眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 自分はとても偏った人間だと倉橋は自覚している。
身の内に入れた者はどんなことがあっても守ろうと思うし、反対に、線を引いた向こう側にいる者はどうでもいいときっぱりと切り捨
てることが出来た。
 今回など、始めから真琴に理不尽な想いを向けるジュウに思う所はあったが、海藤を傷付けられたことにより、それは明確な敵
意となって倉橋の心の中に刻み込まれた。
 海藤を愛し、ずっとジュウの求愛を拒んでいた真琴も、きっと自分と同じ気持ちだと思ったのだが・・・・・どうやら真琴は自分の考
えとは少し違う思いを持っているようだ。
 「ごめんなさい」
 目の間で自分に対して頭を下げる真琴。どうして自分などに頭を下げるのか分からない。海藤の一部下である自分に彼が気を
使ってくれることは無いのだし、どちらかと言えば命令さえすれば倉橋は動かざるをえないのだが。
(・・・・・それが、真琴さんなのかもしれないな)
 自分と人は違う。それは認めなければならない現実だ。
しかし、それが海藤に関することならば、倉橋は黙っていることは出来なかった。
 「会いたいのですか?」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「分かりません」
 気持ちを誤魔化しているようには見えなかった。真琴自身、自分がどうしてそんな風に考えているのか分からないふうな、心細
い表情をしている。
(・・・・・情けない)
 これが綾辻ならば、きっと真琴の思いを察して代弁出来るだろうに、自分はただ真琴の言葉を待っていることしか出来ない。
真琴に対して申し訳なく、そして自分自身が情けなくてたまらなくて、倉橋は俯く真琴を見つめながら拳を握りしめていた。




 せっかくの海藤の晴れの日に余計なことを言ってしまった。
真琴はそう思い、困らせてしまった倉橋に対して謝ったが、倉橋はその理由を訊ねてきた。
(ジュウさんに・・・・・会いたい?)
 自分から切り出したことなのに、真琴は本当にそうなのかどうかは分からなかった。ただ、このままではいけないと思うだけで、
明確な理由を口にすることも出来ない。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 ただ、何も言えなくて、お互いが黙り込んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。
 「・・・・・」
その途端空気が揺れ、倉橋が歩いていく。
(・・・・・緊張した・・・・・)
 「はい」
 「私」
その声に、倉橋は躊躇い無くドアを開いた。




 真琴と倉橋の2人、きっとまったりとした時間を過ごしているんだろうなと思っていた綾辻は、開いたドアの向こうに現れた倉橋
の顔に思わず眉を顰めた。
 普段からあまり表情を表に出す倉橋ではないが、その感情を自分はかなり細かく見ることが出来ると綾辻は自信を持って言え
る。今も、なぜか苦痛を耐えているようなその表情を見て、綾辻は奥にいる真琴の顔も見た。
(何があったのかしら・・・・・?)
 倉橋は真琴を可愛がっているし、真琴も倉橋を慕っている。そんな2人が対立することなど無いはずなのに、この様子を見れば
誰でもが気まずさを感じるだろう。
 「どうかしましたか?」
 しかし、倉橋は何も感じさせないように訊ねてきた。表情も意識したのか無に近いものになってしまう。
 「・・・・・会長が、マコちゃんに」
 「え?」
真琴が思わずと言ったように声を出した。
 「さっき、江坂総本部長から聞いたの。彼、今日の夕方の便で香港に帰るらしいわ」
 「・・・・・っ」
 「・・・・・」
 真琴と倉橋の視線が絡まった。どうやらこの微妙な雰囲気はジュウのせいらしい。
(この場にいないくせに厄介ね)
そんな時にこの話題を出しても良いものかどうか考えたが、今言わなければならないので仕方が無い。
綾辻は軽く倉橋の肩を叩いてから部屋の中に入ると、呆然と立っている真琴に向かって笑い掛けた。
 「どうする?」
 「ど、どうする?」
 「会いたいんなら連れて行ってくれるそうよ」
 「え・・・・・海藤さんが?」
 「それ以外、こんなことを許す人なんていないでしょう?」

 「綾辻、真琴に伝えてくれ」

 宴席のさなか、海藤に呼ばれた綾辻はそう耳打ちをされた。
まさか、あんなことがあって真琴をジュウに会わせることを考えるなどと思ってもみなかったが、海藤の表情には無理をしていると
いった様子は無かった。
どちらかと言えば静かな表情で、全てを受け止めるといった雰囲気に見え、綾辻は反射的に上座に座っている江坂へと視線を向
けた。
 「・・・・・」
 江坂は、こちらを見ていた。綾辻と視線が合うと、僅かに目を細める。
どうやら、このことは既に了承しているらしいと、綾辻はそれを正確に真琴に伝えに向かった。

 今この時に真琴とジュウを会わせてもいいのか、綾辻にも分からない。
前回も空港にまで見送りに行き、あの男は真琴を諦めることなくまた会おうと言ってきた。その言葉通り、再び日本に、真琴の前
に現れたジュウ。その行動力は要注意だ。
 「会長も同行するそうよ。一対一じゃないのは許してね」
 「そ、そんなことっ」
 「最後に、ちゃんと言っておきたいことがあるんじゃないの?」
 「・・・・・」
 真琴はじっと綾辻の顔を見つめ、その後に背後にいる倉橋へと視線を移す。
(どうする?マコちゃん)
また同じ過ちを繰り返すのか、それとも今度こそ相手に引導を渡すのか。それを決めるのは真琴で、自分はただそれを海藤に伝え
る役目を持つだけだった。




 【どうして帰っちゃったんだよっ】
 「ごめん、楓君、急用が出来ちゃって・・・・・また近いうちに絶対に会おう?」
 横に座っていても、電話の主の声が聞こえてくる。その内容はまるで小学生のようで、海藤は見掛けによらず真琴に対しては甘
えた子供になってしまう楓の顔を思い浮かべた。

 海藤が宴席を立つ少し前にやってきた楓は、綺麗なラベンダー色のスーツに、白いドレスシャツを着ていた。
直ぐに永友に酌をして、続いて九鬼、そして江坂へと酌をしていく。
やっていることは女と同じなのだが、楓の持っている雰囲気や性格からか、それはとても卑屈に見えないのが感心するほどだ。
他にも何人もの女がいたが、楓の美貌は群を抜いており、合わせてどんな強面の組長達とも笑顔で話をするという度胸の良さも
あって、彼が事あるごとにこんな席に呼ばれるというのも頷けた。
 「・・・・・」
 廊下では伊崎がじっとそんな楓を見つめている。何かあったら直ぐに駆けつけられるように片膝を立てた格好だが、多分伊崎が
出ていくようなことにはならないだろう。
 「総本部長」
 海藤は、丁度挨拶の波が途切れた江坂の前に歩み寄った。
 「例の人物、本当は今日帰国ではありませんか?」
 「・・・・・どうしてそう思う?」
 「向こうは一刻でも早く国に帰りたい所を、今日の襲名式まで留まった。これ以上は義理立てする必要もないと考えているように
思いますが」
江坂は杯を口にした。
 「それならば、会う許可を下さい」
 「・・・・・やるのか?」
 「最後に、話したいんです」
 「お前が?」
 「・・・・・」
 「甘いな、海藤」
 海藤がなぜそんなことを言いだしたのか、どうやら江坂には予想がついたようだった。別に隠すつもりは無かったが、口に出して
言うことでもないと海藤は口を閉じたまま江坂を見つめる。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
自分の誘いにも感情を揺らさない海藤に、江坂は笑って・・・・・傍にいた下っ端の組員を呼んだ。
 「橘を呼んでくれ」

 見届け人として、江坂の部下の橘も同行することで面会は許された。
そのことを綾辻に告げ、真琴に会う意思があるかどうかを確認させた海藤は、迎えに行った時のその頼りない表情を見て、思わず
笑いながら抱きしめてしまった。
 「どうした、そんな顔をして」
 「だ、だって、海藤さん、俺・・・・・っ」
 「このまま会わずに帰したとしても、お前の気持ちの中に彼の存在があれば俺が面白くないんだ。俺の気持ちをすっきりとさせる
ためにお前を同行させるだけなんだぞ?悪いな」
 そう言った途端、真琴は海藤の胸に顔を押し付けてきた。
声を噛み殺し、泣いているその頭を何度も撫でながら、海藤は自分達を見ている倉橋を見る。
 複雑なその表情は自分を思ってのことだと十分分かっている海藤は、声には出さず、すまないと口を動かしてその思いを感謝し
た。

 そして、今、車はジュウの滞在するホテルに向かっていた。
空港だと、以前のことを真琴が思いだすかもしれないと、ワンクッションを置くためにホテルで会うことにしたのだ。
 「・・・・・」
 海藤は隣に座る真琴の肩を抱きしめる。ジュウと会って、何を話すのか今は自分でも分からないが、真琴の中のわだかまりがこ
れで解けてくれるようにと願った。




 「・・・・・会いたい、です」

 倉橋にジュウのことを訊ねた時は、まだ明確に会って話すということまで考えてはいなかった。
それが、思いがけず海藤の提案で実際に会うことが決まって、真琴は自分でもどうしていいのか分からないままだ。
 「・・・・・」
(倉橋さんはどう思っているんだろう・・・・・)
 倉橋は、橘を乗せて別の車で後ろからついて来ている。彼の気持ちも気になって後ろを振り向いた真琴に、海藤はどうしたと訊
ねてきた。
 「・・・・・俺って、馬鹿かもしれない」
 「ん?」
 「自分で、自分の気持ちがよく分からなくて・・・・・。ただ、それでも・・・・・」
 「いいじゃないか、それでも」
 「え・・・・・で、でも、それじゃあ・・・・・」
 「彼に会って、何も言うことが無くても、顔を見るだけでお前の気持ちがやすまるのならそれでいい。真琴、この際相手の気持ち
は考えるな。お前がどうしたいのか、どう思っているのか、それだけを考えろ」
 海藤は、どこまでも自分の味方だ。ずるい考えでさえ許容してくれ、さらには逃げ場所まで考えてくれている。
嬉しくて、申し訳ない。
(・・・・・ちゃんと、考えよう)
 ホテルまでどのくらいの時間があるのか分からないが、真琴は海藤の優しさに逃げることだけはしないように、何とか自分の考
えをまとめようと思った。