眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 安徳が戻ってきてくれた。
真琴はそれだけで何だか泣きたいくらい安心したが、真哉の安否は未だはっきりせず、それをジュウに聞くために廊下に移動しなが
ら話し続けた。
 「弟はっ?真哉は一緒なんですかっ?」
 【おかしなことを言う。拾っただけだと言っただろう?】
 「本当のことを言ってくださいっ」
 自分は何をされても良かった。いや、もちろん怖いことや痛いことは嫌だが、それが何も知らない弟に向けられることを思えば全然
我慢は出来る。
ジュウが中学生の真哉にまで手を出すとは思いたくないが、彼がいったいどんなことをするのか全く想像出来ない真琴は、とにかく
真哉の無事を願った。
 「綾辻さん、私です」
 そんな電話をしている間に、安徳が綾辻に連絡を取っている。真哉のことを知らせているのかもしれないと思ったが、今は電話の
向こうのジュウの言葉に耳を傾けることが最優先だった。
 「俺はっ、どうしたらいいんですかっ?」
 【せっかくマコがそう言ってくれるのなら、お前と2人で話がしたい】
 「・・・・・わ、分かりました」
 【大学の門の外にウォンを待たせている。1人で車に乗りなさい、いいね】
 「真哉は、真哉のことはっ」
 【私を信じてくれるだろう?マコ】
 電話の向こうのジュウの言葉は穏やかで、話の内容と全く合っていないと感じた。
始めから、真琴に対してはジュウは優しく、本当にマフィアのトップかと思うほどに穏やかな性質だと思っていたのに、今ではその認
識は全く正反対になってしまった。
 あの優しい顔のまま、どんな卑劣なことでもしそうだと、そんな風に思ってしまうこと自体悲しくてたまらないが、今の真琴はまず真
哉の安否だけが大事だった。
 「真琴さんっ?」
 まだ電話で話している安徳の横をすり抜け、真琴は来た道を走って戻る。
早く、少しでも早くジュウの言う通りにしなくてはならないと、それだけを思ってキャンパスを突っ切った。
 「待ってくださいっ」
 電話を切った安徳が必死に止めようとするが、真琴の足は止まらない。
 「真琴さんっ」
 「来ないで下さいっ」
 「・・・・・っ」
 「お願いしますっ、来ないで下さい!」
まだ早い時間なのでそれ程学生の姿は多くなかったが、それでも一見揉めているように見える真琴達に視線を向ける者は多い。
しかし、そんな視線を気にしている場合ではなかった。
 「1人で行かなくちゃいけないんですっ」
 「罠ですっ、とにかく一度落ち着いてっ」
 「ごめんなさい!」
 言い合っているうちに校門の前に着いた真琴は、そこに止まっている外車に目がいった。
真琴の到着を見たのか、後部座席が開いて出てきたのはウォンで、相変わらず表情の変化がないままに真琴に視線を向けると、
どうぞと後部座席を指し示す。
 「あのっ」
 真琴は直ぐに真哉のことを訊ねようとしたが、そんな真琴の前に立ち塞がった安徳が厳しい口調でウォンに言った。
 「彼の家族に手を出すなどという卑怯な真似をして恥ずかしくないんですか」
 「・・・・・」
 「あなたの上司は、そんな姑息な手を使うことしか出来ないということですか」
 「安徳さんっ」
安徳が挑発するために嫌な物言いをしていることに気づいた真琴は、止めてくださいと彼のスーツを掴む。ウォンが怒ってしまったら
真哉に何をされるのか、想像するだけで怖くて、何もしゃべって欲しくないとその身体を揺すった。




 「止めてくださいっ」
 真琴が必死に自分に哀願してくるが、それでも安徳はここで退くことは出来なかった。
真琴をここで連れ去られてしまうのが最悪の状態だ。いくら人目があるといっても、この男達は日本で何をしたとしても一向に構わ
ないと思っているに違いない。
(絶対にここで行かせるわけには・・・・・っ)
 見据える安徳に、ウォンはしばらくそのまま視線を返したが、やがてチラッと車の方を見た。
 『助手席でお前を狙っている』
 『・・・・・っ』
 『この場でみすみす撃たれて倒れても良いのか』
 『それは・・・・・』
 「安徳さんっ、何を話しているんですっ?」
中国語で会話をしている自分達の話の内容は真琴には全く分からないらしい。弟のことを話しているのではないのかと必死に訴
えてくるが、安徳の眼差しは全く中が見えないようにされている車の助手席から動かなかった。
(あそこで、銃を構えている?)
 それが単に言葉の上での脅しか、それとも事実なのか。
今この瞬間に判断しろと言っても出来るものではない。いや、明確な殺意があれば気配は分かるはずだが、こういうことに慣れた、
まるで機械のように感情の無いヒットマンがそこにいたとしたら・・・・・。
 「・・・・・っ」
 安徳は舌を打つ。完全に、こちらが追い詰められた形になった。
(真琴さんの弟の安否が全く分からないんじゃ動きようが無い・・・・・っ)
綾辻からの折り返しの返事が来るまで後どのくらいか、安徳はただ焦るばかりで何も出来ない自分が情けない。
 「マコ」
 そんな安徳を全く無視をし、ウォンはもう一度真琴の名を呼んだ。
 「真琴さんっ」
 「・・・・・ごめんなさい」
真琴は安徳に頭を下げると車に乗り込んでしまい、続いてウォンがその隣に身体を滑り込ませる。
直ぐに止めようと手を伸ばした安徳だったが、

 シュッ

 「!」
空を切る音が耳の直ぐ脇を通り抜けたことに気づき、反射的に顔を上げれば、僅かに開いた助手席の窓から覗く冷たい塊にハッ
とした。
(こんな場所で発砲かっ?)
 消音銃を使ったが、その威力が死んだわけではない。もしも流れ弾に当たって学生が倒れたとしたら・・・・・そんな可能性を考え
るだけでぞっとしたが、その間に車は無情にも走り出してしまった。




 「芳さん!」
 「黒のベンツッ、ナンバーは・・・・・っ」
 呆然としたのは一瞬だった。
安徳はようやく駆けつけてきた城内に車の手配をさせると、直ぐに裏門に待機させている車を呼び寄せる。
 「!」
 通話を切ったと同時に鳴った電話の相手は、待ち望んだ綾辻からだった。
 【真ちゃんの無事は確認取れたわっ、ジュウはあの子の身柄を確保していない!】
その言葉に、安徳はホッと息をつきかけたが、もちろん問題はこれからだ。
 「申し訳ありませんっ、たった今ウォンが真琴さんを連れて行きました!」
 【ウォンがっ?】
 「今城内にナンバーの照会をさせています。私は今から後を追って、逐一報告しますからっ」
 【発信機は大丈夫っ?】
真琴の持っているペンケースの中には、万が一のために小型の発信機を忍ばせている。性能の良いそれは数キロ範囲内での位
置を指し示してくれるはずだった。
 「はい、今のところ確認出来ていますっ」
 綾辻の電話に答えている安徳の目の前に車が滑り込んできた。安徳は城内が素早く開けてくれた後部座席に乗り込み、城内
はそのまま助手席に座る。
 【向こうも馬鹿じゃないから直ぐに気がつくはずよ。とにかく一刻も早く追いついて監視してっ】
 「了解っ」
 電話は切れ、安徳は直ぐに運転手に現在位置を言った。
 「城内、別の車も用意していろ」
 「芳さん、真琴さんの弟は・・・・・」
 「無事だそうだ」
 「・・・・・」
言葉短く答えれば、城内の顔にもホッとした色が浮かぶ。
しかし、これで安心は出来ない。いや、今からがジュウとの本当の対決が始まるのだと思い、安徳の背筋には普段感じない冷や
汗が滲んだ。
(あの男・・・・・少しの感情の揺れも無かった)
 淡々と、ただ命じられたことだけを遂行するウォンはまるで機械のようで、その機械に人間が勝てるのだろうかと思ってしまう。
 「・・・・・いや、勝つ」
 「芳さん・」
 「・・・・・」
(負けるはず、ない)
必ず、真琴は海藤の手元に無事に帰すのだと、安徳は注意深く発信機の動きを目で追った。




 「・・・・・そっ」
 綾辻は電話を切るなり鋭く舌を打った。こんな風に感情を露にするのは滅多に無く、もしもこの場に他の組員がいたとしたらあま
りのギャップに驚いただろうと思う。
 「あの野郎っ、素人の身内を引き合いに出すなんて反則だろーがっ!」
 城内からの連絡を受け、直ぐに真哉をガードさせている者に連絡を取った。
授業中だったので少し時間が掛かってしまったが、それでも無事に授業を受けている姿を確認したと聞いた時、綾辻は昨日報告
を受けていたことを思い出した。

 【ボヤ騒ぎがありました】

 校内で火災警報器が鳴り、全校生徒が一時避難する騒ぎがあったらしい。どうやら何者かの悪戯のようで、直ぐに安全が確
認されて皆教室に戻った・・・・・。
 その報告を聞いた時、綾辻は一瞬何かが引っ掛かったが、真哉に直接何者かが接触した様子も無かったということで、その心
配もやり過ごしたのだが。
 「もしかして・・・・・その時に携帯を盗んだのか?」
 真琴が家族を大切にしていることを知って、一番弱い立場である末の弟の存在を利用するなどあまりにも卑劣過ぎる。
 「綾辻」
その時、何時に無く荒々しく扉を開いた海藤が姿を現した。
 真琴のことにだけ神経を集中したい所だろうが、直ぐそこに迫った披露目のための、海藤が出なければならないことも多く、今日
はたまたまその所用で出かけていた時にこんなことが・・・・・。
 「申し訳ありませんっ」
 綾辻は直ぐに頭を下げた。
 「ウォンがマコちゃんを連れ去って車で逃走しています。今安徳と城内が追っていますが・・・・・」
 「どこに向かっている」
 「千葉方面です」
まだ車は走り続けているのではっきりとした目的地は想像でしかないが、海藤は直ぐに思い当たったように呟いた。
 「成田か」
 「おそらく」
 綾辻も同じことを考えていた。
直ぐに行動には出ないようなことを言っていたが、このまま真琴を空港まで連れて行き、一気に香港につれて行こうとしているのだろ
う。
あの男に掛かれば、真琴がパスポートを持っていなくても関係ない。それだけの力があるのだ。
 海藤は一瞬、拳を握り締めて目を閉じていたが、直ぐに書棚に向かうと、その裏の隠し棚から拳銃を取り出した。
 「社長」
それを使うようなことがない方がいいのは当たり前だが、それさえも覚悟しているのだと綾辻には感じ取れた。
 「現在位置は?」