異国の癒す存在
18
『』は中国語です。
何時もと変わらない穏やかな笑みを浮かべたまま、ジュウが自分と海藤の立っている方へと歩み寄ってくる。
真琴自身は怖いという感情はなかったものの、肩を抱いている海藤の手の力はますます強くなってきた。
(何だろ、海藤さん、ジュウさんと何か・・・・・)
海藤の仕事面で対立があるのかと心配になった真琴に向かい、ほとんど手を伸ばせば手が届きそうな位置まで近付い
てきたジュウが言った。
「マコ、私は三日後に香港に帰る」
「え・・・・・はい」
何を言いたいのだろう・・・・・不思議そうな顔をした真琴に、ジュウはふっと笑みを深くした。
「香港は刺激的な街だ。きっとマコも気に入ると思う」
「え?」
「何も用意する必要は無い。そのまま、私に付いてきなさい」
「ジュ、ジュウさん?」
(それって、俺を香港に連れて行くって事?どうして急にそんなこと・・・・・?)
何がどうなっているのか、真琴は全く分からなかった。真琴からすればジュウはあくまでも店の客の1人で、それ以上の
何も知らない人だ。
確かに何度か話をしたし、その時のジュウの受け答えや態度に好感を持ったのも確かだが、だからといってこのままノコノコ
とジュウに付いて香港まで行くほど真琴も無知ではない。
ようやく・・・・・本当に、もう遅いかもしれないが、真琴はジュウという男に対して警戒感を抱いた。
「で、出来ないです」
「マコ」
「俺は家族がいるし、学校もあるし、それに、海藤さんと一緒にいたいし。ジュウさんに付いて行く事なんて出来ません」
「どうしても?」
「だって、一緒に行く理由が無いです」
『理由さえあれば構わないと言うことか・・・・・ウォン』
いきなり中国語でジュウが何か言うと、ウォンがそれに応えるかのように指を鳴らした。その瞬間、入口の扉が開かれ、
無表情のまま銃を構えた男達が立ちふさがる。
いったい、何をしようとしているのかと、真琴は思わずその名を叫んだ。
「ジュウさん!」
出来れば真琴には恐怖感を与えたくは無かった。
好意を抱くまでには至っていないだろうが、好感は抱いてくれているだろう感情を損なうことなく真琴を香港に連れて行き、
そこで自分への愛情を育ててくれればいいと思っていた。
権力の頂点に立つ自分がこれほど心を砕くことなど初めてだが、それでも真琴の海藤に対する思いは想定以上に大き
いらしい。金銭や物欲など全く絡まないからこそ余計に厄介だった。
(それでも、マコは連れて行くが)
一度決めたことを覆すつもりは無い。ジュウは今まで見せていたような柔らかな笑みではなく、怯えた表情を向けてくる真
琴に眉を顰めながら言った。
「大人しく、私の言う通りにしなさい」
「やです」
「マコ」
「嫌ですっ」
「カイドーが五体満足な身体ではなくなるよ?」
「え・・・・・」
「お前を怯えさせるのは本意ではないが、我が儘を許すことは出来ない」
そう言うと、ジュウは左手の指を僅かに動かす。その途端、
バシュッ
鈍く空気が揺れる音がした。
海藤は銃口が自分に向けられていることを自覚していた。数メートルという至近距離で弾が逸れることなど万が一にも
無いだろうが、それで海藤自身が怯むということは無い。
しかし、今自分の腕の中には真琴がいた。ジュウが真琴を傷付ける気がないことは今までの言動からも確信出来ていた
が、もしも弾が逸れてしまったら・・・・・そう思うと、真琴をどこか安全な場所へと移動させたかった。
(どうする・・・・・もしもこのまま連れ去られるようなことでもあれば・・・・・)
真琴を危険から遠ざけることを要求すれば、ジュウは多分容易に受け入れるだろう。しかし、そのまま真琴を連れ去ら
れたりしたら本末転倒だ。日本国内ならばまだしも、海外に・・・・・しかも香港など相手のフィールドに入られたらそれこそ
取り返しが付かないだろう。
「・・・・・」
じりじりとした思いのまま海藤が動けなかった時、
「お前を怯えさせるのは本意ではないが、我が儘を許すことは出来ない」
そんなジュウの言葉と共に、微かな空気の揺れを感じた海藤は、とっさに真琴の身体を全身で抱きこみ、入口に自分の
背を向けた。
バシュッ
その直ぐ後、いや、ほとんど同時と言ってもいいくらいに、サイレンサー銃特有の音がしたが、海藤は覚悟していた衝撃を
身体に感じなかった。
「真琴、痛みは?」
「え?」
海藤に抱きこまれた真琴の身体にも弾は当たっていないようだ。
まさかこの至近距離で外すなどということは考えられず、脅しの為に使ったとしても何の音もしない・・・・・。
「・・・・・っ」
そこまで考えた海藤は、この場にもう1人いた自分達の仲間を確認した。
自分の右斜め前に立っていた綾辻は先程と一歩も変わらない位置に立っていたが・・・・・いや、先程とは少しだけ雰囲
気は違っている。
「綾辻」
綾辻は左頬から血を流しながら、滅多に見せない凄烈な笑みを浮かべていた。
(なかなかやるな)
銃を構えた男の指が動いた時、とっさに海藤と真琴を庇う為に動こうとした綾辻はその動きを止めた。銃口が狙ってい
るのは海藤達ではなく自分だと判断したからだ。
構える向きを見ても殺す為ではなく脅しの為の発砲だろうということは分かったので下手に動かない方がいいと思い、予
想した通り、弾は綾辻の心臓ではなく左頬と耳たぶの間を抜けていった。
掠った為に血は流れてしまったが、恐ろしいほどの腕前に綾辻は恐怖よりもワクワクとした高揚感を感じてしまう。
(俺だったら、耳たぶを吹き飛ばしていたかもしれないが)
「お見事。ぜひ的撃ちで勝負したいところね」
『・・・・・』
無表情だった男は、僅かに眉を上げた。
左手の人差し指を動かせば脅し。右手の人差し指を動かせば殺害。
銃口に背中を向けていても、自分がターゲットの間近にいたとしても、部下を自分の手足と同様に思っているジュウは全
く動じることも無く指を動かした。
あれだけの至近距離で銃で撃たれたのに、全くダメージを負っている感じではない海藤の部下に、ジュウは改めて視線
を向ける。派手な容貌の表情に見えるのは恐怖ではなく、遊び相手を見付けたような喜悦だった。
(確か、以前会った時はいなかったな)
以前海藤と会った時に側にいたのは、眼鏡を掛けた神経質そうな美貌の男だ。これだけ度胸のある男をなぜ連れて来
なかったのか・・・・・そう考えたジュウの頭に、パッと香港からの報告が繋がった。
香港到着時から監視をまいて、かなり踏み込んだ情報を掴んだらしい海藤の部下。
(この男がそうなのか)
「面白い男を飼っているな、カイドー」
「部下は飼うものじゃない」
怒りを押し殺したように海藤は言うが、ジュウはいったい海藤が何に対して怒っているのかが分からなかった。この目の前
の男の行動は、自分の主を守る為なら当然のものでしかない。
「ボスの為に命を投げ出すんだ、防壁みたいなものだろう?」
「・・・・・」
ごく当たり前にそう言ったジュウの耳に、
「・・・・・酷い」
震える真琴の小さな声が、ひどく大きく響いた。
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