眷恋の闇










                                                                     『』は中国語です。






 「あの、ここです」
 大学の教授の研究室の前に来た真琴がそう言うと、安徳は頷いて背後の城内に合図をする。
 「分かりました。私達のことはお気になさらず、ゆっくりと話されてください。終わり次第連絡をいただけたらここまで迎えに来ますの
で、必ず連絡をお願いします」
 「・・・・・その間、お2人はどこに・・・・・」
 「ブラブラとしていますから」
 「ブ、ブラブラ?」
安徳にはとても似合わない言葉に、真琴はその言葉の裏を考えた。
海藤の命令を受けてついてくれている2人が、いくら真琴の所在がはっきりとし、そこが安全だと分かっていても自由行動するとは
考えられない。
 きっと、その間もどこかで自分のことを守ってくれているのだろうと思うが、それを言えばまた安徳達に気を使わせてしまうということ
も分かるので、真琴は本当にすみませんと一礼してからドアをノックする。
(出来るだけ早く切り上げよう)
 今この時、自分のことだけを考えている場合ではないかもしれない。大学にまで現れたジュウの真意をきちんと確かめるまで、真
琴は周りに迷惑を掛けることだけはしないようにしなければと考えた。




 ドアの向こうに真琴の姿が消えた瞬間、安徳は携帯電話を取り出した。
 「私だ。東棟の3階、右から2つ目の部屋だ・・・・・ああ、頼む」
今回、真琴の前に護衛として顔を見せたのは安徳と城内だけだが、2人はその下に自由に動かせる組員を預かっていた。
今回の相手は香港マフィアの大物であるし、海藤が出来るだけ完璧な安全策をとろうと考えている結果、十人ほどの機転の利く
者が選ばれたのだ。
 「・・・・・」
 電話を切った安徳に、城内は手筈の確認を取る。
 「窓の下は2人?」
 「ああ。後各通用門に配置している。向こうがどんな手を使うか分からないからな」
 「真琴さんもやっかいな相手に気に入られましたね、ブルーイーグルなんて」
 「・・・・・」
ブルーイーグル・・・・・香港伍合会の龍頭の噂は、主に東アジアを拠点にして動いていた安徳と城内も聞いていた。
冷酷無比で、その容姿も分からない謎の男。若いのか、年寄りなのか、男か女か、顔はおろか名前までも様々な噂ではっきりし
ない相手に、今回の任務の重要さを痛感している。
 真琴と男がどんなふうに出会い、男がどんな感情を真琴に抱いているかも全て情報として持ってはいるものの、安徳はいまだに
ブルーイーグルが誰かを欲しているとは信じられなかった。
(誰にも心を開かず、誰も愛さないと聞いた男が、よりによってうちの会長の恋人になど・・・・・)
 「来ますかね」
 「先日、ここまで来たという話だ。大学かバイト先か、どちらにせよ、あいつらが周りを気にして動かないとは思えない」
 下手をすれば、目撃者を殺すことも躊躇わずしてしまう集団だ。
 「・・・・・今回は、絶対に守るぞ」
 「芳さん」
 「あんな失態は、二度は許されない」
怪我も無く、結果的に全てが上手く解決したとしても、真琴の心に傷を負わせてしまったことは確かなはずだ。海藤や綾辻に信
頼されて任された任務を、今回こそは完璧に成し遂げるつもりだった。
(何時までという期限が分からないだけ厄介だがな)
 安徳は時計を見た。
 「今から30分後に交代だ。その間各自配置の確認を」
 「はい」
大学内での真琴の交友関係も考え、目立たないように行動することも重要だ。交代時間も考えてそう言った安徳の言葉に城内
は頷き、早速というように行動を開始した。








 大東組本部、千葉の本家に到着した海藤は、そのまま組長がいるという座敷に案内をされた。
ここに来るのは今まで年に二、三度だが、今後はもっと頻繁に訪ねることになるだろう。代替わりがあり、中の組織図も大きく変貌
してから随分と風通しは良くなったらしいが、それでも重く、ピリピリとした雰囲気が海藤に襲い掛かった。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 何時もは付き添いの組員は別室に通されるのだが、今回は同行した倉橋も同じように後を付いてくる。真実、理事就任という
ことがはっきりした後の様々な手続きのこともあるからだ。
 「組長、開成会の海藤会長がお着きです」
 「ああ、入れ」
 「海藤会長、どうぞ」
本家に仕えている男が恭しく頭を下げてから襖を開く。海藤は正座をしたまま深く頭を下げた。
 「お久し振りです、永友組長」
 「よく来たな、海藤」
朗らかな様子で迎えてくれた永友に、海藤ははいと言葉短く答えた。

 関東随一、そして日本でも有数の広域指定暴力団、大東組の最高権力者、7代目現組長の永友治(ながとも おさむ)。
今年58歳になる彼は、最高権力者になって7年ほど経った。それが長いのか短いのかは分からないが、大きな抗争も無く、反対
に組織内をかなりの変革で今の形にしたというだけ、歴代の組長の中でも特筆すべき存在だ。
 それまでの年功序列から実力主義へ、暴力よりも経済力を重視と、今の世の中を生き抜いていく為の変化で、当初は反意を
抱いていた下の組織の者達も、その改革が成功したことによって永友の力は組織の中で揺ぎ無いものになっていた。

 白髪交じりの髪を綺麗に撫で付けた永友は、一見どこかの重役のように上品な見かけだが、彼の怒った姿は修羅のごとく恐ろ
しいらしい。その姿を見たのはごく限られた者達だけだが、噂だけは天下に響き渡っている。
 「とうとう年貢を納めてくれるか」
 「大変光栄なお話だと思っています」
 「今まで逃げていたが、今回に限ってなぜ受ける気になった?」
 「・・・・・」
 確かに、今までは縛られるのが嫌で役職を蹴った。群れるのが嫌ということもあったが、事あるごとに父や伯父の名前が出てくると
いうことも、自身のプライドを揺さぶったからだ。
 それが如実に現れたのが二年前の理事選で、あんな裏技を駆使してまでも指名を蹴った自分が、今はこうして全てを受け入れ
るために本家に来ている。月日が経ったとはいえ、その翻意の意味を知りたいというのも十分理解出来た。
 「力が欲しいからです」
 そして、今の海藤は永友にその理由を言える。
 「力か」
 「はい」
 「・・・・・お前の周辺で物騒なことでもあるのか?」
 「・・・・・」
(まさか、ジュウのことをもう?)
あまりにも情報が早いと思った海藤だったが、
 「組長、江坂理事がお着きです」
外から聞こえてきた声にその理由を汲み取り、永友からは見えないように溜め息をついた。




 いずれは報告しなければならないとは思っていたが、そこに江坂の存在があるということはある程度の情報はもう漏れているという
ことだろう。その理由まで言っているのだろうか、海藤は開けられた襖の向こうに視線を向けた。
 「失礼します」
 「少し早かったな」
 「海藤を呼んだと聞きまして、少し話が出来ればと」
 「なんだ、俺を仲間外れにするつもりか?」
 「まだお伝えする段階にはないので」
 淡々と答える江坂の口調は一見すると突き放したように冷たいが、永友はもう慣れているのか少しも気にした様子は無い。
今の大東組の中枢にいると言ってもいい江坂。今回は4月1日付けで総本部長に格上げ、正式な披露目は15日に行われる
と聞いた。名実共に権力者となる江坂に、海藤は改めて頭を下げた。
 「このたびは総本部長への就任、おめでとうございます」
 「お前も、ようやく理事を受けてくれるそうだな」
 「はい」
 「藤永もお前くらい素直ならな」
 「・・・・・横浜、清竜会(せいりゅうかい)の、ですか?」
 海藤の問いに答えたのは友永だった。
 「ああ。横浜、清竜会(せいりゅうかい)の藤永清巳(ふじながきよみ)だ。今回は理事の総入れ替えをするつもりで藤永の名前
も挙げたんだが」
 「これ以上忙しいのは嫌だそうだ」
そう続けた江坂は苦い笑みを浮かべる。
 「今回は組長に一任されて、私も理事の選抜に口を出させてもらった。今の不況の世の中、私達の世界も行き抜くことが第一
だからな。何時までも他人の金に縋っていては共倒れになりかねない。上納金の金額から考えて、開成会、羽生会、清竜会の
長を選ぶのはごく自然のことだと考えた」
 海藤は何度か会ったことのある藤永を思い浮かべた。
女性的な容姿を持つ藤永だが、その手腕は強引で大胆だ。付いている者達もどちらかといえば武闘派が揃っているらしいが、会
長である藤永と若頭がしっかりと手綱を握っていると聞く。
 「では、今回は藤永会長は」
 「やる気のない者は要らない」
 合理主義らしい江坂の判断ははっきりしている。
 「上杉は保留だ。小田切が間に入ってなかなか話を進めさせない。もう時間がないし、近日中には直接赴いて話をするつもり
だが、奴は多分受けるだろう。・・・・・お前と同じ理由でな、海藤」
言葉にしなくても、江坂の言いたいことは分かる。海藤は頷くと、改めて永友に向き合った。




 襲名の日やその手筈など、事務手続きは開成会からは倉橋が、江坂のもとからは直属の部下である橘英彦(たちばな ひで
ひこ)が責任を持って手配することになった。
 上杉が話を受けるのならば、羽生会からは多分小田切が出てくるだろうが、小田切も橘も癖のある人間だけに、倉橋はかなり
苦労するはずだ。
 「海藤」
 「はい」
 座敷から辞した海藤は直ぐに江坂に呼び止められた。
 「先日の電話の件だが」
そして、前置きも無く話は始まる。
 「自家用ジェットでの来日は確認出来たが、今現在の所在は不明だ」
 「・・・・・そうですか」
 「あの子が目的か?」
わざと名前を言わないでくれている江坂の気遣いに感謝しながら、海藤は多分と答えた。直接会って話をしたわけではないもの
の、来日して直ぐに真琴の前に姿を現したという事実だけでも十分だろう。
 「以前もご迷惑をお掛けしないと言ったんですが・・・・・」
 「私情では組は動かせない」
 「分かっています」
 ジュウの目的が国内の別の所にあればまだ動きやすいが、真琴のことだけが目的ならば大東組を動かすことはとても出来ないだ
ろう。
 「だが」
納得した海藤の顔を見ながら、江坂は静かに続けた。
 「友人としてならば手は貸そう」
 「江坂理事・・・・・」
 「静の大切な友人を、むざむざ国外に攫われることはさせない」
 意外な言葉だった。今までの江坂ならば、自分に全く関係の無いものに対して動くことなどしなかったはずだし、その上真琴自身
に物質的な価値(財産や地位)は無いので関心さえないはずだった。
それなのにこうまで言ってくれるとは、江坂の内面もここ数年で随分変化したのかもしれない。
(それは、俺も同じか)