眷恋の闇










                                                                     『』は中国語です。






 何時も通り美味しい朝食を食べ終え、2人で片付けをしていた時、海藤がふと気付いたような口調で真琴に言った。
 「今日から海老原は来ないからな」
 「え?」
突然のことに、真琴は思わず声を上げた。
昨日別れる時までは、全く変わった様子は無かった。いや、ジュウと再会して呆然としていた自分をとっさに保護し、海藤の元へと
連れ帰ってくれた彼に、突然自分の運転手から外すというような失態はありえない。
 これが何もない時ならば、常々自分専用の運転手をしてくれる海老原に申し訳ないという気持が大きいので、この機会に彼が
別の仕事を任されるのも嬉しいと思うくらいなのだが・・・・・。
 「あ、あのっ」
 「降格じゃない」
 「・・・・・じゃあ?」
 「用心のために別の奴をつけることにした。お前も覚えているだろう?安徳(あんとく)と城内(きうち)だ。丁度香港から帰ってきた
ところで、直接ここに来てもらうことになっている」
 「安徳さんと城内さんが?」
 その名前に、真琴は懐かしさを覚えた。
去年の夏、ある事件が切っ掛けで、自分についてくれた2人だ。

 安徳芳(あんとく かおる)。薄い唇に一重の目をした、少し近寄り難いほどに硬質な雰囲気の人。
城内雅弥(きうち まさや)は、長い茶髪を後ろで一本に縛り、耳にもピアスがしてあり、綾辻と良く似た雰囲気ながら、さわやかな
今時の青年といった雰囲気も持っていた。
 安徳は29歳で、城内は26歳。
この世界には安徳の方が長くおり、会長である海藤への忠誠心とは別に、綾辻に対して強い憧れを抱いているらしい。

 「帰って来てるんですか?」
 確か、綾辻から海外を飛び回っているという話を聞いていたので、まさか昨日の今日で彼らが目の前に現れるとは想像もしてい
なかった。
(まさか、俺のせいで・・・・・)
 香港ならば、数時間の旅だ。今回のジュウのことで急に呼び戻したのではないかと思ったが、海藤はそんな真琴の不安を払拭
するかのように頬に指を触れてきた。
今まで水を使っていたので、少し冷たくてピクッと震えてしまう。
 「日本に戻ってくる用があったんだ。前につけたし、お前も気が楽かと思ったんだが・・・・・他の人間にするか?」
 「ううんっ、いいです!」
 「・・・・・本当に?」
 「仕事の邪魔にならないんなら、安徳さん達が側にいてくれると安心です」
 以前、銃の前に平然と身を躍らせた彼ら。身体を張って自分のことを守ってくれた彼らに対する信頼感は強く、真琴はそれほど
に自分の気持ちを考えてくれていた海藤に感謝した。




 インターホンが鳴る。
今日は海藤がカメラで相手を確認すると玄関先まで迎えに出た。
 「御苦労だった」
 「おはようございます」
 「おはようございます」
 安徳と城内はきっちりと頭を下げて挨拶をしてくる。
普段は1年のほぼ3分の2ほど海外にいる2人とはあまり顔を合わせず、もっぱら綾辻にその対応を任せていたが、2人の有能ぶ
りと自分への忠誠は先の事件の時にも自分の目で確認出来たし、海外生活が長いだけ危機意識も高いはずだ。
 倉橋には大東組の問題を、綾辻にはジュウのことを任せる中で、この2人が真琴の護衛としては最良だと思った。
 「おはようございます」
そこへ、真琴がやってきた。顔見知りの2人に会うと、嬉しそうに顔を綻ばせている。
 「今回はすみません、またお世話になります」
 「いいえ」
 「安徳さん」
 「今回こそは私達もあなたを完璧に守ってみせます。前回のような不甲斐無い真似は絶対にしませんからご安心下さい」
 前回、真琴を連れ去られてしまった(2人も連行されたが)ことは、安徳にとっても忸怩たる思いだったのだろう。
海藤は真琴を守ってくれた2人に対し、感謝の思いしかなかったが、あの後何度も謝罪をされてしまったことを思い出して少しだけ
苦笑を零した。
 「お前達を信頼している」
 「社長・・・・・」
 「真琴を頼むぞ」
 「はい」
2人同時に頷く様子に、海藤もその思いを受け取って頷いた。

 それから直ぐに、海藤はスーツの上着に腕を通した。
 「悪いな、真琴」
 「いいえ、仕事なら当たり前です」
 「・・・・・」
 「海藤さん?」
 「今夜は早く帰る。ゆっくりと話したいこともあるしな」
午後2時に千葉の本家に向かい、そこで詳しい話を聞くことになるはずだ。いったいどのくらいの時間拘束されるかは分からないも
のの、それでも何時もの帰宅時間よりは早いだろう。
 ジュウのことはもちろん、海藤自身の昇進のことも真琴にきちんと話し、納得してもらわなければならない。最悪、真琴が嫌だと
言えば・・・・・海藤はこの話を蹴るしかなくなってしまうからだ。
 もちろん、真琴が我が儘を言う性格ではないと分かっているし、たとえ内心で何を思おうとも先ず海藤のことを考えて答えるだろう
とは思うが、それでは駄目だと海藤は思っている。
ちゃんと納得した上でないと、何時自分達の間が綻びてしまうか分からないからだ。
(話して理解してもらえるものかは分からないが・・・・・そう信じたい)
 「バイトは無かったな?」
 「はい」
 「帰れる目処がついたら電話をする」
 「分かりました。気をつけてくださいね」
 玄関先まで見送った真琴が、子供のように手の平を振って見送ってくれる。
そこに自分達以外の人間がいることは百も承知だったが、海藤は思わず真琴の腕を引き寄せるとそのまま唇を奪った。




 チュク

 見送りのキスにしては濃厚な水音をたてて唇を離した海藤をぽうっとしたまま見送った真琴は、
 「・・・・・」
 「・・・・・」
ようやく、そこで黙って立っていた安徳と城内の存在に気付いて瞬時に赤くなった。
 「ご、ごめんなさいっ」
いったい何に対して謝っているのか自分でも分からなかったが、真琴は慌ててそう言ってしまう。
 「いいえ、気になさらず」
 安徳は全く表情を変えずにそう言うが、真琴の性格としては気になって仕方が無かった。そんな安徳のフォローのつもりなのか、
城内が笑って本当に気にしないでくださいと続ける。
 「お2人の愛の巣に入り込んでいるのはこちらの方なんですから」
 「あ、愛の・・・・・」
(その言い方、は、恥ずかしいんだけど・・・・・)
 外見も性格も、この城内は綾辻によく似ている。いや、綾辻に似せているといった方がいいのかもしれないが・・・・・2人共彼の
部下だと聞いたので、尊敬する上司を真似ようというつもりなのだろうか。
(そのままでもカッコイイと思うけど・・・・・)

 「今日のご予定をお聞きしていいですか?」
 大人2人の生活。海藤も真琴も男にしては片付ける方なので部屋は散らかっておらず、そのまま2人をリビングに連れて行った
真琴はお茶を入れようとした。
 しかし、安徳はお構いなくと断り、早速というように真琴に向かってそう切り出してくる。その様子に、真琴も向かいのソファに座っ
て言った。
 「午前中は大学に行きます。就活のことでも教授に話があるし」
 「・・・・・ああ、4年生でしたね」
 「はい。まだ何も決まってなくて恥ずかしいんですけど」
 この時期になって一つも内定を貰っていないのが恥ずかしい。
今の就職難で、きちんと就職活動をしてもなかなか内定を貰うのは難しいのに、自分などはようやく動こうかとしているのだ。
 「・・・・・社長の会社に入社されないんですか?」
 そんな真琴に、安徳は当然真琴はそうするつもりだったと思っていたように首を傾げて言った。
 「そ、そんなこと、考えていません」
 「社長が駄目だと?」
 「いいえ、海藤さんはそんなこと言いませんけど・・・・・」

 「自分のしたいことをゆっくり考えたらいい。回りを見て慌てることはないぞ」

海藤はそう言って真琴を慰めてくれるが、自身の口から自分の会社に入社しろとは言ったことはなかった。
真琴も、全く考えたことが無いとは言わない。海藤の直ぐ側で、彼を支える仕事がしたいと思ったし、海藤の経営する会社はヤク
ザ家業とは全く別次元のものだ。
 それでも、安易にそこに逃げていいのかと思う自分も確かにいた。
年少の友人達が自分の考えをきちんと持って大学に入学したというのに、自分だけ流されるように用意された場所に座るのは違
うのではないか。
(そんなふうに思うこと自体、甘いのかもしれないけど)
 それでも、自分でも足掻いていたい。
 「ちゃんと考えたいんです」
 「・・・・・そうですか」
安徳はそれ以上は追及せず、直ぐにスケジュールへと意識を変えてくれた。
あまりにもあっさりとした話題の変換だったが、これも安徳の優しさだと十分感じることが出来た。




 「アンちゃん達、間に合ったんですね」
 「ああ。急がせて悪いことをした」
 「構いませんよ。何時だって分刻みで動いているようなもんですし、社長直々の命令を受けて喜んでいますよ、きっと」
 綾辻は笑って海藤にそう言った。それはけして自分の勝手な想像ではなく、確かに昨日聞いた安徳の声に喜色を感じたからだ。
(海外の仕事も楽しいだろうけど、たまにはご主人様のために働きたいわよねえ)
 「俺は今から千葉に行く。倉橋、いいか」
 「はい」
 「じゃあ、後で私が様子を見に行きますね」
 「頼む」
本家での堅苦しい挨拶等々は、やはり性には合わないので、ここは離れる寂しさを我慢して倉橋に頼んだ方がいい。真面目で、
綺麗な顔をしている倉橋は、悔しいが大東組の上の人間には評判がいいのだ。
(あの人達って、基本的に面食いなのかも)
 立場が低いはずの日向組がかなりの厚遇を受けているのも、そこの組長の弟、日向楓(ひゅうが かえで)の絶世の美貌を愛で
る特典があるからだというのは暗黙の了解だ。
 「あ」
 「どうした」
 「確か、日向組のお姫様、ジュウの側近のウォンに好かれていましたよね?いっちゃんに教えてあげた方がいいかも」
 「・・・・・そうだな。ジュウが同行している限り、あの男が勝手に動くことはないと思うが・・・・・」
 「真琴さんと楓さんの関係に気付かれたら、それを利用するという可能性もあるかもしれません」
 倉橋のその助言に、海藤は頷いた。
 「向こうの情報量も侮れない。綾辻」
 「ええ、連絡します」
それは、弟を溺愛する日向組の組長よりも、楓の恋人で若頭である伊崎恭祐(いさき きょうすけ)にした方がいいかもしれない。
(大学院に行ってたほどおりこうさんなんだし、ちゃんと考えるでしょう)
 「行ってくる」
 「行ってらっしゃ〜い。克己、気をつけてね〜」
海藤ではなく自分の名を呼んだ男を倉橋は睨んできたが、綾辻は全く気にすることなく笑いながらウインクをしてみせた。