眷恋の闇
22
『』は中国語です。
『直ぐに例の場所へ』
『はい』
車が走り出すと同時にウォンは運転手に言った。
「弟はっ?真哉は無事なんですかっ?」
そんな自分に、隣に座っている真琴が咳き込むように話しかけてきた。
(肉親のことなどで動揺するとは)
幼い頃、既にジュウに仕えることが決まっていたウォンは親元から離されていたので、本来肉親に感じるだろう情愛というものを全
く知らない。
ジュウのために。
ジュウだけが。
ウォンの感情は全てそこに結びつき、満足に武器も使えず、金も稼げなかった頃もジュウのもとを離れなかった。
そんなウォンの気持ちを知ってか、ジュウは己に対して最高の教育・・・・・経済学、暗殺の技も、全ての知識を与えてくれて、ウォ
ンはますますジュウに傾倒していった。
歳はそれ程離れていなくても、ウォンにとってジュウは育ての親も同然だ。彼が己を重用してくれる限り、いや、たとえ彼に見限ら
れてしまったとしても、ウォンはジュウのために生き続けることを誓った。
「教えてください!」
真琴の弟への思いと、己のジュウへの思いの種類は全く違うことは分かっていたが、それでも多少は似ているのかもしれないと少
しだけ・・・・・そう思えた。
車に乗り込んだ真琴は直ぐにウォンに訊ねた。
「弟はっ?真哉は無事なんですかっ?」
自分がこの車に乗れば、その安否を直ぐに教えてもらえる・・・・・真琴はそう信じ込んでいた。
「・・・・・」
「教えてください!」
もしもまだ、真哉がジュウの側にいるのだとしたら、どんなことをしても解放してもらわなければならない。
真哉は海藤の裏の生業を知らない、本当にただの中学生だ。大切な弟に危害を加えられたら自分でもどうするか分からないと考
える真琴の思考を読んだのか、ウォンが前を向いたまま淡々と言った。
「私は、あの方がなぜお前を望まれるのか分からない」
「え?」
唐突に話し出したウォンの日本語は完璧だった。ジュウのために、彼はここまで語学能力を高めたのだろう。きっと、それは自分の
ためなのだろうと、真琴は漠然と感じた。
「それでも、初めてあの方が欲しいと言われたんだ。私はどんなことをしても任務を遂行する」
そう言って振り返ったウォンの眼差しには、僅かな熱が見えた。
「逆らうな。逃がしてはならないとは言われたが、傷付けてはいけないと言われてはいない」
「あ、あのっ」
「・・・・・」
「弟はっ?」
「・・・・・無事だ」
既に真琴を捕獲したので本当のことを言ってもいいと思ったのか、ウォンは思ったよりもすんなりとその事実を教えてくれた。
信じられるのかなど、考えてはいなかった。ただ、伝えられた事実にホッとして、身体の力が抜けそうだ。
(真ちゃんは無事・・・・・絶対、無事)
あのまま置いてきてしまった安徳が、きっと真哉の安否を確認してくれるはずだ。こんな時も人任せなことを考えてしまうのが申し
訳ないが、今の真琴には他にどうすることも出来ない。
(・・・・・ごめんなさい、海藤さん)
そして、また海藤に心配を掛けてしまった。
ジュウとのことはあくまでも真琴自身の問題であるのに、どうしても彼に迷惑を掛けてしまうことを避けられなかった。
今もこうしてウォンと共にジュウのもとに向かっている自分を心配してくれているはずだ。
「それを」
「え?」
「確認させてもらう」
「あっ」
いきなり、ウォンは真琴の鞄を奪ってしまった。
まず携帯の電源を落とし、続いて鞄の中を探って・・・・・不意に、眉間に皺を作る。
『姑息なことを』
「え?」
なんと呟いたのか聞き返す真琴に何も答えず、ウォンは窓を少しだけ開けると、鞄の中に入れていた手を引きだし、そのまま外へ
と差し出した。
(何、してるんだ?)
「発信機があった」
その言葉に真琴はパッと窓の方を見るが、既に捨てられた発信機を取り戻すことなど不可能だ。
「その分では、身にはつけていないようだな」
「・・・・・」
(そこまでしてくれていたんだ・・・・・っ)
海藤達がもしものことを考えてとってくれていた手段。それを安易に相手に知られてしまったことが悔しい。
多分、ウォンは自分のことを御しやすい子供だと思っただろうが、それに反論することも出来ない自分が情けなかった。
「・・・・・っ」
後悔してしまうのは今更だが、それでも真琴は海藤のもとに帰るつもりだ。このままジュウのもとに行って、それきりになんて絶対に
ない。
海藤の思いも、自分の思いも、真剣に話し合ってやっと未来に向かって進みだそうとした矢先なのだ。
真琴は何度も自分の中でそう言いきかせると、俯きそうになる顔を頑張って上げ続けた。
綾辻の部下である久保の運転で、海藤は発信機の行方に目を走らせていた。
携帯のGPS機能はもちろん、考えられる手段は全て講じていたはずだが、それでも完璧だと言うことはジュウ相手にはとても言えな
かった。
「・・・・・見付かった」
「え?」
助手席に座ってパソコンを操っていた綾辻が、海藤の言葉に顔を向けてきた。
「5分前から位置が変わらない。多分、そのまま捨てられたな」
「・・・・・っ、細かい男は嫌われるってーのよっ」
綾辻はそう吐き捨てたが、2人にとってこれは想定内のことだった。むしろ、車の方向を想定出来るだけの時間、あの鋭いウォンに
見付からなかったらしいことの方が驚きだ。
(真琴・・・・・っ)
今、真琴はどんな思いでウォンといるのだろうか。傷付けはしないだろうが、それでも心が傷付くことを止めることは出来ないはず
だ。
さらに、弟のことまで持ち出されて、どんなに不安に思っているだろうか。
「綾辻、真琴の家族のガードは」
「人数も増やしました。こちらは心配いりません」
「分かった」
実際に真琴を手に入れたジュウが、さらに真琴の家族に手を出すことは無いと思うが、全てが解決するまでは用心を重ねた方が
いい。そんな海藤の気持ちを綾辻も理解し、手配をしてくれているようだ。
「・・・・・」
(大切な者が多いというのは、悪いことではない・・・・・絶対)
真琴が弟のことを思ってウォンに同行した気持ちも、今の海藤ならば理解出来る。もう何度も会った真哉は、海藤にとっても顔
見知りの他人ではなく、既に身内なのだ。
(真琴、絶対に後悔するな)
真哉を選んで1人ジュウのもとに行こうとした自分の判断を絶対に後悔しないで欲しい。その時の真琴は、きっとそれが一番良
い方法なのだと思っただけだ。
そして、その真琴を自分は必ず取り戻す。海藤はそう思いながら、今度は持ってきた資料に目を走らせ始めた。
「・・・・・」
「絶対にあるはずですよ」
「・・・・・」
「完璧な人間なんていない。そんなのがいれば、機械になっちゃった方がいいもの」
海藤の気配に綾辻もパソコンに視線を戻し、自分自身に言いきかせるように言っている。
完璧を誇る組織だとしても、絶対にどこか・・・・・それこそ、針の穴のような穴が知らぬ間に開いているはずだ。そこを強引にこじ開
ければ、力では格下のこちらにも勝機は見付かると海藤は信じている。
(ここ数年、真琴・・・・・日本人を受け入れるために行った粛清に、絶対反意を持っている者達がいるはずだ)
ジュウの組織を壊滅に追い込もうとは思わない。ただ、二度と真琴に手を出させないようにこちら側がどれ程本気なのかと分から
せるために、海藤はジュウが手を上げるまで追い詰めるつもりだった。
「行方の分からないものは・・・・・10数名ですね。降格は30余名」
「組織の中に日本人を入れたくないと思うものは意外に多いはずだ。たとえそれが幹部などで無く愛人だとしても、ロンタウのジュ
ウの側にいるということは組織の中枢の秘密に係わるということでもあるしな」
「ああいう立場の人間はワンマンが多いけど、ジュウはただの馬鹿でもないですしねえ」
綾辻の物言いに思わず目を細めた海藤だったが、ある書類に思わず目を止めた。
「・・・・・綾辻」
「はい?」
「この、降格の幹部の中の人間、名前を見たこと無いか?」
「え?」
海藤が紙を差し出し、綾辻の反応を見る。綾辻は粛清された者達の親類縁者の方を見ていたので気づかなかったかもしれない
が、
「あっ」
海藤がその名前を言う前に、綾辻の記憶の中からもその名前が浮かび上がってきたらしい。
「これっ、こいつっ、降格になっちゃってる。問題があったのはジュウの方だったのに・・・・・」
「急いで詳しいことを探らせてくれ。案外それがジュウのアキレス腱になるかもしれない」
「了解」
綾辻は直ぐに国際電話を掛け始めた。電話の向こうは香港。この僅かな手掛かりからジュウを倒せないかどうか、海藤は顔を
上げて真っ直ぐ前方を見つめる。
(待っていろ、真琴)
絶対に助けてやる・・・・・海藤はただそれだけを考えていた。
どのくらい、そして、どこを走っているのか。窓を目隠ししているので全く分からない。
ただ、あまり信号待ちなどで止まらない様子から考えて、高速か都市高を走っているのではないかと思った。
(ジュウさん、俺をどこに連れて行くつもりなんだろう・・・・・)
日本にどれだけ知り合いがいるのか分からないが、そんなにあちらこちら行くとは思えない。
「・・・・・」
「どこに行くのかと思っているのか?」
「・・・・・っ」
黙っていたウォンが再び口を開いた。真琴は一瞬ビクッと肩を揺らしたが、直ぐにはいと答えてウォンを見つめる。どうせ全ての感情
が顔に表れているのならば、いっそ言葉でもきちんと訊ねた方が早い。
「・・・・・」
「教えてください」
「・・・・・数日間の猶予を与えただろう」
「え・・・・・?」
「日本を離れる覚悟は出来たはずだ」
「!」
改めて考えるまでも無く、それは真琴がジュウと共に日本を出て香港に行くということだ。ここ数日でジュウの中でそれが決定事
項になっていたのかと愕然としてしまった真琴は、とっさにドアに手を掛けた。
「走っている車からどう逃げるつもりだ」
「・・・・・っ」
ドンッ
真琴は唇を噛み締めてドアを叩いた。何度も何度も、ドンドンと拳で窓を叩く音が静まり返った車内で響くものの、無情にもそ
れはビクともしない。
「開けろ!」
「お前がこちらに来るのを選んだのだろう」
焦って叫ぶ真琴に、ウォンが静かに言い捨てた。
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