眷恋の闇
36
『』は中国語です。
賑やかに綾辻と倉橋が部屋から出ていくと、真琴は改めて静と楓を振り返った。
生まれた家がヤクザをしていた楓とは違い、静は真琴と同じように好きになった相手がヤクザという生業だったというだけで、本来
は今この場所に立っていることも無かったはずだろう。
「静」
「ん?何?」
「・・・・・悩まなかった?」
端的な真琴の言葉に、静はその意味を直ぐに悟ってくれたらしく、そうだねと少しだけ口元を緩めた。
「何も感じないことは無かったよ。今でさえ江坂さんは上の立場らしいのに、それよりももっと肩書が上になっちゃったらどうなるん
だろうって。ついてくれている人の数も増えて、自由に動けなくなることも多くなって・・・・・」
静のその思いは、多分これから真琴が感じることだと思う。
今でさえ一つの組の長である海藤が大きな組織の中枢を担うということは、彼を守るために今よりも人間が増えるということだろう
し、反対に敵意を持つ人も現れるかもしれないということだ。
(静はもう、経験してるんだ)
「でも、仕方ないよね。俺が江坂さんを好きになっちゃったんだし」
「・・・・・」
「怖いという思いよりも、傍にいたいって気持ちの方が大きいから。真琴だってそうだろう?」
「・・・・・うん」
確かに、どんなに悩み、苦しんだとしても、結局海藤の傍から離れるという選択は始めから無かった。
真琴のその思いを感じ取ったのか、静が今度は綺麗な笑顔を向けてくれる。
「答えなんて、その時点で出ているんだと思うよ」
「静・・・・・」
「真琴さんも、静さんも考え過ぎ」
その時、楓がドスンと音がしそうなほど乱暴にソファに腰を掛けながら言った。
「この世界の男達なんて単純なんだ。強いか、弱いか。それだけで一生が決まる」
「え・・・・・それだけ?」
「そう。だから、もっと強くなるために上の地位を欲しがるんだ。あの2人だってそうだと思うけど」
「・・・・・」
「だから、暴走しそうになったら止めてやればいいけど、それ以外は勝手にやってろって放し飼いにしておけば十分」
淡々と言い、用意されたケーキを食べる楓に、静は男前だねえと笑いながら言っている。
真琴も、そう感じた。自分達よりも遥かにこの世界の怖さを知っているはずの楓がこともなげにそう言えるまで・・・・・いったい、ど
れほど感情を揺らしたのだろうかと想像すると、簡単に凄いねと言えないような気がしたが。
(俺でも出来ることって・・・・・あるのかな)
守られるばかりではなく、自分も海藤を守ることが出来るかもしれない。
楓の言葉はそんな可能性を示してくれていて、真琴は自分の手を見下ろし、ギュッと握り締めた。
午前11時。
二部屋を続き部屋にし、30畳ほどの大きな広間と化したその場所には、左右にずらりと各支部の代表の組長や、長老達、そし
て他組織の見届け人が居並んでいる。
正面の床の間を背にして座っているのは組長の永友と、普段は組長代行として飛び回り、なかなか本部に顔を出さない大東
組若頭、天川会(あまがわかい)会長、九鬼栄(くき さかえ)、現大東組総本部長、本宮宗佑(もとみや そうすけ)の3人だ。
それに向かい合うように作られている席は前に一席、その後ろに三席。
今回は五席ある理事の中で三人が新しく選出され、それと同時に現総本部長である本宮が相談役に退き、現理事の江坂が
繰り上がってその任に就くことになっていた。
大東組の中でも、これは画期的な組織内部の改革で、若返りもかなり加速された処置だ。
年功序列を未だ唱える者達は煙たく思う気持ちを抱きつつ、昨今の世情を考えれば力のある者、そして一見ヤクザには見えない
者が上に立つことを認めざるをえないというのが現状だった。
ましてや、今回の人事は、トップ3が考えたもので、他の私欲は一切入っていない。大東組をより堅固なものにするための最強
の布陣だと、誰が見ても納得しなければならなかった。
「これより、大東組新総本部長、及び、新理事の任命を始めます」
司会役の組長が、朗々とした声でこれから大東組を担う者達を呼びいれた。
「新総本部長、現大東組理事、江坂凌二」
奥の襖が開き、そこに正座をしていた江坂が深く一礼してから立ち上がった。
アイボリーブラックのスーツに、ワインレッドのネクタイ。フレームスの眼鏡の奥から切れ長の目で辺りを睥睨する姿は堂々として
いる。
今年の冬に39歳になる江坂は組織の中でも若手であるにも関わらず、30半ばで既に理事に就任し、そして順調に総本部長
に繰り上がった。
他の役員が自身の組も持つ中で、江坂は純粋な大東組の組織の人間であり、現組長が、自身の跡を任せてもいいほどに重
用している・・・・・と、いうのは、もはや大東組の中では常識になっていた。
「・・・・・」
江坂は観察するような、見定めるような、中には嫉妬も含んでいる自身よりも年上の男達の視線の中堂々と歩き、用意された
席に座って深く一礼をする。
この男に、緊張するという言葉は皆無のようだ。
続いて、新理事に就任する者達が呼ばれた。
今現在理事の席は5つで、その内今回現状のままとなった2人は、永友も認めるほどの働きをしている50歳半ばの男達だ。
海藤と共に新しく理事になったのは、2人共40代。江坂という前例があるとはいえ、海藤も異例の速さの出世だが、その背景
を見れば当然だと言われるような血筋ではある。
「新理事、開成会会長、海藤貴士」
最後に名前を呼ばれた海藤は、手を着いて深く一礼をした。
若輩者がと陰口を叩く者もいるだろうが、今この瞬間から、彼らは自分の下となる。気に入らなければ、処分を下すことも可能な
のだ。
「・・・・・」
それほどの権力を持つのだからこそ、海藤はしっかりと気を引き締めなければならないと感じていた。この手に握られた権力は、
相手の命を奪うほどの武器になる。
時計を見ると、既に式が始まる午前11時を10分ほど過ぎている。
「もう、始まってるかな」
「こういう組織って、妙に形式に拘るから」
「え?」
「一分、一秒、時間通りにするってこと」
真琴は楓の言葉に頷きながら時計を見つめる。
予定では正午に終わると聞いたが、それまでいったいどんなことをするのだろうか?
「楓君、襲名式って何をするのか知ってる?」
「え・・・・・っと、多分、組長と盃を交わして、後は出席しているオヤジ達に一々挨拶するんじゃなかったっけ。恭祐が、今日は5
0人近く来てるって言ってたけど」
「50人・・・・・」
それほど多くの強面の男達を前にしたら自分なら泣きそうな気分になってしまうだろうが、きっと海藤は堂々と胸を張って挨拶を
しているはずだ。
(大変だな・・・・・)
この場所で、呑気に待っている自分が申し訳ない・・・・・そんなことを思っていると、トントンとドアがノックされた。
「開成会の海藤です。以後、よろしくお願い致します」
出席者は、代理を含めて52人。海藤達新理事は、その一人一人に頭を下げて挨拶をした。
ただし、頭を下げるのは今日限りで、今後は目の前にいる男達は全て格下という存在になる。直接組長や若頭、総本部長など
に言えない要望は先ず理事に通すのが常なので、彼らも自分よりも年少の海藤達に丁寧に頭を下げていた。
江坂は既に本宮と席を変わり、海藤達とは反対に列席者が挨拶をしに来るのに対応をしている。これが立場の違いというもの
なのだ。
「おめでとうございます」
「・・・・・上杉会長は?」
海藤は目の前の小田切に問い掛けた。
「待ち時間が嫌だからと逃げられました」
「・・・・・」
内情をあっさりとバラす小田切に思わず苦笑を浮かべた海藤は、改めて小田切に向かって頭を下げる。
「今回は本当に助かった」
この場で言うことではないかもしれないが、ジュウのことで今回は随分助かった礼を少しでも早く伝えたくてそう言えば、小田切
は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていいえと返してきた。
「海藤会長には、何時もうちの上杉が迷惑をかけていますので」
「そんなことは・・・・・」
「これからもあの人をよろしくお願いします」
「小田切」
「もう少ししたら、きっとあなたの傍に行くように言いますから」
まるで、親が自身の子供のことを言っているような調子に、2人の関係が分かって思わず笑みが浮かんだ。
「まあ、近いうちに俺も上がるだろうし、それまでお前が風通し良くしておいてくれ」
本人も同じようなことを言っていたが、この主従はそれが簡単に出来ると自信を持っていることが凄いと思う。そして、それはきっ
と無理ではないのだ。
「少しでも早くと伝えてくれ」
「気紛れですからねえ」
それには同感すると海藤が笑えば、横からコホンと咳払いが聞こえる。
「ああ、あまり人気者を拘束すると叱られてしまいそうだ」
しっかりと嫌味を言ってから、小田切はもう一度丁寧に頭を下げる。相変わらずだなと思いながらも海藤もそれに返し、次の相手
へと頭を下げた。
「開成会の海藤です。以後、よろしくお願い致します」
「はい?」
廊下にいるはずの安徳達が入室を許した相手だ、真琴は誰だろうと思いながらも躊躇うことなくドアを開いた。
「あ」
「よお」
そこに立っていたのは上杉だった。彼も同じ系列の組だったんだと、顔を見て改めて思いだす。
「綺麗どころが固まってんな」
相変わらずの軽口を言いながら中へ入ってくる上杉に、静や楓はともかく、自分は当てはまらないと言いたかったが、口調が冗
談めかしたものだったので、ムキに否定する方がおかしいかもしれないと思った。
「上杉さんも来られていたんですか?」
「俺は手伝い。そこの伊崎と同じだな」
「動かないあんたと一緒にして欲しくないんだけど」
「か、楓君っ」
太朗とはとても気が合う友人同士なのに、楓と上杉の相性はあまり良くないというか・・・・・楓が一方的に上杉に突っかかってい
るといった様子だ。
今も上杉は楓の言葉を豪快に笑いとばした。
「俺がしなくっても、十分人手は足りているしな」
「じゃあ、何しに来たんだよ」
「楓君ってばっ」
「そりゃ、お前、海藤の晴れ姿を見に来たんだ」
「上杉さん・・・・・」
何気ない口調だからこそ、上杉にとってそれがごく自然な思い故というのが伝わってきた。
同じ組織の中の、その中でも友人と言える存在なんだと思うと嬉しくなって、真琴はありがとうございますと深く頭を下げて礼を言っ
てしまった。
そんな真琴を見下ろした上杉は、くしゃっと大きな手で真琴の髪を撫でてくれる。海藤とは違う手に、違う撫で方。それでも、そこ
から伝わってくる優しさは同じ種類のものだと思える。
「これから大変だが、しっかりな」
「は、はい」
「まあ、俺の時はタロにそう言ってやってくれ」
元気な年下の友人、上杉にとっては大切な恋人のことでそう言われ、真琴ははいと何度も頷く。自分とは違い、ポジティブで前
向きな考え方の太朗を、自分が支えることはほとんどないのかもしれないが。
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