眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 どうやってあの発砲騒ぎを収めたのか真琴には分からない。
だが、それを知らなくていいのだろうし、それよりも海藤の傷の方が気になって仕方が無かった。
 「真琴、手を離せ」
 「嫌っ」
 「・・・・・」
 誰かが用意してくれたタオルでしっかりと肩口を縛ってはいるものの、滲み出る血を何とかしたくて真琴は無意識のうちに手で押
さえていた。
海藤はそれを手が汚れるから離せと言ってくれているのだが、真琴は何もせずに隣に座っていることなど出来なかった。
(俺・・・・・俺の、せい・・・・・でっ)
 我慢しているつもりでも、どうしてもしゃくりあげてしまう真琴に海藤は気付いている。そして、言葉で慰めても真琴が受け入れな
いだろうということも分かっている海藤は、真琴の髪をかき撫でてくれた。
 優しい指の感触。海藤と離れていたのは数時間で、日常生活でも頻繁にあるほどの空白時間だが、真琴は今回ほど長い間
海藤と離れていたという感覚を味わったことは無かった。
(あのまま、ジュウさんに連れて行かれると思ってた・・・・・)
 自分に対するジュウの執着と、彼の人間性を感じさせない眼差しに、もう海藤に会えないかもしれない・・・・・そんな焦燥感にか
られてしまったからだ。
 「痛みはない」
 「・・・・・」
 「真琴」
 「・・・・・やだ・・・・・」
(絶対・・・・・痛いはずだよ・・・・・)
 ずっと、ジュウのことを好意的に思っていたが、今の真琴にとってジュウは海藤を傷付けた存在として、もう、絶対に受け入れるこ
とは出来ない相手になってしまった。




 真琴が自身が受けた傷に罪悪感を感じているのは分かったが、どんなに言葉で慰めても真琴の気が晴れることはないだろう。
(とっさに体が動いたからな)
ジュウを庇うという意識はあまり無かった。海藤が見ていたのはジュウが腕を掴んでいた真琴で、弾が逸れて真琴に当たってしまっ
たら・・・・・ただ、それだけしか考えられなかった。
 そんなことを言えば、倉橋に、

 「ご自身の身体のことも考えてください」

と、きっと叱れらてしまうかもしれないが、いざという時、人間は一番大切なもののために身体が動いてしまうのは本能で、海藤の
場合それが自分自身ではなく、真琴だったというだけだ。
 「・・・・・」
 ジュウも、自分が狙われたということよりも、真琴が危険な目に遭ったということに愕然としたようで、今はおとなしく前を行く車に
江坂と共に乗っている。
 本当に、江坂が来てくれて良かったと思った。
あの場に第三者がいてくれなければ、もっと混乱し、もしかしたら警察に嗅ぎ付けられてしまったかもしれない可能性もある。
 真琴が側にいるので詳しい話は出来なかったが、どうやら自分達を空港施設内に誘導してくれた男が江坂にも連絡を取ってく
れていたようだ。
その男のおかげで、貴賓室近辺には爆弾騒ぎの最中も警官も警備員も来なかったというわけだ。
 「・・・・・」
 まだまだ、自分1人では何も出来ないということを海藤は今回のことでも思い知った。
冷静でいるつもりでも、真琴が関係してしまうとどうしても感情の方が先走ってしまい・・・・・こんな風に、結局真琴を泣かせる羽
目になってしまった。
 「・・・・・」
 「痛いんですか?」
 海藤が溜め息をつくと、真琴がパッと顔を上げて問い掛けてくる。
 「いや、大丈夫だ」
 「・・・・・」
 「本当だぞ」
痛みも、熱さも、真琴が自分の腕の中にいるのならばなんでもないものだ。
事実、傷自体は本当に掠ったくらいの感覚しかない。

 「私の活躍の場を盗らないで下さいよっ」

 あの後、そんな風に言いながらも、止血する綾辻の眼差しが真剣なものだったということを海藤は知っている。
自分が守られる立場の人間だということは十分分かっているつもりなのだが・・・・・そう思うと、海藤はフッと苦笑を漏らした。
(これから・・・・・後始末だな)
 とにかく、ジュウが無傷で良かったと思う。
幾ら彼の組織の問題だとしても、日本でジュウが怪我を負ってしまったら、それこそ大東組の責任問題になりかねない。まだ正式
に理事にもなっていない海藤には責任を取ることも出来なくて、上の人間に迷惑を掛けるところだった。
(・・・・・ああ、そういうことかもしれない)
 江坂がこうして動いてくれたのは、海藤や真琴のためということもあるだろうが、それと同時に大東組の面子を守るためということも
あるはずだ。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 海藤は真琴を抱き寄せる。この温かい存在が自分の腕の中に戻ってきて、本当に良かったと思う。
自分の腕にしがみ付いてくる真琴を見つめながら、今回のことに力を貸してくれた全ての相手に対し、海藤は何度も礼をし、頭を
下げたい気分だった。




 江坂が一行を連れて行ったのは、千葉の大東組の本部だった。
なまじホテルを取ったり病院に連れて行くよりも、事件を内々に処理出来る最適の場所が近くにあったからそうしただけだ。
 「江坂理事・・・・・」
 さすがに海藤は困惑した表情を浮かべたが、江坂は無言のまま部下に合図をし、直ぐに別室へと怪我人を運ぶ。そこには既に
大東組が抱えている医者が待機していて、拳銃で撃たれてしまった海藤とウォンの手当てを即座に開始した。
 「どうだ?」
 「海藤会長の方は貫通しています」
 「・・・・・神経は」
 「どうやら大丈夫のようですね。これくらいなら綺麗に完治します」
 ヤクザ同士の抗争の中、銃で撃たれたり、刃物で傷付けられている組員達の治療に慣れている医師の言葉に江坂は無言の
まま頷いた。
 「おい」
 「は、はいっ」
 車を下りた時から真琴は不安そうな面持ちだったが、今江坂が名前を呼ぶと反射的に焦ったような声を上げる。
 「ここにいても仕方が無いだろう」
 「で、でも・・・・・」
怪我の治療はヤクザでも眉を顰めたり視線を背けたりするものだ。普通の大学生である真琴には酷だろうし、せっかくここに来たい
い機会と江坂は真琴を促す。
 「こちらに」
 「江坂理事」
 江坂の意図に気付いた海藤が身を起こそうとしている。
 「真琴はまだ・・・・・」
 「お前が理事を受ける一番大きな理由だろう」
 「・・・・・」
 「心配ならば綾辻を同行させる。綾辻」
 「はい。マコちゃん、私も一緒だから」
綾辻も2人の会話で全てを悟っているらしく、笑いながら真琴の肩を叩いている。
その様子をじっと見ていた海藤は、もう一度江坂の真意を探るような視線を向けてきたが、それに答えないと分かると諦めたような
息をつき、
 「あまり、追い詰めないでやってください」
そう、言った。




(案外、理事って世話好きなのかも)
 表情や言動は冷た過ぎるほどに冷酷な男に見せているが、心の内は友情や人情に厚い、肝っ玉親父なのかもしれない。
そう思った綾辻は改めて江坂の横顔を見たが、
(あー・・・・・ありえないわね)
 今回のことも、結果的に海藤や真琴のためにはなったが、江坂が守るべきなのは大東組で、ジュウを無傷で押さえ、この本部に
連れて来たのは江坂自身の大きな功績となったはずだ。手柄のためだけに動いたとは言わないが、この男の裏は深い。
 「彼、どこにいるんです?」
 真琴の前で名前は出さない方がいいかと思ってそう聞くと、江坂は歩みを止めないまま答えた。
 「組長がお会いになっている」
 「組長が?」
 「前回も挨拶くらいしか交わしていなかったし、組長ももう少し相手を知りたいと言われたんだ」
 「へ〜」
(何時牙をむくか分からない相手なのにねえ)
さすが組長と言ってもいいのだろうか。
 「それで?私達はどこに?」
 「その組長が、会いたがっている」
 「わた・・・・・」
 「お前じゃない」
 「あー、そうですか」
(社長の心境の変化の原因を見極めるため、か)
 前回の理事選で、圧倒的な得票を貰いながら奇策で辞退をした海藤が、今回、幾ら組長直々の推薦だとはいえ理事に就く
ことを了承したわけを、彼も知りたいと思ったのだろう。
 女ならばまだしも、真琴は男だ。どんな奇異な目で見られるかもしれないとも思ったが、綾辻はそれ以上江坂の行動を問い詰
めなかった。
綾辻自身、真琴がもう少し自覚を持ってもいいかもと考えている。別に、ヤクザの世界に入れというのではなく、自分の愛する者
がどんな世界にいるのか、この辺りで一度見ていてもいいだろう。
(まさか、素人さん相手に凄みやしないだろうし)
 その時は、江坂が味方してくれるような気がして、綾辻は真っ直ぐな背中に向かって声を掛けた。
 「頼りにしてま〜す」
 「・・・・・」
思ったとおり、江坂の返答は無かった。




 真琴は居心地が悪くて仕方が無かった。
(ここって・・・・・)
海藤の怪我が心配で、医者が現れて処置が始まったのを見届けて安堵をした途端、自分がいる場所がどこなのかをようやく気に
し始めたのだ。
 スーツに身を包んだ大勢の男達。
あからさまに威圧するといった態度は無いものの、それでも普通の人とは違う雰囲気を肌で感じてしまう。
(こ、怖いんだけど・・・・・)
 「・・・・・」
 江坂よりも年上の男達が、江坂と会うたびに頭を下げて道を譲る。江坂が凄く地位の高い存在であるというのは知っていたつも
りでも、こうして次々に態度で示されると、自分が思っていた以上に凄い人なのかと戸惑いの方が大きかった。
 「それで?私達はどこに?」
 「その組長が、会いたがっている」
 「わた・・・・・」
 「お前じゃない」
 「あー、そうですか」
 「・・・・・っ」
(く、組長って・・・・・一番偉い人、だよな)
 なんでもないように交わされる綾辻と江坂の会話に、真琴は自分がとんでもない場所に足を踏み入れたことが分かり、どうしたら
いいのだろうと縋るように綾辻を見たが、綾辻はにっこりと笑ったまま、真琴の背中を押してくれるだけだった。