眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 都内の外国人客も多いこの一流ホテルは、2年ほど前にオーナーが変わった。
外国資本が入ったのだが、そのさらに上で操っている人間が本当は日本人だということを知る者は少ないだろう。
 大東組が海外からくる関係者の宿を確保するために江坂が第三者を介して買い取り、今ではこの中で働いている半分ほどの
従業員は組の息が掛かった者達だった。

 海藤はフロントに向かわずに、そのまま最上階へ向かう専用のエレベーターに乗り込んだ。
 「海藤さん」
 「部屋は橘が知っている」
不安げな真琴にそう伝えると、橘が穏やかな笑みを浮かべたまま頷く。
そして、最上階に着くと彼が先頭に立って歩き始める。さすがにこの階は部屋数は少なく、橘は扉の前に2人の男が立つ部屋
の前まで来ると足を止めた。
 「・・・・・」
 橘が1人の男に視線を向けると、男は直ぐに鍵を取り出して扉を開ける。
中に知らせるインターホンを押すことも、ノックもしないことも、こちら側の優位を見るような気がして、海藤は今中にいるはずの
ジュウの心境を思った。
 『何者だ』
 部屋の中は静まり返っていた。どうやら中にまでは見張りはいないらしい。
(盗聴器くらいはし掛けているかもしれないな)
しかし、さすがに部屋の中に侵入者がいれば気付くもので、直ぐにウォンが姿を現した。
 『・・・・・』
 江坂から海藤が訪れることは聞いていたのか、ウォンは海藤の顔を見ても表情を変化させなかった。しかし、その背に隠れる
ようにして立っている真琴の姿に、目を瞠り、しんなりと眉を顰める。
 『どういうつもりだ』
 『来客があるとお知らせしたはずですが』
 『カイドーだけではなかったのか』
 『そう、申しましたか?』
 『・・・・・』
 ウォンは橘を凍えそうなほどの殺気を込めた目で見つめていたが、ここで反論しても無駄なことを知っているのだろう、フッと視
線を逸らして背を向ける。
 「どうぞ」
 相変わらず態度を崩さないまま、橘は振り返って促してきた。どうやらこの男も、見掛けとは裏腹に一筋縄ではいかない男の
ようだと海藤は感じた。




 豪華な部屋の中を見れば、とても不自由をしているとは考え難い。
それでも、四六時中監視され続け、主導権が相手側にあるという時間は、自身が上に立つ立場のジュウにとってはとても辛い
ことだったのかもしれない。
 「大丈夫か?」
 「・・・・・」
 海藤が気遣うように訪ねてくれて、真琴はコクンと頷いた。ここまで来て逃げることは考えていない。

 「マコ」

柔らかく、独特のイントネーションで自分の名前を呼ぶ人が、この扉の向こうにいるのだ。今日、帰ってしまうという相手に自分
が伝えること・・・・・。
真琴は強く拳を握り締めたまま、ゆっくりと海藤の後に付いて行った。




 『海藤がそちらに向かいます。くれぐれも実力行使などなさらないように』

 江坂からの電話で海藤が訪ねてくることは知っていた。
実力行使と言うが、自分達は何の武器も持っておらず、部下達との連絡も一切遮断されている。唯一、ウォンが共にいること
は認められたが、今のジュウは羽のもがれた蝶と同じ立場なのだ。
(カイドーは何を言いにくる?)
 真琴に手を出すなと改めて念を押しに来るのだとしたら、それこそとても馬鹿らしい話だ。
今後、ジュウがこの日本に来ることがあったとしても、真琴を訪ねることはとても難しいし、ジュウとしても真琴と会って何を話し
ていいのか今は全く分からない。

 「自分の命を懸けて、勝手なことをしたっていうんですかっ?海藤さんも、ウォンさんもっ、あなたを守ってくれたんですよっ?ど
うして一言素直に、ありがとうって・・・・・言えないんですかっ?」
 「勝手だなんてっ、そんなことを言うあなたは許せない!」

 守ってもらうことが罪なのか。
欲しいものを奪うことが悪なのか。
そう言っていたら、ジュウはあの暗黒の世界で一秒も経たないうちに命を奪われてしまうだろう。真琴の言うことは確かに正論か
もしれないが、自分の生きている世界はその正論が通じない世界であることをどう説明したとしても、多分真琴には分からない。

 「ミスター」
 「・・・・・」
 リビングに続く扉が開かれ、現れたウォンの後ろから海藤の姿が見えた。
 「セレモニーは終わったのか」
 「・・・・・ええ」
 「そうか」
これで、海藤は大東組の中でも力を持つ。今でも十分ジュウに対してあがいていたが、今度は権力を持っているだけに厄介だ。
 「・・・・・」
 黙って見つめていると、海藤が中に入ってくる。その背後に、小さな姿が見えた。
(まさ、か・・・・・?)
どうして彼がここにいるのか分からない。
自分に対して憎しみや恐れしか抱いていないはずなのに、いざ日本を発つという時になって姿を現した愛しい人に、ジュウはた
だじっと見つめることしか出来なかった。




 何時も曖昧な笑みを浮かべていたジュウの表情が明らかに変化した。
自分の後ろにいる真琴を見た瞬間に目を見開き、続いて細めて・・・・・ただ見つめている。
 「・・・・・」
 今までは自信に満ちた声音で真琴の名前を呼んでいたのに、今の彼にはその力強さを感じない。
あれほどの想いを向けた真琴の拒絶が相当ショックだったのかもしれないと、海藤は先ず自分から切り出した。
 「私は今日、大東組の理事になりました」
 「・・・・・」
 「それでもまだ、あなたに遠く及ばないのは分かっています」
 香港で一、二を争うほどの組織を背負うジュウと、日本の一組織を束ねる自分の力の差は歴然としていた。正面からぶつか
り合えば負けてしまうのは目に見えている。
 「ただ、この力をどうして手に入れたのか、私の覚悟を分かってもらえれば十分です」
 海藤はけして屈することの無い自分の意思を認識していて貰いたかった。
 「・・・・・そうか」
 ソファに座ったまま、ジュウは動かない。
そんな彼に、海藤は背後の真琴に言った。
 「真琴、話したいことがあるんじゃないか」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 真琴は自分の後ろから前に出て行ったが、その視線はジュウではなく床に向けられている。
心のうちに様々な葛藤があるのは確かなのだろうが、それをどう言葉にしていいのか分からない・・・・・そんな真琴の気持ちは
海藤も分かっていたので、急かすことはしなかった。
 「・・・・・」
 対するジュウは、視線は真琴に向けられているものの、自分からは何も話そうとしない。
沈黙は、そのまましばらく続いた。

(真琴?)
 どのくらい経ったか、真琴が海藤の手を掴んできた。繋ぐのではなく、縋るように腕を握り締めてくる真琴の手の力に、海藤
は内心頑張れと声援を送る。
 「あ・・・・・の」
やがて、その海藤の気持ちが伝わったのか、真琴が口を開いた。
 「こ、この間は、ごめんなさい」
 「・・・・・何を謝る」
 「俺、ジュウさんを引っ叩いて・・・・・手を出す前に、ちゃんと口で言わなくちゃいけなかったのに・・・・・」
 改めて頭を下げる真琴に、ジュウはいやと言葉を挟む。
 「カイドーを傷付けられたお前が私に怒りをぶつけるのは分かった」
 「ジュウさん」
 「・・・・・だが、ウォンのことを憤るお前の気持ちは分からない。ウォンは私を守るために生き、死ぬと定められた者だ。私の
命令一つで簡単に死ぬし、人を殺せる」
 「・・・・・っ」
ジュウ達が生きる厳しい世界の一端に触れた真琴が、その衝撃を耐えるように手に力を込めてきた。海藤が眉を顰めてしま
うほどのその力に、それでも海藤は声を洩らさなかった。
 「今回のことも、ウォンはただ自身に課せられた使命に従っただけだ。マコ、お前は何を悲しんだ?」




(分かって・・・・・くれなかった?)
 ウォンがジュウのために傷付くのは当たり前のことではないのだと、どうしてジュウは分かってくれないのだろう。
ここまで来ると何だか悲しくなって、真琴は鼻がツンとしてきた。もちろん、今泣くわけにはいかない。真琴には信じられないが
ジュウの中ではそれは常識で、その常識を正せと言われても素直に頷けないことは理屈では分かるのだ。
 そう・・・・・分かるが・・・・・。。
 「俺・・・・・ジュウさんが、帰るって、聞いて」
 「・・・・・」
 「最後に、どうしても・・・・・」
 「マコ」
 「・・・・・っ」
声が詰まってしまった真琴に、ジュウが静かにその名を呼んだ。何時もと変わりないその響きに、真琴は唇を噛みしめて俯く。
 「・・・・・」
 何時の間にか下に落ちてしまった手を、海藤が力付けるように握り締めてくれた。
後悔しないように、そして、自分の憂いを全て吐き出してしまえと言ってくれているような手の温かさに、真琴は何度か荒く息
をついてから再び顔を上げる。
 わざわざここまで連れて来てくれた海藤の思いに応えるためにも、真琴は今日で全てを終わらせようと思った。
 「前にも言いました。俺は、海藤さんが好きで、彼とこの日本にいます」
 「・・・・・」
 「もしも、あのままジュウさんに香港に連れて行かれたとしても、俺はあなたを好きにはならないし、ずっと海藤さんを思い続
けたと思います」
 「マコ」
 「ジュウさんに初めて会った時は、優しい人だなって思って・・・・・あなたが海藤さんと同じ世界の人だということも信じられな
くて、俺は心の中のどこかであなたを信じたいと思ってました。でも、あなたが強引に俺を連れだそうとして、海藤さんも傷付い
て、信じようとした自分の気持ちが裏切られたような思いであなたを引っ叩いたけど・・・・・」
それでも、悪いことばかりではなかった。
 「でも、あなたのおかげで、俺は改めて自分と海藤さんのことを考えられた。そのことには、感謝しています」
 守られるばかりでは駄目だと、教えてくれた。

 「お前が海藤を裏切ることが出来ないと思うのは分かる。だが、このままで本当にいいのか?」
 「香港に来れば、お前は新たに向かい合うことばかりだろう。それでも、充実した日々を過ごせると思うぞ」
 「私と共に来なさい。それが、お前の新たな道の始まりとなる」

あの言葉は、甘えてばかりだった自分の心を奮い立たせてくれた。そのことには素直に感謝をしたいと思う。
 「・・・・・ありがとう、ございました」
頭を下げ、真琴は真摯に礼を伝えた。