眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 座敷では真琴が萎縮するだろうと、江坂は組長の永友に願い出てリビングへと向かっていた。
永友と真琴を会わせることが良いことなのかどうか、江坂自身も考えたが、海藤が理事に就任すれば遅かれ早かれ真琴の存在
は大きく出てくる。
 今も、永友は海藤に特別な《女》がいることは知っているだろうが、それがどんな相手か興味を持って会おうとするだろう。
それならば、今が最適のように思えた。香港伍合会のロンタウまでが欲しいと思う真琴が、ただの大学生ではない。真琴自身の
価値が高い時にさっさと顔合わせをしていた方が、結果的に2人のためになるはずだ。
 「・・・・・」
 目的の部屋についた時、江坂は立ち止まって真琴を振り向いた。
 「組長は海藤をかっている」
 「は、はい」
 「その海藤が選んだ相手を蔑んだりはしない」
じっと顔を見つめてそう言えば、真琴は少しして頷き、大きく深呼吸を始める。
まだ、海藤が拳銃で撃たれてしまった衝撃を完全に払拭したわけではないだろうが、それでもこうして逃げずに自分の後ろについ
て来たのは褒めてもいいだろう。
 「組長、江坂です」
 江坂は中に声をかけ、入室の許可にもう一度真琴を振り返る。
頷く真琴を見届けてから、江坂はドアを開いた。




 中は広い洋室だった。
大きなガラスのテーブルを囲む1人掛けのソファに男が座っていた。
真琴の父よりも年上だとは思うが、身体も大きく、その眼力はとても強い。
(この人が・・・・・組長、さん)
 海藤のもっと上に立つ男だと分かっているせいか、圧倒的な威圧感に真琴は押し潰されてしまいそうになってしまうが、それでも
前にいる江坂と後ろにいる綾辻の存在のおかげで、何とかその場に立っていることが出来た。
 「組長、彼との面会は」
 「終わった。今は別室で休んでもらっている」
 「有益な話は出来ましたか?」
 「はは、どうやら日本では俺以上に気になっている相手がいるようでな」
 「・・・・・っ」
(な、何?)
男の眼差しが真琴を射抜く。喉がカラカラに渇いてしまい、瞬きが多くなってしまった真琴だが、とにかく先ずは挨拶をしなければと
勢いよく頭を下げた。
 「は、初めまして!西原真琴といいますっ、よ、よろしくお願いします!」
 「・・・・・」
 その勢いに、不意をつかれたらしい男は、
 「ははは、俺みたいなのによろしくされていいのか?」
笑いながらそう言って、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 「永友治だ」
 差し出された手をおずおずと握り返すと、とても厚くて、力も強かった。
初対面で握手をするという行為がヤクザらしいのかどうなのか分からないが、それでも永友の眼差しが少しだけ和らいだのは肌で
感じた。
どうやら第一印象は悪くは無かったようだ。
(よ、良かった)
 海藤でさえ頻繁に会うことはないらしい永友に、さらに関係の無い真琴が今後会うかどうかは分からないが、それでも海藤の立
場が悪くならなければいいと思った。
 「座りなさい」
 「は、はい」
 永友は真琴を促し、その後ろに立つ綾辻に視線を向ける。
 「珍しい顔があったもんだ」
 「どうもぉ〜、お久し振りです」
組長が相手でも、どうやら綾辻のスタンスは変わらないらしい。そして永友にとっても、そんな綾辻は見慣れた姿のようで、真琴は
一緒に来てくれて良かったとしみじみと感じた。
 「相変わらずのようだな」
 「元気だけがとりえですもの」
 「組を背負う力があるくせに、何時もそんな風に言って逃げるな、お前は」
 「組長〜」
 「まあ、うちから逃げないだけ良しとするか」
 一同がソファに座ると同時に、タイミングを計ったように飲み物が運ばれてきた。
お茶ではなくコーヒーだったのが、何だかヤクザの家ではないような感じがしてしまった。




 綾辻の昔を知っている永友。そして、綾辻も組長になる前の永友を知っている。
親子ほど歳が違うのでそれほど親しい口をきいたわけではないが、改革派だった永友を綾辻は密かに応援していたし、永友も女
言葉の裏に隠された綾辻の本性を見抜いて、何時も素顔を晒せと言っていた。
 「・・・・・」
(マコちゃん、一応大丈夫そうね)
 ヤクザ映画に出てくるような強面ではない永友は、一見企業の重役のような雰囲気を持っている。もちろん眼光は鋭いが、それ
でも物騒だという形容詞には似合わないだろう。
 大東組にとって海藤は必要不可欠な男だ。その男が己の命さえ顧みずに助ける相手に、永友も一目置かずにはいられないは
ずだった。
 「大学に通っていると聞いたが」
 「は、はい、4年生です」
 「仕事は?もう決まっているのか?」
 「・・・・・まだです」
 俯いた真琴に、永友は笑った。
 「まあ、卒業するまでは学生だしな」
 「え?」
 「卒業式を終えてからが一人前だ。それまでに進路は決めればいいだろう」
 「・・・・・はい」
まさか、真琴が進路に悩んでいることまでは知らないはずだが、年の功なのか永友にはその声の調子だけでも気持ちが分かったら
しい。
真琴に近い自分達が慰めるよりも、全くの第三者である永友が、それもある程度の年齢の男が言う言葉は、自然に真琴の胸の
中に染み渡ったようだった。
 しかし、こんな和やかな雰囲気で終わるとは考えられない。
これからは大東組の理事にもなる海藤の隣にいる者としてどれだけの覚悟が出来ているのか、改めて真琴を見る永友の目付き
が変わって、綾辻も身構えた。




 「ここがどこか、分かっているな?」
 「は、はい」
 大東組の本部・・・・・いや、本家といっていいのか。普通ならば絶対に足を踏み入れる場所ではないことを改めて自覚し、真琴
はモゾモゾと尻を動かしてしまった。
(俺なんか、役不足だって・・・・・思われるかも)
 海藤ほどの男の側にいるのが自分のような男だと、組長である永友はガッカリしているかもしれない。そうでなくても、理事に推薦
するほどで、海藤には随分期待をしているはずだ。
 「女なら問題は無かったが」
 「・・・・・っ」
 「あんた、海藤のために何が出来る?攫われたら、潔くその命を絶てることが出来るか?」
 「組長」
 「黙れ、綾辻」
 永友の言葉を綾辻が遮ろうとして、江坂が端的に一喝している。
上下関係がとても厳しいこの世界で永友がこれほど海藤のことを言うなど、とても可愛がっていることが感じられた。
(うんって・・・・・頷くのが本当、だよな)
 この場限りでも、出来ますと言わなければならないと思ったが・・・・・真琴は永友を誤魔化せるとは思えなかった。そんな言葉を
言っても、きっと永友には全てを見抜かれてしまう。
 「・・・・・で、出来ない、と、思います」
それならば、嘘だけは言いたくなかった。
 「俺、本当に呆れるくらい普通の生活をしてきて・・・・・それが、海藤さんと知り合ってから、人が傷付いたりとか、見ることになっ
たけど・・・・・でも、やっぱり慣れません」
 「・・・・・」
 「つ、捕まっちゃったりしたら、多分、泣いて、喚いて、助けてくれって叫んで・・・・・多分、俺は海藤さんが来てくれるまで、絶対
に死ぬような真似は、出来ません」
 「海藤が来るまで、か」
 「はい。海藤さん、絶対に来てくれますから」
 それだけは言い切ることが出来た真琴に、永友はフッと笑みを零す。
 「こんな風に信じてもらうのは、案外気持ちの良いものかもしれないな」
 「・・・・・?」
不思議な言葉に真琴は首を傾げたが、そんな真琴から永友は視線を外した。
 「江坂、お前も、だろう?」
 「私の場合は攫わせません」
 「ははは、お前らしい」
 淡々と答える江坂は丁寧語ながら、自分に接してくれる時とそれ程変わらないような気がする。
(上杉さんもそうだけど・・・・・)
マイペースな人間というものは能力もあるのかもしれないと、真琴はただ2人の顔を交互に見つめることしか出来なかった。

 時間にして10分も無かったと思う。
ドアが叩かれ、名を呼ばれた永友は立ち上がった。
 「会えて良かった。海藤が守りたいものがどんなものか、この目で確かめることが出来たしな」
 「く、組長さん?」
 「その役名で呼ばれるのも複雑だが、俺とは係わり合いを持たない方が身のためだ。今後会うかどうかは分からないが、その時
も変わらずに海藤の側にいてくれることを願っているぞ」
 ポンと、軽く真琴の肩を叩いて永友は部屋を出て行く。
江坂と綾辻が立ち上がって頭を下げるのを見て、真琴も焦って立ち上がり、既に閉まりかかったドアに向けて頭を下げた。




 これから真琴をどうするかと江坂が考えていると、真琴はあのと話しかけてきた。
永友に対してはとりあえず及第点の態度を取った真琴に、江坂は少しだけ声を和らげて問い掛けた。
 「どうした」
 「あの、ジュウさんに会いたいんです」
 「・・・・・」
(自分を連れ去ろうとした相手に?)
 「・・・・・」
 江坂は綾辻を見る。しかし、その綾辻も今の真琴の言葉は思い掛けなかったものなのか、肩を竦めて真琴の肩に手を置いた。
 「マコちゃん、先ずは会長の容態を知りたいんじゃない?」
 「もちろん、それも心配です。でも、海藤さんは絶対に大丈夫ですよね?」
 「・・・・・ああ」
真っ直ぐな視線に、冗談でもどうだろうかとは言い難い。
(海藤よりもあの男に会うことが先決だと?)
 ようやくあの黒い手から逃れられたというのに、再び自らその腕の中に飛び込もうというのか?
それとも、大東組という絶対に安全な場所にいる安心感から、無謀な試みをしようとしているのか・・・・・どちらにしても感心しない
と眉を顰めた江坂に、真琴は続けて言った。
 「俺、最後にちゃんと伝えたくて」
 「・・・・・」
 「一緒には行けないって、それと・・・・・」
次に真琴が言った言葉に、江坂は珍しく目を見張った後、くっと笑みを漏らす。
 「いいだろう」
その言葉が実行される場面を、江坂も見てみたいと思った。