眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 目の前には海藤の腕に抱かれた真琴がいる。
ジュウはその姿を見つめながら、自身の胸が痛むのを感じていた。
(これが・・・・・喪失感か)
 どんなに望んでも得られないもの。どれほどの権力者だとしても、得られない者があるのだと思い知らされたジュウは、自分の手
を見下ろし、強く握り締める。
 再会して攫ってから、真琴はずっと自分に対し怯えたような、悲しそうな表情しか見せなかった。
しかし、海藤が撃たれて傷付いたと知ってから、見違えるほどの気力を見せた。真琴にとって、それだけ海藤という人間が必要な
のだ・・・・・諦めるしかないのか。
 『・・・・・』
 『ジュウッ!』
 そこへ、制止を振り切ってウォンが部屋の中に入ってきた。
何時も通りスーツを着ているウォンが怪我をしているとはとても見えないが、ジュウは僅かに動きの鈍い腕を見つめ、視線をウォン
の顔へと向けた。
 『傷は』
 『あなたが気にされるほどのものではありません』
 即答するウォンに、ジュウは静かに言葉を続ける。
 『・・・・・私を庇って撃たれたんだ、気にしないわけが無いだろう』
 『・・・・・ジュウ?』
 それは、自分でも思いがけない言葉だった。普段ならばロンタウである自分が守られるのは当たり前で、その中で誰がどんな傷
を負おうと、いや、その命さえ落とそうと、それが任務なのだからと何の感情も湧かなかった。
 ただ、今海藤の無事を喜んでいる真琴を見ると、なぜかそう言わなければならないような気がしてしまったのだ。
ジュウでさえ自分の言動の理由が分からないので、ウォンはさらに困惑しただろうが、それでも直ぐにジュウの言葉に感謝の意を示
すように頭を下げた。
 『・・・・・お気遣い、ありがとうございます。ですが、本当に掠り傷ですので』
 『ウォン、お前は自分が傷付いても、私を怨むことはないのか』
 『あるはずがありません。それは私の意志でもありますから』
 『・・・・・』
いずれは片腕となる者だと、幼い頃からジュウに付いていたウォン。その精神の中にロンタウに対しての盲目的な忠誠心が育って
いるのかとさえ思ったが、ウォンはそれを自身の気持ちだからと言い切った。
なせか、ジュウは少し笑ってしまった。
(お前だけは・・・・・何があっても絶対に私の傍にいるのだと確信が出来るな)




 ジュウの纏う空気が変わり、綾辻も最高レベルの警戒を解いた。
大東組の本部にいる限り、こちら側の人間である海藤に危害が加えられる心配はしなくてもいいのだが、命の危機というものに直
面した者は、しばらくの間味方さえ簡単には信じないものだ。
(もう、マコちゃんを追っかけてくることはないかも)
 それと同時に、ジュウが真琴のことを諦めたのではないか・・・・・客観的だがそんな風に感じる。今後、ジュウが真琴目当てに来
日することはないと思うのは、自分の希望的観測なのか。
 「・・・・・」
 不意に、ポケットに入れていた携帯が震える。
まだマナーモードにしていたことを思い出しながら相手を確認すれば、それは綾辻の愛しい人からのものだった。
 「はい、私よ」
 本当ならば掛け直すのだろうが、綾辻は直ぐに彼・・・・・倉橋の声が聞きたかった。今回倉橋は海藤の襲名式の準備に掛かり
きりで、ジュウの問題にはあまり係わっていなかったが、もちろん彼が海藤や真琴を心配していないはずが無かった。
 数時間前何があったのか、既に部下の久保から連絡がいっているはずだが(さすがに海藤が怪我をしたことは伝えなければな
らなかった)、倉橋は海藤と真琴の無事を冒頭で確認してから、綾辻のことは何も言わず、淡々と何時もの口調で話を続ける。
 そこに誰もいないのならば倉橋の言葉をねだった綾辻だが、さすがにこの場ではそれを控えた。
 「・・・・・え?小田切さんが?」
 「・・・・・」
 そんな中、唐突に切り出された名前に思わず声を上げると、周りもその名前に反応して視線を向けてくる。
 「・・・・・分かった、伝えるわ」
綾辻は電話を切ると、江坂を振り向いた。
 「うちの会長と彼を撃った奴は、理事さんが空港内で手配してくれた人が捕まえちゃったでしょう?」
 「・・・・・」
 その現場は、安徳達が見ていたらしいので報告は受けた。
何をするにもそつが無い男だと思っていたし、警察も大勢いる中で負傷している海藤を置いて行けない綾辻は、彼がこの件に係
わったことを聞いてからそれに関しては任せる気でいた。
 「その前に、香港に戻っていた奴もいたらしくて、そっちは小田切さんの知り合いが拘束してくれたそうです」
 「小田切が?」
 「あの人、顔が広いから」
 綾辻自身もかなりの交友関係があり、生まれのせいで広範囲な情報網も持っているが、小田切は綾辻ほどの人数はいないも
のの、意外な所に意外な信奉者を持っている。
今回も、そんな1人に頼んだのだろうが、
(香港の闇の世界にまで手を出しちゃっていたのかしら)
改めて謎な人だなと思った。




 綾辻の言葉に海藤は問い掛けた。
 「それは、例の?」
 「ええ」
肯定した綾辻に、海藤はスーツのポケットから折った紙を取り出した。
香港伍合会の様々な情報を分析していた時、自分達が一番に怪しいと思った相手のことがプリントアウトされている。
 「ジュウ」
 「・・・・・」
 「これを見て下さい」
 海藤が差し出した物をジュウは素直に受け取って視線を落とし、やがてしんなりと眉を顰めた。
 「これは?」
 「今回の襲撃者の背後にいる者と思われます」
 「・・・・・」
ジュウに表情の変化はなかったが、十分驚いているだろうと思う。
それは数年前にジュウが初めて真琴と会った頃、彼が婚約をしていた相手の父親の名前だった。ジュウが真琴を見初め、婚約を
一方的に破棄したらしいということまでは海藤も聞いていたが、その後、その父親の勢力はかなり下降したらしい。
 元々、まだ学生の娘を使ってジュウに取り入ろうとしたくらいの男だ、実力勝負でどうにも出来ないということを知った時、どんな
態度をとったか。
 婚約が決まってから、既にジュウの名前で色々な恩恵に預かっていたらしい男は、切られた途端周りからそっぽを向かれるのと同
時に、それまでのつけが溜まってかなり追い込まれていたようだ。
だが、それくらいで香港伍合会のロンタウを暗殺しようとするなど、常軌を逸したとしか思えない。
(自分はともかく、家族のことを考えなかったのか・・・・・)
裏切り者はその家族親戚もろとも粛清されるというのに・・・・・。

 『ミスターエサカ』
 先に反応を示したのはウォンだ。
 『何か』
 『電話を掛けたい』
建物の中に入る時に、携帯や拳銃はこちら側が押さえたのだろう。ここには大東組の組長もいるので当たり前の処置だが、どうやら
ジュウは文句も言っていなかったらしい。
 「橘」
 「はい」
 江坂はウォンには答えずに橘に命令し、橘が別の男に何事か指摘して、しばらくして携帯電話が2つウォンの手に戻された。
 『我々は席を外しましょう。海藤』
 「はい」
海藤はしっかりと真琴の肩を抱き寄せる。自分の行動をずっとジュウが見ているのは分かったが、ドアが閉まる寸前にもジュウは何
も言わなかった。




 『私だ』
 ウォンが早速組織に電話をしている。
何時もは冷静なウォンが早口でまくしたてる声を聞きながら、ジュウは未だ真琴が消えたドアから目を離すことが出来なかった。
もしかしたら、これでもう会うことは叶わないかもしれない。
それなのに、何も言わずに見送ってしまったことが胸の中に大きなしこりを作った。
 全てが終わったと思わなければならないのだろうか。
自分達の会話は大東組の人間に、いや、あの江坂には筒抜けだろう。盗聴器を仕掛けれらているか、それとも監視カメラか。
内部の混乱を知られるのは得策ではなかったが、ジュウが狙われたという事実はそんな冷静な判断さえもウォンがら奪い去ってし
まったようだ。
 ジュウも、今この場にいる時点で、ある程度の情報を向こう側に知られるのは当然だと思っていたので、あえてウォンの言動を止
めなかった。
表面上の情報は与えても、大陸の組織の深層は簡単には表に出ることはない。
 『ジュウ』
 やがて、電話をいったん切ったウォンがこちらを向いた。
 『・・・・・』
 『アヤの言葉を丸のみにすることは出来ませんが、例の者の一族がいっせいに姿をくらませているのは事実のようです。直ぐに見
付けだすように手配します』
 『・・・・・分かった』
 どんな理由があるにせよ、ロンタウの命を狙ったからには死を覚悟しているとみなさなければならない。
本人だけでなく、妻も娘も、親戚も、全てが同罪と言うことだ。
 『・・・・・確か、愛人に産ませた小さな子供もいたな』
 『潜伏の可能性もあるので、もちろん拘束します』
 『・・・・・』
娘も、そして幼い息子を犠牲にしてまでも何がしたかったのか。今までは裏切り者の思考など想像もしていなかったジュウだが、今
はなぜか気になってしまった。




 ジュウとウォンを部屋に残して、真琴は海藤達と共に別の部屋に案内された。
そこは先程組長と会う時に通されたような洋室ではなく、畳敷きの和室で、20畳ほどの広さだった。綺麗な花が活けられ、高そう
な掛け軸もあって、重厚な一枚板の木で造られたテーブルを見ただけでは、ここが高級旅館ではないかと勘違いしそうだ。
(お、落ち着かない)
 「普段は控室に使っているのですが、あまり仰々しい部屋で無い方が良いかと思いまして」
 ニコニコ笑う江坂の部下の男がそう言ったので、真琴はさらに広い部屋があるのかと溜め息が漏れそうになる。
(凄いお金持ちって考えた方がいいのかも・・・・・)
そして、直ぐに飲み物とお茶菓子も用意された。もてなされているという現実が何だか落ち付かなくて、真琴は無意識に海藤の隣
にくっ付くように座った。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 そんな真琴の様子を相変わらず人の良い笑みで見つめた男は、一礼して座敷から出ていく。
そこには自分と海藤、そして綾辻と江坂が残された。
 「さすが、本部で出されるお茶は美味しいわぁ」
 一番最初にそれに手をつけた綾辻はそう言い、真琴にも飲んでみてと促してきた。つられるように口をつけると、確かに何時も飲
んでいるものと同じように香りが良い。
海藤がお茶には煩いのでお茶はいいものをわざわざ取り寄せているのだが、ここもそんな風に拘る人がいるようだ。
(組長さん、かな?)
 「あ」
 「どうした」
 不意に声を上げた真琴に、海藤が視線を向けてくる。
 「あの、安徳さん達は?」
 「ああ、アンちゃん達もこっちに向かっている最中よ。後始末にかり出されちゃったから少し遅れちゃったけど」
 「じゃあ、2人共無事なんですね?」
 「ああ見えても頑丈なのよ。でも、心配してくれてありがと」
真琴は首を横に振る。
今回のことで迷惑を掛けたのはむしろ自分の方で、真琴の方こそ改めて安徳達に謝罪と感謝の言葉を告げたいと思った。