眷恋の闇
26
『』は中国語です。
完璧とは言わないまでも、この部屋もある程度の防音は施されていると思う。
それなのに、これだけ大きな音が聞こえてくるなど、いったい外で何が行われているのかと真琴は不安で仕方が無かった。
「マコ」
「あっ」
そんな真琴の身体を庇うようにジュウが前に立ち塞がってくれた。まさかこんな風に庇われるとは思っていなかった真琴はしなやか
な背中を見つめることしか出来ない。
(外には、さっきみたいに見張りの人がいるはずだけど・・・・・)
あの、いかにも鍛えているといった様子の男達が苦戦する相手などいるのだろうか。
「・・・・・」
(あ、止んだ)
音は、何時しか消えていた。
すると、先ほどのようにドアの外は静まり返ったものの、ジュウとウォンの警戒心は解けた様子は無く、やがてウォンがそっとドアのノブ
に手をやった。
『ジュウ』
こちらを見るウォンの眼差しはとても冷たい。その手に持っている物が物だけに、真琴は自分自身の心臓にそれが突きつけられて
いるような気さえしていた。
(この向こうに、誰が・・・・・?)
先ほどは、ジュウの組織の関係者かと思ったが、よくよく考えれば海藤が迎えに来てくれたという可能性の方が高いのだ。
大学の門前で振り切った安徳が連絡し、どうやってか空港まで来たことを海藤に知らせて彼が駆けつけてくれる時間は、多分十
分あったはずだ。
「ま、待ってくださいっ」
せめてその手にしている拳銃を下ろして欲しいと思ったが、ウォンは真琴の言葉など聞こうとはしない。
「待って!」
『開けろ』
真琴の言葉を遮るようにウォンの手が動き、ノブを回してドアを開け放つと同時に拳銃を構えたと思ったが・・・・・その前に、部屋の
中に風が舞い込んできたかのように目の前に影が横切った。
「真琴!」
「か、海藤、さん?」
無事だという報告を受けていたが、海藤は自身の目でその姿を確認して深い安堵の息をついた。
ジュウが真琴を傷付けるわけがないと思う反面、真琴が抵抗してしまったらどんな拘束をされるかとそれが心配でたまらなかった。
だが、今真琴はジュウの背に隠れてはいたものの、縛られた様子も怪我をした様子も無い。それだけで、まず海藤の心配は90
パーセント以上解消した。
「・・・・・っ」
海藤の後ろから同時に部屋の中に入ってきた綾辻も、瞬時に現状を把握して己のやるべきことを判断したらしい、即座に胸ポ
ケットから拳銃を取り出した。
「ミスター」
後は、自分とジュウの交渉だけだ。
「随分手荒な真似をされるんですね。日本じゃ素人に手を出すのは恥ずかしいことですが、向こうではそれさえも許されているの
ですか」
真琴に、弟のことを持ち出して駆け引きをするなど、海藤から見ればあまりにも卑怯だった。
真琴を欲しいと思うのならば、自分になぜ直接向かってこないのか。大東組との関係を考えていたなどとは思えない。真琴を手に
入れるためならば、どんな手も使うほどに必死だったということだ。
「そんなに、真琴が欲しいんですか」
「もう、私のものだ」
「ミスター」
「カイドー、私はお前の能力を買っている。これほどに早くここまで来たこともさすがだと言おう。だが、私はこのままマコをお前に渡
すつもりは無い。このまま香港に連れて行くつもりだ」
あくまでもジュウは自身の意思を曲げるつもりは無いようだ。しっかりと真琴の腕を掴み、強引にその身体を自分の傍へと寄せな
がら言う言葉に、海藤は彼の翻意を促すことは永遠に無理なのだと実感する。
少し離れた場所ではウォンの持つ銃口が海藤に向けられていたが、反対に自分と部屋の中に飛び込んできた綾辻の持つ銃口
はウォンに向けられていた。
綾辻の腕ならば真琴に当たることは無いはずだ。そのうえ、どうやらジュウは真琴を盾にはする気はないようだった。
(そんな風に真琴を思っているのに・・・・・)
「・・・・・真琴の気持ちは関係ないんですか」
「人の思いというものは日々変化していく。マコも、いずれ私を思うようになってくれるだろう」
「・・・・・」
(今は、関係ないというのか)
真琴はジュウと共に香港に行くつもりは無いと言った。その思いを全く考えずに、将来変化させることを望んでいるのか。
そんなものは愛ではない。強引に振り向かせ、その心が悲鳴を上げても、口先だけで愛を誓えばいいなど、それはけして愛情では
ないのだ。
「・・・・・ミスター」
「飛行機を止めたのはお前の仕業だろう?」
「・・・・・」
「直ぐに悪戯だったと連絡しろ」
「・・・・・出来ません」
真琴を日本から旅立たせる後押しなどするはずが無かった。
「・・・・・真琴の気持ちは関係ないんですか」
「人の思いというものは日々変化していく。マコも、いずれ私を思うようになってくれるだろう」
(そんな甘い考えで、日本ではやっていけるということか)
欲しいものは奪ってでも手に入れる。自分以外の何者が傷付こうとも、そうすることがトップに立つ者の当たり前の行動だとジュウ
は教えられてきた。
今回もその通りに動いているだけで、疑問が入る余地など全く無いはずだ。それだけの前段階の準備を自分は十分にしていたと
自負する。
(カイドー、お前は感情に囚われ過ぎだ)
冷静に考えて、どうすれば己が一番得か考えればいい。
愛する者の手を離さないか、大陸の大きな組織と手を結ぶか。
感情だけで己の組織に打撃を与えてしまうことなど、いくら海藤でも出来るはずがない。どんなに承服し難いことでも、ここで頷か
なければならないはずだった。
「カイドー、私は気が短い方ではないが、今回のことではもう何年も準備をし、ようやく行動をした。これ以上、お前の感情に付
き合うつもりは無い」
海藤がこの時間にここにいることは計算外だったが、最後通牒を突きつけるのには良い機会だったと考えておこう。
そう思ったジュウは、
「・・・・・」
カチャ
「・・・・・っ」
鈍い音をさせ、スーツの袖口に仕込んでいた細いナイフの刃を真琴の首筋へと押し当てた。
「ジュウッ!」
「愛らしい顔に傷を付けたくないのならば退け」
海藤は、きっとその場を開けるはずだ。
「・・・・・っ」
喉もとに押し当てられた冷たい刃。
一瞬、自分が何をされたのか分からなかったものの、じわじわと現状を把握するにつれて真琴は指先まで冷える思いがした。
どこかで、ジュウが自分に危害を加えるはずが無い・・・・・そんな風に思っていた自身の考えが甘いものだと悟り、どうすればいいの
かと焦るが身体が動かない。
(で、でもっ、このままじゃ・・・・・)
「真琴っ、動くなっ」
「!」
その時、海藤の鋭い声が耳に届いた。
無意識のうちに身体を逸らそうとしていた真琴は、その言葉に反射的に硬直をしてしまう。
「大丈夫だ、無理をして動くな」
「・・・・・海藤さん・・・・・」
この状況のどこが大丈夫なのかと思うが、海藤がそう言うのならば動いてはいけないのだ。
「・・・・・」
「マコ、そのまま歩きなさい」
「ジュ、ジュウさ・・・・・」
「このままここにいても仕方が無い。早急に自家用ジェットを飛ばす手配をする間に、もう乗っていた方がいいだろう」
「・・・・・!」
(このまま、香港に行くって・・・・・?)
爆弾騒ぎ(どうやら海藤が仕組んだらしい)のおかげで、香港行きの飛行機が飛びたてなくなっていたが、海藤達がこの場に来た
ことによって逆にジュウは強硬手段に出ようとしている。
もちろん正式な手続きを踏むのならばとても直ぐに飛び立つことなど出来ないはずだが、彼ならばどんな手を使っても実現しそう
で怖かった。
「少し我慢してくれ」
一瞬身を屈めたジュウが耳元でそう言ったかと思うと、喉もとのナイフを動かさないまま歩き始める。
目の前に海藤と綾辻がいるのに、全くその姿が見えていないような自然な足取りで部屋の中を横切るジュウに、彼を援護するよう
にウォンが拳銃を構えながら続いた。
「!」
(こ、この人達・・・・・)
廊下には、先ほど出た時に見たジュウの護衛の男達が倒れていた。血は流れてはいないようだが、腕や足が変な方向に曲がっ
ているのは分かる。
(この人達・・・・・海藤さんが?)
暴力を振るう海藤というのは真琴の意識の中には無くてどうしても戸惑ってしまうが、そんな真琴とは違い、ジュウは呻く男達に
一瞬だけ視線を向け、傍にいるウォンに言った。
『ロンタウを守るにしては腕不足だ。始末しておけ』
『はい』
半ば抱きかかえられるようにして廊下を歩く真琴は、今の自分の状態を誰かに見られてしまわないかと怖かった。こんな状態をも
しも通報されたら、それこそ海藤や綾辻の立場は不利になってしまうのではないか。
一方で、このまま飛行機まで連れて行かれるのはどうしても嫌で、何とか足を踏ん張ろうと思うのだが、時折肌に触れる冷たいも
のの正体を考えると大きな抵抗も出来なかった。
(俺は、何も出来ないのか・・・・・っ)
貴賓室に続くこの廊下にはまだ一般の客も職員もいないが、自家用ジェットに行くまでの道程では必ず第三者の目が入ってし
まう。
(どこかで、あのナイフを外すはずだ)
まだここは日本国内、たとえジュウに力があるといっても無罪放免というわけには行かないはずだ。その時は海藤や綾辻も同時に
拘束をされるだろうが、そうなればいったん真琴は安全になる。
「・・・・・」
ざわめきが聞こえてきた。
同時に、ジュウの手からナイフが消えた。先ほどのようにスーツの袖口に隠してしまったのだろう。
「さあ、マコ」
その代わりのように、しっかりと真琴の肩を抱いて、逃げ出さないように拘束をするジュウの姿を見て、海藤は目の前のウォンの様
子も探った。
ジュウの動きに合わせるかのように、ウォンも手にした拳銃を胸ポケットにしまったのを確認し、海藤が一歩前に踏み出そうとした
時だった。
バシュッ
「!」
鈍い音が空気を引き裂いた。
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