異国の癒す存在




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『』は中国語です。





 江坂は目の前にいる男を見て、僅かながら眉を顰めた。
(これが、香港伍合会のロンタウ?)
直ぐ側には、何度か顔を会わせた事のあるウォンが控えていて、その後ろにあるソファに優雅に腰を下ろしている男。
穏やかな笑みさえ浮かべているこの男が、どう見ても自分と同世代だろうその男が、香港でも屈指の組織の頂点にある
とは一瞬考えにくいことだった。
 「エサカ、こちらが我々のロンタウだ」
 「・・・・・」
(間違いではないようだな)
このウォンが口から出まかせを言うとは思えなかったし、そもそも反乱分子を取り押さえてその身の安全を確保した者に向
かい、影武者を会わせるということは無いだろう。
海藤の反応から見ても彼が本物のロンタウであることを確信した江坂は、丁寧に一礼して口を開いた。
 『日本にお越しと聞きまして、ぜひご挨拶をと思いやってまいりました。大東組の理事を務めています江坂凌二と申しま
す』
 「エサカ、日本語で構わない。私もウォンも不自由はないし、中国語だとマコが分からない」
 「・・・・・」
(マコ・・・・・海藤の?)
 「マコ、無事で良かった。私の部下が失礼したな。それなりの罰は与えるつもりだ、安心しなさい」
 「ジュ、ジュウさん・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
(・・・・・なるほど)
 ジュウと真琴、そして海藤の様子を見て、江坂の頭の中にあった様々な疑問は、たちどころに消えていった。
握ったこの情報を、いったいどうしたらいいだろうか。
権力にモノを言わせ、海藤から真琴を取り上げてジュウに差し出すか、それともそれをチラつかせるだけで、自分達に優
位な方向へと取引を進めるか。
 「・・・・・」
 江坂は口元に苦笑を浮かべた。
何かを取引材料にしなければ結果が出せないほどに自分は無能ではないつもりだ。
 「私とは、また日を改めで会って頂けますね」
 「ああ。有意義な話し合いが出来そうだ」
 「それでは、私はこれで失礼します。海藤」
 「はい」
 「事後報告は忘れないように」
 「分かりました」
 自分が立ち去った後、残った人物の間でどんな話し合いが行われるのか、それは江坂の与り知らぬ話だ。
ただ、自分の恋人に似た雰囲気を持つ真琴が泣くことがない方がいい・・・・・そう、頭の片隅で考えていた。



 「今回は迷惑を掛けたな、カイドー。身内の無様さを見せてしまった」
 「・・・・・いえ」
 ジュウが自分に素直に礼を述べたことは意外だったが、彼が謝ることを厭うような器の小さな男ではないだろうとは分かっ
ていた。
 「真琴は、私にとって大切な存在ですから。彼を取り戻す時に、たまたま他の雑事が一緒に舞い込んだだけです」
 「・・・・・」
 「中部国際空港にいた他の仲間らしき者も、全て江坂理事が捕らえているはずです。東京にいる者は・・・・・」
 「全て処理をさせてもらった。今夜、私は香港に帰り、全ての反乱分子を押さえるつもりだ」
 「今夜・・・・・」
 「そう。マコ、少し時間は早くなってしまったが、お前の気持ちはもう決まっているだろう?」
このまま真琴も連れて行こうというようなジュウの言葉に、海藤は真琴の肩を強く抱き寄せた。
幾ら知性的で穏やかに見える外見でも、彼はその世界ではブルーイーグルと呼ばれているほどに冷酷無比な男だ。やろ
うと思えば、今ここで自分を殺して真琴を奪うことも平気で出来るだろう。
 「マコ」
 「ジュ・・・・・」
 「真琴、何も言わなくていい」
 「海藤さん」
 真琴がどういうつもりで自分からマンションを出たのか、海藤はよく分かっているつもりだ。周りの大切な者達の命を取引
材料にされてしまったら、真琴の性格では無視は出来ないだろう。
だが、その方法が卑怯だと一蹴は出来なかった。本当に欲しいものがあったとしたら、手に入れる方法を選んではいられ
ないということは海藤も分かるからだ。
 しかし、分かるとはいえ、今回のことは譲れない。自分から手を出すことなどは出来る限りしたくは無いが、大東組との
関係を考えて引き下がることなど出来るはずが無かった。
 「あなたに、もう一度きちんと話しておこうと思いました。真琴は、私の恋人で、唯一無二の存在です。手放すことなど
ありえません」
 「譲ってはくれないのか」
 「真琴は物ではありません」
 「模範的な答えだ。私は、お前みたいな優秀な人物は嫌いではない。だが、私が欲しいものを手放す賢さが無いのな
らば、お前は今この場でいなくなっても構わないくらいの存在だ・・・・・ウォン」
 海藤から目を離さないままジュウがその名を呼ぶと、ウォンは堂々と胸元から銃を取り出し、ジュウが座っているテーブル
の上へと置いた。
 「いっそ、今ここで死んでくれれば、マコの未練が綺麗になくなってしまうかもしれないな。カイドー、頭を一発で打ち抜け
ば、痛みも感じずあの世に行けるぞ?」
 「・・・・・」
 死という重い言葉さえ、まるで日常の言葉のように言うジュウの世界がどれ程苛烈なものかは想像するしかないが、海
藤は当然その申し出を受けるつもりは無い。
 「申し訳ありませんが」
 「撃ち方を知らないのか?よければ、ウォンに・・・・・いや、私が撃ってやろうか?」
 「それも辞退します」
 「これを前にして簡単に言う。これ程の至近距離で外すほど、私はノーコンではないぞ」
 そう言いながら、ジュウはテーブルの上のものを手に取る。
 「同じ言葉をお返ししますよ・・・・・綾辻」
 「は〜い」
海藤の真後ろにいた綾辻がその場に似合わない明るい声でそう言うと、内ポケットから堂々と銃を取り出して海藤に手
渡した。
受け取った海藤はその銃口をそのままジュウに向ける。
 「真琴だけをここに残して死ぬことは出来ませんから」



 今自分の目の前で繰り広げられているのが現実なのかどうか、真琴は瞬きも出来ずに海藤が構える銃を見つめた。
幾らヤクザだとはいえ、今までにも危険な目には遭ってきたとはいえ、海藤が真琴の目の前でこんなにも堂々とその姿を
見せたことは無かった。
 怖いと、思った。
海藤の行動が、では無い。銃を構え、誰かを殺そうとしている海藤の横顔を見てもなお、自分が海藤を怖いと思わない
ことが、だ。
 人を殺すことは悪いことだし、本来は銃を持つことも許されない日本で、目の前で銃を構えているのに・・・・・海藤を好
きだという気持ちがぶれることは無い。
もしかしたら、自分の心の中で何かが麻痺しているのかも知れないが、真琴は海藤が意味も無くこんなことをする男だと
は思わなかった。
 「海藤さん」
 「・・・・・」
 「海藤さん、俺から、話させてください」
 「真琴」
 海藤の視線がジュウから自分に戻ってくる。
それが嬉しくて、真琴は泣きそうになるのを我慢して笑った。
 「海藤さんが悪役になる必要なんて無いんです。俺は、ちゃんとジュウさんと話す為に会おうと思ったんだし・・・・・ね、だ
から、これ」
真琴は銃を握り締めている海藤の手をそっと握った。
 「これ、必要ないですよ」
 「・・・・・」
 「ジュウさん」
 真琴は海藤の手を押さえたまま、ジュウに視線を向けた。
彼の手にはまだ銃が握られているが、それが海藤と自分のどちらに向けられているのかは分からない。
それでも怖いと思う間もなく、真琴は言った。
 「俺は、あなたと一緒には行きません」
 「マコ」
 「誰かに好かれることも、必要とされることも嬉しいことだけど・・・・・俺にとって一番大事で、大切なことは、海藤さんの
側にいるってことなんです」