眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 『お連れの方の治療は終わりました、傷は掠っただけのようですのでご心配なく」

 何度か顔を見たことがある男がそう言って直ぐに退席した。
眼鏡の奥の一重の目に穏やかな笑みを浮かべている凡庸な容姿の男は、大東組の幹部で今回自分をここに連れて来た江坂
の部下だったはずだ。
 『・・・・・ああ、タチバナ、と、いったか』
 ウォンの命に別状がないのはあの時点でも分かったが、的確な処置を施してもらったことには礼を渋ることも無かった。
ただ、今のジュウの頭の中を占めているのは真琴と・・・・・海藤のことだ。
自分の愛人を奪おうとした自分を、なぜ身を挺して庇ったのか。あの時の海藤の動きには計算は無く、そして全く躊躇う様子も無
かった。
 敵対する相手に対してのあの行動・・・・・なぜ、どうしてと、ジュウは今までの自分の中にはない答えを導き出そうとしていた。

 トントン

その時ドアがノックされた。
 『・・・・・』
 丁重にはもてなされているのだろうが、今の自分の立場は軟禁されているといってもいい。
万が一、自分の身柄を盾に大東組が組織に取引を持ちかけたのなら、組織は速やかに新しいロンタウを擁立してジュウを切り捨
てる。
それは、ロンタウであるジュウも変えることが出来ない、組織の不変の掟だった。
 「・・・・・」
 『江坂です。入ってもよろしいですか』
(エサカ?)
 わざわざあの男が自分に何を言いに来るのか。
ジュウはソファに座り直し、ゆっくりと足を組むと、
 『入れ』
ここが自分のテリトリー内であるかのように鷹揚に応えを返した。




 ジュウに用意した部屋は防音が施された特別な部屋だった。
あまりにも大物過ぎて普通の部屋に案内することが憚られたし、何かあった時に直ぐに対応が出来る密室を用意したのだ。
 多分、ジュウ本人も自身の立場が酷く危ういことには気付いているはずだ、幾ら大陸で大きな力を持つ香港伍合会の頂点に
立つ男でも、たった1人別組織にいるという事実は危険と隣り合わせだということを。
 『不自由はされていませんか』
 部屋の中に入った江坂は、ソファに座るジュウを見る。虚勢を張っているのかもしれないが、それでも一見した限りはとてもリラッ
クスしているように見えた。
 『いや、何も無い』
 『それは良かった。ところで、あなたと話したいという人物がいるんですが』
 『組長以外に?』
 皮肉混じりの言葉を口にするジュウが、自分の背後の人物を見たらどうなるかと考えた。
 『組の人間ではありません』
 『・・・・・お前の個人的な知り合いか』
 『あなたにとっても、ですね』
そう言った江坂は自分の背後を振り返る。
(さあ、見せてもらおうか)
何の力も無い青年が、ブルーイーグルと言われる、狙った獲物は殺してでも奪うという残虐で冷酷な暗黒街の支配者とどう向き
合うのか、江坂は大きな興味を持っていた。




 江坂が中国語で何かを言っている。
彼の背後に隠れている形なのでまだジュウの姿は見えないが、その声を聞いていると緊張で胸がドキドキしてしまった。
 未だ、彼に突きつけられた刃物の冷たさを感じているし、海藤が撃たれてしまった衝撃も消え去ってはいない。
それでも、自分から江坂に頼んでこうしてここまで連れて来てもらったのだ、逃げるわけにはいかないと思った。
 「大丈夫か」
 なにやら会話を終えた江坂が振り向き、そう真琴に問い掛けてくれた。
気遣ってくれる気持ちに、ありがとうございますと一礼した真琴は、一度大きく深呼吸をしてから震える足を叱咤して部屋の中へと
入った。

 「マコ・・・・・?」
 まさか真琴が現れるとは思わなかったのか、ジュウは名前を呼ぶとソファから立ち上がった。
 「・・・・・」
 「私に会いに来たのか?」
 「・・・・・はい」
頷くと、ジュウの目が少し細められる。
海藤達と対している時のジュウは全くといっていいほどに表情が無いが、真琴相手だとこうして僅かながらも表情を動かした。
 その目があまりにも優しいので、真琴はジュウが優しいと思っていたのだが・・・・・。
(でも、もう違う)
 「マコ」
ジュウが歩み寄ってきた。彼がどんどん自分に近付いてくるのを見ながら、真琴はどうしても言わなければならないことを彼に伝えよ
うと口を開いた。
 「ジュウさん、さっきのこと、俺・・・・・凄くショックだったし、怖かった」
 「・・・・・すまない。お前を危険な目に遭わせるつもりは無かった」
 「海藤さんが怪我をしました」
 「・・・・・」
 「ウォンさんだって、あの人だって、あなたを庇って!」
 あの時はあまりにもとっさだったので全く頭が働かなかったが、落ち着いて考えた時、あの時拳銃を持った男の狙った相手は、海
藤ではなくジュウだったと思う。
そう考えると、ジュウ達の事情に海藤が巻き込まれたということだ。
(軽い怪我だって言ってたけど、それでも、場所が悪かったら・・・・・!)
最悪、海藤が死んでいたかもしれない。
 「あなたのせいで、海藤さんは怪我をしたんです」
不運だったとは言わせない。今回の責任はジュウと、そして、のこのこ彼に連れ去られてしまった自分にあるのだ。




 局部麻酔を打たれた海藤は傷を縫合された。
本当ならば病院でちゃんとした治療を施すのが本当だろうが、大東組が用意した医者の腕が確かだと海藤も分かっているので、
この場の処置だけで十分だと考えていた。
 「・・・・・」
 自分よりも先に治療を受けたウォンはどうやら弾は掠っただけらしく、早々に治療を終えると別室に案内されていった。多分、ウォ
ンとは離れた場所だ。
(真琴は・・・・・)
 江坂に連れて行かれた真琴は組長の永友と顔を合わせたはずだが、どんな様子だったか気になって仕方が無い。
いかにも極道といった外見ではないが、この大組織の頂点に立つほどの男の迫力は相当なもののはずで、普通の大学生である
真琴が萎縮して怯えても仕方ないはずだ。
 まさか真琴に暴力を振るうことは無いだろうが、どんな会話をしているのか・・・・・。永友は頭の良い男だ、真琴を追い詰めること
は簡単なような気がした。
 「いかがですか?」
 「・・・・・江坂理事は?」
 治療を終えた海藤の前に顔を見せたのは江坂の部下である橘で、海藤は直ぐに江坂の居所を訊ねる。
 「あなたのお連れ様と一緒におられますが」
 「組長の所に?」
 「いいえ」
 「・・・・・違う?」
 「組長との対面は終えられました。今は・・・・・」
一瞬、橘が逡巡したように見えたが、それは本当に気付かないほどの間で、橘は直ぐに何時もの穏やかな口調で説明をした。
 「今、香港伍合会のロンタウに会われています」
 「・・・・・っ」
 海藤は反射的に起き上がった。
肩はまだ麻酔が効いているのか痛みは無いものの、指先は痺れてしまっている。
それでも海藤は暢気にこの場に寝ているわけにはいかなかった。
 「どこだ」
 「海藤会長」
 「どこにいる」
 「・・・・・」
 普段は意味も無く目下の者を威圧しない海藤だったが、今ばかりは橘を見据え、口を割らなければどんな手段を講じるか分か
らないと自分自身でも感じた。
 「・・・・・」
 「橘」
 橘の上司は江坂だが、何の役もない橘よりも海藤の方が地位が上だ。
海藤の本気を悟ったのか、橘は少しだけ困ったような笑みを浮かべた。




 真琴はじっとジュウを見つめた。
彼を、本当は嫌いになりたくなかった。むしのいい話かもしれないが、自分に対して優しく接してくれた彼ならば、話せばきっと自分
の気持ちを理解してくれるだろうと思っていた。
 しかし、人の気持ちというのは口に出さなければ分からない。そして、口に出したとしても、己の意図が相手にちゃんと通じるかど
うかは分からないのだと思い知った。
 「俺、あなたを許せません」
 「マコ」
 「本当は、自分自身だって許せないくらいなのに・・・・・っ」
 泣いたら、駄目だ。泣いたら、意味も無くこちらが同情される立場になってしまう。今だって目の前のジュウは眉間に皺を寄せて、
困ったように自分を見つめているではないか。
 「マコ、私はお前が欲しいだけだ」
 「・・・・・」
 「私の側にいて欲しいと思った」
 「・・・・・」
(だから、それは絶対に無理・・・・・っ)
 何度も伝えたのに、ジュウはやはり分かってくれていない。自分の言葉が足りないのか、それともジュウの耳に言葉が届かないの
かは分からないが、どちらにしてもこのままでは自分達の思いは一方通行だ。
 「・・・・・海藤さんに、お礼を言ってください。海藤さんは自分の身を犠牲にして、あなたを助けたんです」
 「・・・・・」
 「ジュウさん」
 「それは、カイドーが勝手にしたことだ」
 「!」

 パシッ

 力を入れたつもりなのに、音は情けない響きだった。
しかし、頬を打たれたジュウはじっと真琴を見つめて何も言わない。それが、まだ自分の気持ちを分かってくれていない証のように思
えて、真琴は思わず声を荒げてしまった。
 「自分の命を懸けて、勝手なことをしたっていうんですかっ?海藤さんも、ウォンさんもっ、あなたを守ってくれたんですよっ?どうし
て一言素直に、ありがとうって・・・・・言えないんですかっ?」
 「・・・・・」
 「勝手だなんてっ、そんなことを言うあなたは許せない!」
 真琴はジュウの両腕を掴んだ。必死に力を入れたが、ジュウにとっては痛くもなんとも無い力かもしれない。ただ、自分の怒りの
強さは感じて欲しい。
 「人のために怪我をしてもいいなんて思う人っ、いると思いますかっ?誰だって、痛いことは嫌です!傷付くことは怖いでしょっ?そ
れなのにっ・・・・・!」
人間なら、どうかその感情を感じ取って欲しかった。