眷恋の闇
34
『』は中国語です。
ジュウがまだ日本に滞在する・・・・・そのことに胸の中がざわめく真琴だったが、時間は刻々と過ぎていった。
もう、何も心配することは無いと分かっているはずなのに、時々、ふと背後を見てしまうのは、真琴の脳裏の中に今回のことが大き
な傷となって残っているのかもしれないが、それは自業自得なのだからと受け止める覚悟をしていた。
「マコちゃん、いい?」
「あ、はい」
インターホンから声を掛けられた真琴は、慌ててドアを開けた。
「あ・・・・・」
「ん?」
目の前にいる綾辻は、真琴の視線に首を傾げている。
「ちゃんとした格好、してるんですね」
それは、目の前の綾辻が見慣れない格好をしているからだ。
「ふふ、やあねえ、意外と辛辣」
「ご、ごめんなさいっ」
(でも、あんまり見ない格好だったから・・・・・)
今日、いよいよ海藤の理事襲名式が執り行われる。
いや、海藤だけではなく、他にも何人か人間が入れ替わったらしいし、そして今現在理事だった江坂が総本部長というもっと上の
役に就く披露目も一緒に行われるらしく、かなり盛大なものになるようだ。
本来は全くの部外者である真琴がその席に出ることは考えられないことなのだが、ジュウのことがあったばかりなので海藤が心配
をしてどうしても傍においておきたいと思い、表には出ずに控え室で待っていることになった。
海藤は準備のために朝早く迎えに来てくれた倉橋と先に出かけて、真琴は9時過ぎに迎えに来てくれた綾辻と会ったのだが。
(地味な格好なのに・・・・・ちょっと違うんだ)
何時もは明るい色合いのカジュアルスーツや、シャツもネクタイの要らない色付きのものを選んだりと、外見は全くヤクザっぽくない
綾辻なのだが、今日はさすがに黒に細身のネクタイをしている。
「これ、紫黒色っていって、少し紫が入ってるのよ、分かる?」
「・・・・・あ、本当だ」
顔を近づけてスーツをよく見ると、本当にただの黒色ではない。
「こんな色があるんですね」
「社長のめでたい日だし、出来れば赤とかピンクを着たいんだけど、そんな格好じゃ玄関先で追い出されちゃうから。でもねえ、お
じ様達と同じ黒なんて着れないわよ」
お葬式じゃないんだしと言う綾辻のこだわりはこんなところにもあるんだなと真琴は感心したが、そう思うと改めて自分の服装を見
下ろして・・・・・呟いた。
「俺も、スーツが良かったかも・・・・・」
成人式のスーツは家にあるので今更なのかもしれないが、ちゃんとした席にはたとえ出席しなくても服装はきちんとしておいた方が
いいような気がする。
海藤が普段着でいいと言っていたので、それでもシャツにジャケット、そして綿のパンツを穿いたものの、ネクタイが出来るものに着
替えた方がいいかもしれない。
「それでいいわよ」
「で、でも・・・・・」
「マコちゃんは襲名式に出るわけじゃないんだし、それで十分。ほら、行きましょうか」
「は、はい」
綾辻に背を押されて歩きながら、真琴は大きく深呼吸をする。
(ヤクザの・・・・・襲名式、か)
そんなものに自分が係わるとは想像もしていなかったが、海藤と共にいる限り、怖いと思う世界を端からでも見なければならないの
だろう。
逃げられない、いや、逃げるつもりはない。
海藤という人間を一生愛すると誓ったからこそ、真琴はどんな場所にも赴こうと思っていた。
「・・・・・分かった、この後も頼む」
海藤は携帯電話を切った。
「会長」
裏の世界の関係する場では、社長ではなく会長と呼ぶようにしている倉橋が、心配げな表情をしてこちらを見ている。
何を思っているのか十分理解している海藤は、倉橋に心配を掛けないようにと直ぐに電話の内容を説明した。
「ジュウの方は変わりないようだ。もっとも、江坂理事が用意したあのホテルから容易には逃げられないだろうが」
そう思っていても、やはり心配だったからこそ海藤は自身でもジュウの身辺を見張らせていた。今はその報告だったが、どうやら本人
はおとなしくしているらしい。
(帰国は明日・・・・・)
江坂は襲名式が終われば帰国を許可すると言っていた。だとすれば、早ければ明日にでもジュウは香港に帰国する。
「・・・・・」
そのことを真琴に話そうかどうか、海藤は迷っていた。
真琴がジュウのことを気にしているのは感じているし、それが恋愛感情ではないということも理解している。それでも、もしも会わせ
た時にジュウが真琴を連れ去ったら・・・・・今回のことは海藤にも重い記憶として残ったのだ。
「・・・・・」
「こんな日に考えなくてもいいな」
「・・・・・はい」
今日、いよいよ理事として多くの組の上に立つ存在となる。
前回、あんな奇抜な方法で理事になることを回避したくせにと思う組の長はいるだろうし、まだ若手の海藤に役を持たせることを非
難している者もいないわけではないと聞いている。
それでも、自分はまだ幸せだ。江坂が道を作ってくれたので、若くても力があれば上になれるのだという指針が出来ていた。
「・・・・・ネクタイを」
「ああ」
倉橋がネクタイを直してくれ、そのままスーツの襟元をきちんと確認してくれる。
「紋付が良かったか」
「今はスーツの方も多いですよ」
「俺の歳で着るのも嫌味だしな」
「いいえ、きっとお似合いだったと思います」
襲名式にはあえてスーツで挑むことにした。紋付袴も考えたが、こんな時にだけ自分を着飾っても仕方が無いと思ったし、海藤に
とってはスーツが戦闘服なので、こういう式には一番相応しいと思った。
黒ではなく、烏羽色のスーツ。通常の黒よりさらに深く艶めいた黒を倉橋は選んでくれた。
ネクタイは深緋色に金糸の模様のあるもので、この日のためにと真琴が選んでくれたネクタイピンをつける。
「・・・・・会長」
「ん?」
「・・・・・理事就任、おめでとうございます」
「倉橋・・・・・」
今回のことには、倉橋1人で準備をしてくれたといってもいいだろう。
そのせいで、ジュウの問題を今回は外から見ているだけの格好になってしまったが、海藤は倉橋がいてくれたからこそ今日の日を迎
えることが出来たのだと感謝を込めて頭を下げた。
「ありがとう、倉橋。お前のおかげだ」
「そ、そんな・・・・・」
「お前が何時も支えてくれたからこそ、俺は今、ここにいる。・・・・・素人だったお前を無理矢理この世界に引きずり込んでしまった
が、俺は後悔はしていないぞ」
「・・・・・私もです。こうして、上にのぼっていくあなたを傍で見ていられることが幸せです」
感極まったのか、倉橋は俯いてしまった。
トントン
控え室のドアがノックされた。
「・・・・・はい」
倉橋はこみ上げていた感情を何とか抑えると、静かに向こうへ問い掛ける。
「どなたでしょうか」
「俺だ」
「・・・・・上杉会長」
今日は大東組での大きなイベントだ。関東近辺の組長達は手伝いに借り出されているのだというのは簡単に想像がついたが、
その中に上杉がいるとは意外な気がした。
(こんな堅苦しい席からは逃げ出しそうな感じなのに)
倉橋が確認を取るように海藤を振り返ると、海藤は了承したように頷く。
倉橋はそのままドアを開いた。
「よお」
「お疲れ様です、上杉会長」
「今日は海藤の晴れの日だ。さすがに逃げてはいられないだろ」
笑いながら部屋の中に入ってきた上杉はスーツ姿だ。海藤以上に堂々とした体躯の上杉は、まるで自身が主催する会に招待
したかのようににこやかに笑っている。
「ありがとうございます、上杉会長」
そんな上杉に海藤は頭を下げた。
「ですが、あなたも今回こそは引き受けると思いましたが」
「そうか?」
「年齢からいっても、俺よりもあなたの方が先ですし」
「はは、歳くってても使えない奴は上にはあがれないって。俺はまあ、拘束されたくないしなあ」
「拘束?」
「やっとタロと遊べる時間が増えたんだ。後もう少し自由にしててもいいだろ」
「・・・・・」
(苑江君のために断ったというのか・・・・・?)
絶対に、バレてはいけない理由だ。
海藤も、真琴のことを考えて一度理事の椅子を蹴ったが、今回の上杉も同じような理由で理事の椅子を蹴った。喉から手が出
るほどにこの地位を欲している者達からすればそれはとても贅沢な、いや、信じられないような理由だろう。
「まあ、近いうちに俺も上がるだろうし、それまでお前が風通し良くしておいてくれ」
「・・・・・それは難しいですよ」
「お前なら出来るって」
そして、上杉は上にあがるのが簡単だとでもいうようにさらっと言って笑っている。確かに力のある人だが、この総本部で言っても
いいのかと倉橋の方が心配になってしまった。
「ああ、倉橋」
「はい」
「小田切が呼んでいたぞ。ちょっと1階に行ってくれ」
「・・・・・はい」
(そういうことは最初に言って下さい・・・・・)
小田切にどんなことを言われるのかと戦々恐々としながらも、倉橋は丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。
「後始末は済んだのか?」
倉橋が部屋を出てから、上杉は少し口調を変えてそう訊ねてきた。それが何を指すのか、海藤とて分からないわけではない。
「その節はお世話になりました」
小田切の協力があって香港へ逃げた者を押さえることが出来た。それは、きっと上杉の口添えがあったのだと思う。
「まだ日本にいるらしいな」
「襲名式が終わるまでは出さないと」
「はは、考えそうなことだ」
上杉の頭の中に浮かんでいる人物は、多分間違いはない。
どんな僅かな危険の可能性も無視しない江坂は、100パーセントこの襲名式を成功させた後、余計な人物を国外退出させる
気だ。
間違いはない方法だが、上杉にとっては堅過ぎる方法なのだろう。
「海藤」
「はい」
少し考え込むように黙っていた上杉は、軽く海藤の肩を叩いて言った。
「上にあがっても、変わるなよ」
「上杉会長」
「まあ・・・・・お前が変わるとは思わないがな」
後でなと言いながら、上杉は部屋を出て行く。
海藤は彼の言った言葉を考え、そして強く拳を握り締めた。覚悟はしていたつもりだったが、この世界にいる親しいといえる存在の
上杉にそう言われて、改めて強く決意しなければならないと思う。
(俺は・・・・・変わらない、絶対に)
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