眷恋の闇




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                                                                     『』は中国語です。






 嫌悪や恐怖の感情を向けられることに慣れているジュウだが、こんな風に純粋な感謝の気持ちを向けられたことは無くて、表情
には表わさないものの戸惑いが大きかった。
(マコは私を怨んではいないのか・・・・・?)
 愛人である海藤を直接傷付けてしまったのはジュウの意図するところではないが、その状況に追い込んだのは間違いなく自分
であったし、もしもあの時第三者が現れなかったら、ジュウは自分が躊躇い無く海藤の息の根を止めたと思う。
 今現在、海藤がこの場にいるということで、真琴は自分を許したのか。
 「・・・・・」
それとも、もうそんな感情を向けるのさえおぞましいと・・・・・思っているのか。
(お前の気持ちを私に教えてくれ)
 この先も、僅かでも光が見えるのか、永遠に続く暗闇が待っているのかを知りたい。
 「・・・・・マコ」
 「・・・・・」
 「マコ、私は・・・・・」
(私は、ただ・・・・・)
 安らげる場所を、自分が本当に信じられるものを手に入れたいと思っただけだ。そんな些細な願いさえ叶えられないのならば、
ロンタウという地位など全く意味も無い。
 一方で、この地位があったからこそ、自分が今まで生き残ってこられたことももちろん分かってはいる。
功と罪。今自分が掴んだものがそのどちらなのか、唯一欲し、その手を振り払った真琴だけが知っているような気がした。
 「私の、ことを」
(頼む、マコ)
 「少しは、好ましく・・・・・思ったか?」
(私の存在を受け入れていたと言ってくれ)
彼の次の言葉は、ジュウの胸を突き刺す刃となるのだろうか。




 ジュウがどんな返答を待っているのか、真琴には分かったような気がしていた。
出会ったことを無にしたくない、その存在を目に映して欲しい・・・・・。
好ましく思っていたかどうかと訊ねられたら、始めのうちはと答えたと思う。それからの、ジュウの一方的な想いはとても怖くて、海
藤が傷付けられた時には憎しみさえ感じたが、どの時も、真琴はジュウに対して色んな感情を向けていた。
 しかし、今伝える言葉は、そんなものではないだろう。
 「・・・・・」
唇を噛みしめた真琴は、やがてゆっくりと口を開いた。
 「なにも・・・・・思っていません」
 「・・・・・何も?」
 「好きでも、嫌いでも、ない。俺には、あなたは、どうでもいい・・・・・人です」
 「・・・・・っ」
 全身が焼かれるほどの強い眼差しを受け、今自分の声は震えていなかっただろうかと思うが、感情が高ぶっているせいか真琴に
は自分の言葉の抑揚が判断つかない。
 「・・・・・では、何をしにここに来た」
 「・・・・・」
 「お前にとってどうでもいい人間のために、なぜここまで来たんだ」
 「・・・・・どうしてだろ」
 「・・・・・」
 「どうして・・・・・」
 ここまで来てしまったことは、もしかしたら間違いだったかもしれない。ジュウの想いに応えられないくせに、自分の感情を押し付
けに来てしまったのかもしれない。
(でも、最後に会わなくちゃいけないって・・・・・思った)
 どんな感情からにしても、真琴に今の自分の立場や思いを自覚させてくれた。
甘えて傍にいるだけではだめなのだと、言葉で頬を殴られたような気がした。
 まだ大学生で、大好きな人が傍にいて、その優しい腕の中で全ての問題を後回しにしようとしていた自分が、本当に馬鹿で、
子供だと分かった時点で、真琴は前に向かって歩きださなければならないと思ったのだ。
(ごめんなさい、ジュウさん)
 ここでそう言ってしまうのは、多分思われている自分の傲慢さを見せ付けるような気がする。だからこそ真琴は、自分にとってジュ
ウの存在は無なのだと、どんなに苦しくても自分の口で伝えなければならなかった。




 真琴の顔は真っ青だ。
唇は細かく戦慄いて、今にも倒れてしまうのではないかと感じるほどの危うさがある。
 それでも、自分の気持ちをちゃんとジュウに告げる彼に、自分が口出すをするべきではないと思った。今の自分は、真琴をここに
連れてきた以上の行動をとってはならない。
それは真琴の中のプライドを傷付ける行為だと、海藤は分かっていた。
 「・・・・・無、か」
 「・・・・・」
 「愛情はおろか、憎しみも向けられないとはな」
 ジュウの口元が僅かに歪んだ。
何時も浮かべている読めない笑みではなく、自分に向けた凍えるような笑みでも無く。
多分、この歪んだ笑みが、ジュウにとって初めて見せた素直な心の動きなのかもしれない。
 「・・・・・カイドー」
 ジュウは真琴から海藤に視線を移した。既に口元には何時もの笑みが浮かんでいた。
 「私の帰国時間は分かるか」
 「それは・・・・・」
 「それは私の方が心得ています」
海藤が答える前に、今まで空気のように存在を消していた橘が口を挟んできた。
 「あなたの準備が整ったのなら、今からでも」
 「・・・・・ウォン」
 「はい」
 「行くぞ」
 「はい」
 ジュウが眼差しを向けると、橘は海藤を振り返る。
 「私はここで」
 「ああ。手間を掛けてすまなかった」
 「いいえ」
一礼をし、ジュウ達の前を歩いて部屋を出ていく橘。その後ろを付いて行ったジュウは、すれ違う時・・・・・一瞬だけ、立ち止り、真
琴に視線を向けて言った。
 『・・・・・私の可愛い兎』
 「・・・・・」
 中国語の分からない真琴はパッとジュウを振り返ってその意味を問おうとしたが、再び歩き始めたジュウの足はもう止まらなかっ
た。
何度も、真琴に対して兎と例えていたジュウだが、それまでの愛おしさを込めた響きとは少し違う響きの言葉の中には、それまで
の自分の想いと決別する気持ちがあったのかもしれない。
 「・・・・・」
 海藤はその背中をじっと見送る。
もしかしたら、最愛の者を奪っていたかもしれない男。それだけの力は十分備えていたはずなのに、強引に、冷酷になりきれなかっ
たのは、それほどに、ジュウの中で真琴の存在は大きかったのだ。
 二度と会わないかもしれない。
いや、この次に会うことがあっても、多分もうジュウは真琴の名前を口にしないだろう。真琴の拒絶を受け入れたジュウの、それは
意地でもある気がした。




 「・・・・・」
 隣に立つ倉橋が、大きく息をついたのを感じた。
(終わっちゃったのね)
あまりにも相手が大き過ぎて、考えればこの出来事がごく短期間のうちにあったということを忘れてしまいそうになる。
 「克己」
 「・・・・・」
 「御苦労さま」
 「・・・・・私は何もしていません」
 淡々と言う倉橋だが、彼が裏でちゃんと働いていたからこそ、海藤の襲名式は無事に終わり、自分はジュウのことに専念するこ
とが出来た。派手な動きは自分達だったかもしれないが、明らかな功労は倉橋にあるとちゃんと分かっている。
(帰った後、大変でしょうね)
 今回の襲撃が身内の反逆で、過去の粛清が完全で無かったということはジュウに対しても非難の声が大きく上がるのは避けら
れない。
元々が、勝手に婚約を解消してしまった末の相手方の暴走なのだが、それをきちんと収めてこそのロンタウだと勝手に人は言うだ
ろう。
 もしかしたら、その地位を返上せよという声も上がるかもしれないが、多分・・・・・いや、確実に、ジュウは今よりも強くなり、その
地位を盤石のものにするよう動くはずだ。
そのあたりの感情は、普通の人間と少し違う気がするが、彼の生きるあの世界では当たり前のものかもしれない。
 「暇になったらデートしましょ」
 「私に暇はありません」
 「ん〜、もう」
 「忙しくても、会う努力をすればいいでしょう」
 「え?」
 思い掛けない倉橋の返答に思わずその顔を見たが、何時もと同じに無表情に・・・・・いや、耳たぶが少し赤くなっている。
 「・・・・・」
 「ふふ」
(可愛いんだから)
離れている時間が多かった分、話したいことはたくさんある。
綾辻は早速海藤に休暇を貰おうと(それは直ぐに倉橋に却下されるのだが)張りきった。




 パタン

 ドアの閉まる小さな音がして、真琴はようやくポロっと涙を流した。
何度手で拭っても溢れてくるその涙の理由をはっきりと説明することは出来ないが、今これを止めることはとても出来そうにない。
 「・・・・・」
 「・・・・・っ」
 俯きがちになっていた顔が、不意に上向きにされた。海藤の気遣う眼差しが苦しくて視線だけは逸らしたが、濡れた頬にそっと
唇が押し当てられた瞬間、涙は勢いよく零れる。
 「お、俺っ」
 「・・・・・」
 「ひ、酷い、こ、と・・・・・、いった・・・・・っ」
 それは、言葉を伝えたジュウに対してもそうだが、その言葉を聞くことになってしまった海藤に対しても申し訳なくて、真琴はしゃ
くりあげながらごめんなさいと言い続けることしか出来なかった。
 「違う」
 しかし、海藤はそんな真琴に対して、静かに言い聞かせるように話してくれる。
 「ここまで来て、あの人に会ったお前は優しくて強い。俺が自慢出来るほどにな」
 「か・・・・・っ」
 海藤は真琴を胸に抱きしめてくれた。トクトクと規則正しい胸の鼓動を聞くと、彼が生きて自分の傍にいてくれることが改めて
嬉しくて、あんなふうに苦しい思いはもうしたくないと思う。
誰もかれもに、いい顔をすることは出来ない。海藤の手を取るのなら、ジュウに気持ちを寄せることはしてはならないのだ。
 「・・・・・帰るか」
 身体を離した海藤が、髪を撫でてくれながら言う。
 「・・・・・」
 真琴は頷いた。海藤の帰るという言葉に、こうして自然に頷けることが嬉しい。
 「綾辻」
 「は〜い、車を回しますね」
 「いや、一緒に行こう」
 「分かりました」
(ごめんなさい・・・・・)
海藤と綾辻の日常を感じさせる会話を聞きながら、もう伝える相手のいない言葉を、真琴は何度も何度も口の中で呟いた。