眷恋の闇
37
『』は中国語です。
上杉はそれだけ言って部屋を出ていった。あまりにもあっけない退場に、どう口喧嘩をしようかと身構えていたらしい楓は拍子抜
けしてしまったようだ。
「何しに来たんだ、あいつ」
「俺達のことを心配してくれたんじゃないかな。一応、一般人だし」
そう言う静の言葉に真琴も同意出来た。
一見して軽く、面倒臭いことは避けて通るような上杉だが、その実、細やかな気遣いの出来る大人だと思う。
(太朗君のことも本音かもしれないけど)
今回、理事にはならなかったものの、上杉ほどの能力とカリスマ性があれば直ぐにでも上に上がれるだろうと海藤は言っていた。
彼が去り際に言った言葉は、もしかしたらそう遠い話ではないかもしれない。
(それでも、俺と違って太朗君なら直ぐに頷くかも)
小柄な身体で大きなパワーを持っている太朗ならば、上杉の立場が変わったとしても悩むことなく笑って受け入れてしまう気がす
る。
「もう、30分過ぎた」
「・・・・・」
静の声にもう一度時計を見上げた。
(戻ってきたら、海藤さんは変わってるのかな・・・・・)
「今後、この体勢で大東組は機能していく。・・・・・頼むぞ」
永友の言葉に、座敷にいた一同は平伏した。
一時間ほどの襲名式は無事に終わり、これで海藤は大東組の理事に就任した。これまでとは桁違いの権力をその手に握ること
が出来たが、同時に身の危険も増えることになる。
特に、若くして理事になった海藤と、それ以上に組のNo.3の総本部長になった江坂は、対外的にも目立ち、標的にされてしま
うだろう。
自分だけならば良いが、海藤にも、そして江坂にも、守るべき者がいる。その相手を守り、その周りにも目を配らなければならない
・・・・・海藤は気を引き締めるように一息ついた。
「海藤」
組長、若頭、相談役と、彼らが座敷から退場すると場の空気も賑やかになる。
こういった大きな金が動く義理事は久しぶりなので皆見栄を張ったのだろう、交わす会話もホラとまではいかないだろうが大きなも
のになっていて、そこかしこで微妙な駆け引きが始まっていた。
総本部長になった江坂には、早速何人もの組長達がまとわりついている。その誰もが娘を持っていたなと海藤が考えていると、
江坂が自分を名指しした。
「はい」
「少しいいか」
「・・・・・」
もちろん、江坂の言葉を断るわけが無い。
周りも何か重大な話があるのだろうと引いてくれて、海藤は江坂と共に中庭に面する庭へと歩いた。
「宴席には出るのか?」
「一応、組長に酌はしようかと思っています」
「私も、始めの挨拶を終えれば帰るつもりだった。後はお前に任せていればいいかとも思ったんだが・・・・・そう言えば、あの子は
連れてきているんだろうな?」
あの子・・・・・その言葉に、少し苦笑した。
「こういった席に、身内の者を呼ぶのはどうかとも思ったんですが、お言葉に甘えまして・・・・・」
「構わないだろう、お前の連れでもあるしな。私も、今から組長に時間を取ってもらって、静を会わせようと思っている」
「・・・・・そうですか」
式の最中、倉橋からその報告は受けた。
真琴と、静と、楓。こんな場所にいるのが似合わない3人が一つの部屋で式が終わるのを待っているというのも複雑な思いがした
が、どうやら江坂は自分が真琴を永友に紹介したように、静のことを自身の伴侶として紹介する気だ。
自分と同じように独占欲の強い江坂が、いくら総本部長になったとしても最愛の静を手放すとは考え難く、自身の力を信じてい
る彼は、名前だけの妻を娶るつもりもないらしい。
(本当に、似ている・・・・・)
「日向の息子は宴席に呼ばれるだろうからな、見張りを増やしておく」
「私の方でも手配をしておきます」
「・・・・・全く、娘の人格など全く無視してまで力が欲しいものかな」
「・・・・・」
それは、本当に力がある江坂だからこそ言える言葉だと思う。
さすがにそれを口にはしなかったが、海藤は直ぐに倉橋の姿を捜した。
相変わらず、謎な人間だなと思う。
倉橋は目の前で大きな口を開けて笑う綾辻をじっと見つめていた。彼の傍にいる男は、大東組の中でも気難しいと言われている
古株の組長だ。いったいどこで2人の接点は出来たのだろうか?
「・・・・・」
その組長だけではなく、綾辻はそこかしこから声をかけられていた。
そのどれもが好意的であったし、楽しそうな表情でもあって、綾辻が相手にどんなふうに思われているのか十分感じ取れる。
(・・・・・本当に、不思議だ)
倉橋がこの世界に入った時、綾辻は既に海藤の傍にいた。
派手な外見で、まともに仕事も出来ないだろうと軽く見ていたものの、想像以上に彼が有能で、驚くほどに広い交友関係を持っ
ていることを知るのにそんなに時間は掛からなかった。
今目の前で話している人物達とも、きっとその性格と手腕を認められて可愛がってもらっているに違いない。ただ真面目で、堅
苦しい自分とは違うなと目を伏せた倉橋は、自分を呼ぶ海藤のもとへと足早に向かう。
倉橋にとっては海藤に認められたらそれでいい。今日の彼の晴れの姿を感慨深く見ていた倉橋は、自分の後ろ姿に注がれる熱
い眼差しに気付くことは無かった。
「それで、倉橋さんがわざわざ?」
「はい」
襲名式が終わっただろう時間からしばらくして、真琴達がいる部屋に倉橋と伊崎、そして橘が揃ってやってきた。
静は江坂が呼んでいるということで橘と向かったし、楓はそろそろ着替えるために伊崎が呼びに来たらしい。
「あー、メンドー」
「楓さん」
「分かってるって、これも仕事のうち!」
苦笑を洩らす伊崎にそう言った楓はんーっと伸びをすると、真琴を振り返って笑った。
「後でもう一度くるから、それまで帰らないでよ?」
「大変だね」
そうでなくても気難しいであろう怖い年上の人間が相手なのだ、自分にはとても出来ないなと真琴が言うと、楓はさらにおかしそ
うに目を細める。
「平気、慣れてるし、おじいちゃん達のお触りなんて可愛いもんだし」
「お、お触り?」
(いったいどんなことするんだ?)
酌をすると言っていたが、変なことはされていないだろうか。
余計な心配かもしれないが思わずそう聞きそうになって、真琴は楓の隣にいた伊崎の姿に気付き、口を噤んだ。楓の恋人である
伊崎が傍にいる限り、楓にもしもということは無い気がした。
「何か軽いものでも用意させましょうか?」
部屋の中に2人きりになった時、倉橋はテーブルの上に視線を向けながらそう言った。テーブルの上にはまだ用意されたケーキ
や菓子などがほとんど手つかずに残っている。
「気になって、喉を通らなくて」
「無理もありません、真琴さんはこういうことは初めてなんですから」
倉橋はそう言いながら窓辺へと向かい、締め切ったままのカーテンを少しだけずらして外を見つめた。
「警察やマスコミ、そして他の組織の人間も、今日のこの襲名式には注目しているようですし」
確かに、ここに来る時のカメラや警察の数を考えると頷ける。
「・・・・・海藤さん、危ないことは無いですよね?」
「大丈夫ですよ。役職に就けば組から有能なガードがつくようになりますし、元々うちの会長は武闘派の人間ではないので、過
激な敵はいませんし」
「・・・・・」
「それに、マスコミも会長や江坂総本部長のようなビジュアルには興味を持つでしょう。かえって下手に手を出されることは無いは
ずです」
海藤も江坂も、とてもヤクザには見えず、どちらかと言えば役者にでもなりそうなほどに見目が良い。目立つということはそれだけ
で武器にもなりうるのだと納得はするものの、真琴は少しだけ海藤が遠い存在になったような気がして寂しいと感じてしまった。
黙ってしまった真琴に、倉橋は自分の言葉が彼を傷付けてしまったのかと焦ったが、真琴はしばらくして顔を上げると申し訳なさ
そうに訊ねてきた。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「何でしょう?」
真琴の気がまぎれるのならば何でも話そうと思った倉橋だが、続く言葉はとても受け入れられる類のものではなかった。
「ジュウさん、何時帰るんですか?」
「・・・・・」
「倉橋さん」
「そんなことを聞いてどうされるんですか?」
既に、真琴とジュウの関係は完全に切れたはずだ。海藤を傷付けたジュウのことを真琴も許してはいないはずで、今改めて彼の帰
国日を聞いたとしても何もすることはない。
(・・・・・まさか、復讐するとでも・・・・・いや)
それこそ、あり得ない。
「あの人の身柄は江坂総本部長の預かりになっています」
「江坂さんの?」
「そうです」
この機会にと、江坂はかなり頻繁にジュウのもとに通い、自分に優位になる情報を手に入れようとしているらしい・・・・・とは、綾
辻の言葉だ。
あの男がそう簡単に口を開くとも思えないが、この日本にいる限り江坂が優位なのは事実なので、きっと自分達のような下の人間
が知る由もない駆け引きが繰り広げられていると思う。
ただ、そうだとしても、やはり真琴にはこれ以上係わって欲しくないというのも本当で、倉橋は意識して声を落とした。
「会長にこれ以上の心配は掛けないようにしていただけませんか」
「・・・・・っ」
真っ直ぐな倉橋の眼差しに、真琴は思わず息をのんでしまう。
倉橋がここまで強く言う理由・・・・・それは、きっと海藤の負った傷が原因だろう。あの時傍にいなかった倉橋は、守れなかったこと
を悔やんでいた。
それは海藤本人や綾辻が宥めても、かなりの時間尾を引いてしまったようだ。
(だから、余計に心配して・・・・・)
真琴がジュウに特別な感情を抱いていないと分かっていたとしても、会うという事実だけで倉橋は敏感に反応してしまうのかもし
れない。そんな彼に、真琴は思わず謝罪してしまった。
「ごめんなさい」
「真琴さん」
「俺、俺はただ・・・・・」
彼を追い詰め、その頬を叩き、それで本当に終わっていいのかと悩んでいた。自分の弱さや、悩みを、思いがけなく表に引きずり
出されてしまったが、それでも今では良かったと思える。
もちろん、それでも彼がしたこと・・・・・海藤が傷付けられたことは許せるものではないが。
(でも、あれも・・・・・ジュウさんが指図したわけじゃない)
「・・・・・真琴さん」
「・・・・・」
「私は感情が欠落しているせいでしょうか・・・・・あなたの考えが分かりません」
少し寂しそうに笑う倉橋。彼にこんな顔をさせたことが申し訳なくて、真琴はもう一度すみませんと呟き、頭を下げることしか出来
なかった。
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