうして積極的に手伝ってくれる部下達の思いが嬉し
い。
 「・・・・・」
 ただ・・・・・彼らに感謝しているものの、心の大部分を占めているのはやはり真琴のことだった。
自分とジュウを比べるということではないだろう。それはあくまでも真琴自身の問題だと思うが、少しの相談もないというのが寂しく
感じた。
 このままでは、真琴はさらにジュウに追い詰められてしまうかもしれない。どんな手段を取るのか分からないだけに、様々な場合を
シュミレーションするものの、最後は・・・・・真琴次第なのだ。
 その時ドアがノックされ、綾辻が顔を覗かせた。
 「ジュウは都内のホテルに入りました。もう身を隠すつもりは無いんでしょうね」
 「そうか」
 「本国の方では特に動きは見られないようです。でも、そうだとするとジュウが部下達にマコちゃんの存在を既に認めさせたってこと
かもしれません」
綾辻の言葉に、海藤はさらに状況が悪くなっていると感じる。
以前は、ジュウの組織の中の裏切り者が暴走したが、今回はそんな話も無いようだ。そこから想像出来ることは、既にジュウは真
琴を組織に入れることを想定し、内部の反乱分子を全て排除したということではないだろうか。
 「・・・・・」
 問題はさらに厄介になったかもしれないが、ここで溜め息をついていても始まらなかった。
 「大変ですね、社長」
綾辻も分かっているかのように苦笑を向けてくる。
 「モテる恋人を持った宿命かも」
 「・・・・・そうだな。一番最初に手に入れたからといって、安心している方が間違いなのかもしれない」
 「あ〜、なんか、身につまされる言葉かも」
 「お前もか」
 「本人に自覚が無いのが困りものですよねえ」
 タイプは全く違うが、真琴と倉橋は人の好意に鈍感な所は似ているかもしれないと思わず笑うと、再びドアがノックされ、噂の主
が姿を現した。




 「・・・・・何です?」
 入るなり、2人に笑われた。いや、声を出して笑ったのは綾辻だけで、海藤は目を細めたくらいだが、それでも何を話していたのか
気になってしまう。
 「何を話していたか聞きたい?」
 「・・・・・いいえ、結構です」
 嬉々とした綾辻の言葉に思わず拒否をした後、あっと口の中で舌を打った。
頭の良いこの男はあんなふうに聞けば自分が拒否することが分かった上で、わざとこんな言い方をしたのだと気づいたからだ。
 「・・・・・」
 たった今言ったばかりの言葉を取り消すことは出来なくて、最後の抵抗のようにチラッと綾辻を睨むと、そのまま海藤の元に歩いて
行く。
 「大東組本部から連絡が来ました。新理事のリストと、披露目の詳細です」
 「・・・・・」
 差し出した紙を見た海藤が顔を上げた。
 「上杉会長は断ったのか?」
 「そのようです。江坂理事の説得も通じなかったようですね」
 「勿体無いな」
海藤の言葉に倉橋も頷いた。羽生会の上杉は一見無責任な軽い男に見えるが、その実懐が大きく、言動にも力がある。
カリスマ性も持ち合わせていて、このリストに名前を連ねている者達よりも遥かに高い能力があるのだが・・・・・次期総本部長に内
定した江坂の言葉もあっさりと断ったことだけを見れば、やはりただの空気が読めない男、なのかもしれない。
 「これで承知したと伝えてくれ」
 「分かりました。明日、伺って伝えます」
 「頼む」
 倉橋はしっかりと頷いた。
海藤がジュウの件に気を取られている間、こちらの対応は自分が完璧にしなければならないと、倉橋は任された責任の重さをしっ
かりと受け止めていた。




 「・・・・・お帰りなさい」
 「ただいま」
 午後7時を過ぎた頃、玄関のインターホンが鳴った。
何時ものように玄関先で外から鍵が開けられるのを待っていた真琴は、顔を見せてくれた海藤に向かって少しだけ強張った笑みを
向ける。
 まだ、気持ちに余裕が無かったが、それでも昼間よりは随分と落ち着いた。
海藤の帰りを待って料理を作っていた時などは、それに没頭出来たくらいだ。
 「お疲れ様です」
 「ああ」
 真琴の後ろに立っていた安徳達はそう挨拶をして海藤が上がってくるのを待ってから、真琴に向かって頭を下げて言った。
 「それでは、また明日」
 「あ、あのっ、今日はありがとうございました!」
ありきたりの言葉になってしまったが、真琴は思いを込めて頭を下げる。すると、
 「今日はご苦労だったな」
真琴の隣に立った海藤の口からも、労いの言葉が零れた。
 「いいえ、当然のことですから。・・・・・失礼します」
 「おやすみなさいっ」
 帰っていく2人を見送り、鍵を掛けて振り返ると、海藤がじっと自分の方を見ていたのが分かった。
 「・・・・・」
 「今日は、す・・・・・ありがとうございました」
すみませんというよりもこちらの言葉の方がいいのではと思って言い換えたが、海藤の目元が優しく綻んだ様を見て、真琴はその自
分の判断が間違いではなかったと思った。