眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 綾辻はとっさに真琴の身体を庇おうと足が動いたが、その身体を江坂が腕一本で押さえてきた。
(・・・・・っ、余裕たっぷりなのねっ)
自分には関係ないことだと、江坂は落ち着いているのだろうが、真琴のことを身内同様に心配な綾辻は内心焦っていた。
 真琴のことを欲しいと、それがどこまで恋愛感情に近いのかは分からなかったが、組織のトップに立つ者が頬をはられて黙ってい
るとはとても思えなかった。
 しかし・・・・・。
 「・・・・・」
ジュウは、真琴に対して敵意を剥き出しにしてこない。
腕を揺する真琴の動きにそのまま同調し、ただその顔を見下ろしているだけだ。
(もしかして・・・・・困って、る?)
 怒りを感じるよりも先に、自分がどうしたいのか戸惑っている様子が見える。
 「・・・・・」
(う〜ん)
ブルーイーグルと、こちらは恐ろしくて不気味な獣のような存在としてジュウを認識していたが、もしかしたら子供のように感情の示し
方を知らない臆病な兎のような男なのかもしれない。
 そう言えば、確か真琴を兎に譬えていたと思うが、それは自分の心の奥底にある影を見ていたのだろうか。
どちらにせよ、綾辻が今動くことは無いようで、初めから傍観者の立場にいた江坂を睨んで溜め息をついた。
(ぜ〜んぶ分かったような顔しちゃって・・・・・しーちゃんにちょっかい掛けちゃおうかしら)
 だが、そうすれば躊躇い無く自分を追い詰めるだろう江坂の思考を考え、綾辻はとりあえず今は頭の中だけで江坂を泣かせる
妄想をするにとどめた。




 痛いほどに自分の腕を掴み、訴えてくる真琴に、ジュウはなんと言葉を返していいのか分からなかった。
今まで生きてきた中で、こんな風に悩んでしまうのは二度めだ。
一つは、なぜ、海藤が自分を庇って撃たれたのか。そしてもう一つは、なぜ、真琴はこんなにも必死に自分に訴えてくるのか。
 海藤を傷付けられたことに怒っているのなら、自分に対し嫌悪の情を抱いているのなら、そのまま断ち切ってしまう方が遥かに有
益だ。
それなのに、こうして見捨てることなく、まるで子供に言いきかせるように叱ってくる。ぶたれた頬に感じる痛みは、ジュウの困惑と同
じ大きさだった。
 「ジュウさんっ」
 「・・・・・私は、何時でも欲しいものは自分の手で奪ってきた」
 「・・・・・」
 「いや、そもそも、自ら動くほどに欲しいというものは無かったな。後継者として選ばれた私には勝手に周りが動いていたし、私は
それを要るものと要らないものに分けたくらいだ」
 それでさえ、辛うじて選択していただけで、自分は昔から欲求の乏しい子供だったと思う。
そんなジュウが自ら動いてまで欲しいと思った真琴。
身体を征服したいという肉欲を感じているかどうかなど、今でもよく分からないが、側にいてくれるだけで心が落ち着く存在が、自
分にも人間らしい感情を感じる相手がいるということが嬉しかった。
 その真琴に拒絶され、これから先どうしたらいいのか。
今までのように周りが与えてくれるものの中から、望まないのに選ばなければならないのか。
 「・・・・・マコ」
 「ジュウさん」
 「・・・・・マコ・・・・・」
 どうして、初めて望んだものが、唯一の恋だと思ったものがこの手に入らないのだろう。闇の奥深くに沈んでいく感情を、ジュウはた
だ真琴の名前を呼ぶことで必死に止めようとしていた。




 人を傷付けるのは、傷付けようとした者にとっても痛い行為だと思う。
細身ながら自分よりも体格がよく、背も高いジュウの頬を引っ叩いた時、真琴は自分自身も強い衝撃を受けた。
こんなことをしなくても、ジュウには自分の気持ちを分かって欲しかった。彼の想いには答えられないと、海藤だけしか好きになれな
いという自分の気持ちを、言葉で伝えたかった。
(こんなことになるまで、俺がもっとちゃんと自分の気持ちをジュウさんに伝えなかったから・・・・・っ)
 悔しくて、悲しい。ただ、それがジュウのせいだけではないと真琴は分かっているつもりだ。そうは思わなくても、ジュウに対してはっ
きりとした態度を取らなかった自分だって悪い。
今回、海藤とウォンが怪我をしてしまったのも、結局はそれが原因のような気がしていた。
 「ごめんなさい、ジュウさん」
 「・・・・・」
 「ごめんなさい」
 「・・・・・マコは、それ程海藤を愛しているのか」
 「はい・・・・・っ」
 言葉と同時に、真琴は何度も頷く。分かって欲しいと、何度も何度も頷いた。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・そうか」
時間を置いて聞こえてきたジュウの声は淡々としていたが、最近感じていた恐ろしさは全く含まれていない。
パッと顔を上げた真琴はジュウの顔を見つめる。ジュウも、真琴の顔を見つめているものの、その目の中には冷酷な光は無かった。
 「ジュウ、さん」
 「私の、唯一手に入れられ無いもの、か」
 「・・・・・」
 「こんな時、力は虚しいものに感じるな」
 「・・・・・っ、ごめんなさい!」
ここまで彼の想いを引っ張ってしまった自分に対し、真琴は謝る言葉しか出てこなかった。




 「海藤さんの痛みを分かってもらうために、一発叩きたいんです」

 そうは言っても、真琴が本当にジュウに手を上げることを考えていなかった江坂は、どんな風に真琴がジュウと対するのか興味が
あった。
大東組の本部というこちらのテリトリー内ではジュウの力も通用しないだろうと、愛人が撃たれた真琴には多少の暴言を吐かせて
やるのもいいかもしれないと考えていたくらいだ。
 しかし、そんな江坂の予想とは裏腹に、真琴は大陸のマフィアのトップの頬を引っ叩き、堂々と自分の意思を伝えた。
この世界のことを全く知らない真琴が、ジュウの立場を正式に理解していないからこそ出来た暴挙だろうと、江坂は頬に僅かな笑
みを浮かべたまま、背後に控える部下に即座に命令をした。
 「今のこの部屋の監視カメラが撮影した分は処分しろ」
 「はい」
 ジュウが真琴に対して仕返しを考えることは無いだろうが、その周りの人間・・・・・今同行しているウォンなどは、トップの顔に泥を
塗られたと報復するかもしれない。
ここにいるのはジュウと、真琴と、綾辻、そして自分と部下だけだ。ここにいる者の口を塞ぎ、証拠を消せば、情報が漏れた場合の
元が直ぐに分かる。
 「気は済んだか」
 それが、どちらに向かって言った言葉かは江坂自身にも分からなかったが、振り向いた泣きそうな真琴と淡々としたジュウの顔は、
どこか闇が晴れたような感じだった。
 「そろそろ、海藤の治療が終わるんじゃないか」
 「あ・・・・・っ」
 すると、直ぐに真琴の意識は海藤の元へと飛んでしまったらしい。ドアの向こうに視線を向ける姿に、ジュウが目を伏せた。
 「どうする」
 「あ、あの・・・・・」
真琴は迷ったようにジュウを振り返る。すると、

 トントン

 静かなノックの音に江坂が部下に命令する前に、いきなり扉は外から開いた。
 「失礼します」
 「・・・・・動いても大丈夫なのか」
予想していた範囲内の海藤の姿に、それでも江坂は呆れたように問い掛ける。
海藤は治療を終えて直ぐにやってきたのだろう、シャツとスーツの上着を肩に掛けただけの珍しくルーズな格好だ。
 何時も冷静な海藤は険しい表情をして、視線はジュウに向けたまま、怪我をしていない方の手を伸ばして言った。
 「こっちにおいで、真琴」
 「・・・・・」
そう言われ、真琴は一瞬ジュウの顔を振り返ったが、直ぐに振り切るようにして海藤に駆け寄る。余計な優しさをみせないのがジュ
ウのためだと、ようやく分かったのかもしれなかった。
 「・・・・・」
江坂は腕時計を見る。そろそろこの場を収めなければならない時間だろう。




 橘に案内されて、ドアをノックする間も焦れて。
入室の許可を貰う前にドアを開け、そこに真琴とジュウの姿を見た時、海藤は一気に自分の胸の中が焼ける思いがした。
 この場には2人きりではない。それでも、海藤は二度と真琴を手放さないことを示すように、ジュウの顔を見ながら真琴に向かって
手を差し出した。
 「こっちにおいで、真琴」
 「・・・・・」
 真琴は、一瞬ジュウを見る。それだけでも海藤は眉を顰めてしまったが、真琴はその躊躇いを振り切るようにして海藤の元へ駆
け寄ってきた。
 「海藤さんっ、怪我はっ?」
 そして、直ぐに怪我の状態を聞いてくる。
肩の傷はスーツに隠れて見えないのだろうし、海藤も真琴にそれを見せるつもりは無かった。
 「大丈夫だ」
 「で、でもっ」
 「神経は傷付いていない。縫うだけで終わりだ」
 「・・・・・そうなんですか?」
 撃たれた傷というものがどんなものかは真琴には分からないのだろう、海藤の言葉に少し不安そうにしながらも頷き、ようやく自分
が腕にしがみ付いていたことに気がついたのか、ハッと焦って手を離した。
 それが寂しいと、海藤は思う。痛みよりも何よりも、真琴が自分の側にいるということこそが一番大切で、しがみ付かれて痛みを
感じることなど無い。
 「真琴、お前が彼と会いたいと言ったそうだな?」
 「・・・・・はい」
 「何をしたかった?俺が傍にいなくても良かったのか?」
 「・・・・・っ、そんなこと無いです!俺、俺はただっ、少しでも早くジュウさんと話したくって・・・・・っ!」
 「それと、一発仕返しをしたかったんだろう」
 「・・・・・」
 含み笑いを零しながら付け足した江坂の言葉に、海藤は眉を顰めて真琴を見下ろす。
無言でその意味を促す海藤に、真琴はオロオロとしてせわしなく視線を動かして、なかなかその理由を口にしない。
 もう片方の当人のジュウも何も言わず、江坂も切り出すだけ出して次の言葉を言わない。残りは・・・・・海藤はこの場にいる者
達の中で一番話しやすい立場の相手に照準を定めた。
 「綾辻」
 「マコちゃん、カッコ良かったんですよぉ〜」
 「あ、綾辻さん!」
 「ロンタウさん、引っ叩いちゃった」
 「・・・・・引っ叩く?」
 まさかと、海藤は真琴を見つめる。どんな些細なことでも暴力を嫌う真琴が、いくら己の傷のことがあったとしてもジュウに手を上
げるとはとても想像が出来なかった。
 しかし、耳まで真っ赤にして俯いてしまう真琴の様子を見れば、どうやら綾辻の言ったことは本当らしい。
 「真琴」
 「だ、だって、だって俺・・・・・っ」
 「海藤、それはこの子と彼の決着のつけ方だ。外野が口を挟むことじゃないだろう」
 「・・・・・私もですか?」
 「聞いたら、お前は喜ぶだけだぞ」
再び、不思議なことを言う江坂に、海藤は落ち着いたら真琴に説明させようと今は口を噤むことにした。