くーちゃんママシリーズ





第二章  マタニティー編   1







 「何をしている。その株は昨日の午後に売ると言っていただろう。半日経って、いったい幾らの損になったと思う。私の言葉を聞
き流しているからこんなことになるんだ。その損失分、儲けてくるまで顔を見せるな」
 「・・・・・」
 「・・・・・言い訳は結構。私に泣きつく1分1秒でも、有益なことに使え」
 「・・・・・」
 怒鳴っているわけではなく、淡々とした口調で言っているものの、その言葉一つ一つはとても辛辣で、多分電話の向こうで聞い
ている者は直立不動で青褪めていることだろう。
(可哀想だけど・・・・・仕方ないわよね。これも愛の鞭だって思って奮起するか、それとも諦めてしまって逃げ出すか。克己が目を
掛けているくらいだから前者だと思うけど)
 「・・・・・分かった、明日だな、待っている」
 相手が何か言ったのか、眼鏡の奥の切れ長の目が少し細まり、口調が柔らかくなった。
さっきまで同情していた相手に、何だか面白くないものを感じて、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)は電話を切った相手に直ぐに話
しかけた。
 「ねえ、何言ってきたの?」
 「何って・・・・・あなた、ずっとそこで聞いていたんですか?」
 「だあって、今日の私のお役目は、克己の見張り役だもん。最近、安定期になったからって働き過ぎだって社長も心配してるの
よ?私だって、お腹の子のパパとして心配だわ」
 「・・・・・なんですか、それは」
 綾辻の言葉に、色白の頬に赤みがさす。
その表情は自分以外の人間は見ることが出来ないはずで・・・・・なんだか、面白くない気分が一瞬で治ってしまった。



 綾辻は、関東最大の暴力団『大東(だいとう)組』の傘下、『開成(かいせい)会』の3代目組長、海藤貴士(かいどう たかし)
に仕える幹部だ。
若い頃から前開成会会長だった海藤の伯父、菱沼(ひしぬま)に可愛がられ、この世界に入った。
暴力が好きだったわけでも無く、反社会的な思想があったからでもなく、もちろん、馬鹿でもなかったつもりだが、この世界は思った
以上に自分の性格や生き方に合っていた。多分、付いた人間が良かったのだろう。

 かなり交友関係が広く、遊び上手なはずだった綾辻。そんな綾辻が生涯この人間だと心に決めた相手が、同じ開成会の幹部
である倉橋克己(くらはし かつみ)だった。
 元検事という変わった肩書きの、1歳年下の・・・・・男。しかし、綾辻がこれまで出会った者達の中でも飛びぬけて美人で、と
ても純粋な心の持ち主だった。
 海藤を尊敬し、彼の為に冷酷に仕事をしているのに、その性格のせいか曲がった事は嫌いで。
とてもヤクザなどという裏家業に向く男とは思えず、気になって見ていることが多くなって、そのうちに、自分の方が嵌まってしまった。

 まさに、堕ちたといってもいいほどに急速に倉橋に傾いた綾辻だったが、手に入れるために時間を掛けることは厭わなかった。
自分が無理矢理手に入れるわけではなく、倉橋にも欲しいと思われたくて。らしくも無く何年も時間をかけ、ようやくその身も心も
手に入れた。
 いや、心まで手に入れたのかと思うと、少しだけ違う気もする。
今、倉橋の腹の中には確かに自分の子供がいるのに、倉橋の全てを手に入れたという感覚は無い。線を引かれているというわけ
ではなく、知れば知るほど奥深い・・・・・何時までも自分は倉橋にドキドキし続けるんだなと思うと、綾辻はワクワクと胸が躍る気
がした。



 倉橋は、目の前のソファにどっかり座り込んでいる綾辻を見た。
 「あなたの仕事は終わったんですか?もしかして怠けているというんじゃないでしょうね?」
 「だから〜」
 「私の見張りなんて、そんな仕事とも言えないような・・・・・っ」
眉を顰めたまま淡々と小言を言っていた倉橋は、不意にくらっと眩暈がした。
 「克己!」
 ほんの少しだけ身体が揺れただけなのに、綾辻は素早く立ち上がって身体を抱きしめてきた。
ほとんど身長は変わらないというのに、どうしてすっぽりと包まれているような気がするのか・・・・・倉橋は綾辻の肩に少しだけもたれ
るように目を閉じた。
 「少し、休みましょう?」
 「・・・・・」
 倉橋が答える前に、綾辻はそのままソファまで移動すると倉橋を座らせた。
今の今までなんとも思っていなかったのに、こうして座ってしまうと、はあと溜め息を付くほどに身体が疲れていたことに気が付いた。
(それほど仕事もしていないのに・・・・・)
 今の自分の仕事量は、数ヶ月前に比べたら半分近くも減っているはずだ。減っている仕事の大部分は、今自分が小言を言っ
ていた目の前の相手に回っているはずだが・・・・・。
 「綾辻さん、あの・・・・・」
 「仕事ならちゃんと処理しているから」
 「・・・・・」
(・・・・・見えなかった・・・・・)
 何時もと変わりない表情をし、こうして自分の元へと息抜きのような顔をしてやってきて、それでいて何時もの1.5倍の仕事をこ
なしているとは、なんだか・・・・・面白くない。
 「気分は?病院に行く?」
 「・・・・・大丈夫です」
 「克己、私はお腹の赤ちゃんに聞いてんのよ?あんたの強がりはいいの」
 「・・・・・」
 「どうする?」
 「・・・・・少し、休めば大丈夫です」
 「・・・・・そう?じゃあ、温かいミルクでも持ってくるわね」
 そう言った綾辻は、一瞬倉橋の頬にそっと触れてから立ち上がり、部屋の外へ出て行く。
その後ろ姿をドアが閉まるまで見送っていた倉橋は、やがて自分の腹を見下ろすとそっと片手を当てた。
 「・・・・・大丈夫だな?お前は」



 倉橋はゆっくりと自分の腹をさすった。
元々、痩せ気味だった身体は、今では少し太ったかと思えるぐらいの大きさになっていた。今までのサイズより2サイズは大きくなっ
たが、それでも、まさか男である自分が妊娠しているとは誰も思わないだろう。
 「・・・・・」
 自分が妊娠するなど、今でも時々倉橋は信じられない思いがしている。
周りは自分を気遣ってくれ、家に帰れば、自分以外の存在もいて・・・・・何時まで経ってもそれに慣れない自分がいる。
ただ・・・・・慣れないなりにも、嬉しいと思う自分もいて、倉橋は日々混乱する日常を送っていた。
 「・・・・・」
 綾辻とセックスしたことを後悔はしない。
その結果として、子供が出来たことには驚いたが・・・・・それでも、今は無事に生まれてくることを願っている。そう、本当に、早く自
分の腕に抱く日を待っているのだ。



 「克己?」
 ホットミルクを作って部屋に戻ってくるまで、多分10分も掛かっていないはずだった。
それなのに、ソファに座っていた倉橋は・・・・・なんと、眠っていた。普段の倉橋ならば、こんな風に無防備な姿を、いや、そもそもこ
んな誰が入ってくるか分からない部屋で寝るはずが無い。
 「・・・・・」
(疲れてるのねえ)
 男の妊娠期間は短いという。
倉橋はそろそろ5ヶ月、普通でいえば8ヶ月に近い頃で、綾辻も、そして海藤も、そろそろ会社を休んだ方がいいのではと言ったの
だが、倉橋は動けるまでは出たいと頭を下げて海藤に懇願した。
 自身も、真琴という最愛の伴侶との間に子供が出来た海藤だ。妊娠期間の苦労などは身近で見てきたはずだが、学生の真
琴と仕事をしている倉橋とでは立場が違うということも理解しているらしく、後は倉橋自身の判断に任せると言っていた。
 もちろん、綾辻も倉橋の希望通りにしてやりたいのは山々だが、倉橋の身体が心配で仕方が無い綾辻は、どう言えば倉橋が
仕事を休んでくれるのか日々悩んでいた。
 「・・・・・」
 そっと、倉橋の腹に手を置く。
きっちりとした性格の倉橋は、ネクタイはもちろんベルトもきっちりと締めていて、腹の子は苦しくないだろうかと思ってしまう。
 「もう少し、私を頼ってくれていいのに・・・・・」



 頬に何かが触れている。
その優しい仕草に、倉橋はゆっくりと目を開いた。
 「・・・・・」
 「おはよ」
 「・・・・・え?」
 自分の顔を笑いながら覗き込んでいるのは、華やかな容貌の、いい男。
 「・・・・・っ!」
思わずその顔に見惚れてしまっていた倉橋は、直ぐにはっと起き上がった。
確か、綾辻が自分の部屋に来たのは昼過ぎだったはずだ。しかし、今窓の外は赤く染まっていて・・・・・もう、夕方だというのは直
ぐに分かる。
(何時間眠っていたんだっ、私は・・・・・っ)
 普段から部下に、そして目の前にいるこの綾辻にも仕事をサボるなと口をすっぱくして言っているのに、自分がこんな風に寝てど
うするというのか。
 「・・・・・すみません」
 「ん?」
 「起こしてくれたら良かったのに・・・・・」
 「だあって、可愛い寝顔だったから」
 「・・・・・」
(この人は・・・・・どうしてそんな風に笑って言えるんだ?)
 確か、眠ってしまう前は、自分は綾辻を責めていたはずだった。自分の身体を心配してくれていることは分かっていたのに、気遣
われているという事実が嫌で、嫌なことも言ってしまった。
 それなのに、綾辻は笑っている。
優しい言葉を掛けてくれる。
自分の気持ちの小ささが恥ずかしくて、倉橋はそのまま俯いてしまった。そんな倉橋の髪を、綾辻はさらっと指ですく。
 「ふふふ、寝ちゃうっていうのは、身体が睡眠を欲しがっているからなの。克己がそうじゃなくっても、お腹の赤ちゃんが眠たかったの
よ。ね、それなら仕方ないじゃない?」
 「・・・・・しかた、ない?」
 「克己は赤ちゃんのママで、パパでしょ。私には厳しくても、赤ちゃんには甘くていいのよ」
 「・・・・・」
 どうして、この男はこんな狭量な自分を甘やかし、許してくれるのだろうか。嬉しいのに、恥ずかしく、言い返そうと思うのに、言葉
が出てこない。
 「さ、家に帰りましょ」
 「・・・・・はい」
 帰る場所は同じだ。
これ以上抵抗する事も出来なくて、倉橋は身体を起こしてくれる綾辻の手に身を任せた。





                                   





第二章開始。
今回は妊娠期間の話を少し書きたいと思いまして。
仕事に悩む倉橋さんも出てきますよ。