くーちゃんママシリーズ





第一章  懐妊編   9







 涼子が倉橋のことを気に入っていることは知っていたし、多分、怒るとしたら自分に対してだけだろうとも思っていた。
その想像通りのことが起こってしまい、やっぱりかと思うと同時に、自分が手に入れたものの価値の大きさを改めて実感していたの
だが・・・・・当の倉橋が涼子の愛情の方向をよく分かっていなかったことが誤算だった。
 「大丈夫?」
 「え・・・・・え」
 身体の調子が悪いというよりも、多分ホッと安堵して身体の力が抜けてしまったのだろう。
少しの間綾辻の肩に寄り掛かっていた倉橋は、やがて身体を起こすと改めて涼子に頭を下げていた。
 「・・・・・ありがとうございます」
 「・・・・・お前の男を苛めたのに、お礼を言ってくれるの?」
 「こんなことを言ったら失礼だとは思いますが・・・・・こんな風に愛情を向けられたことが初めてなので・・・・・とても、嬉しいです」
 「倉橋・・・・・」
 涼子の言葉の中に、僅かながら戸惑いの色がある。しかし、倉橋とその家族のことを少しは知っているつもりの綾辻には、涼子
から向けられる愛情に倉橋が戸惑いと嬉しさを感じるのは良く分かった。
 「ね、克己。みんな、あなたの味方だってことがよく分かったでしょう?」



 まるでからかうように言う綾辻の言葉。
(でも・・・・・全てあなたのおかげだと・・・・・思う)
自分1人だけだったら、自分はこんな風に人と係わることはなかったと思う。誰にも興味を持たず、誰の目も気にせず、1人で生き
ていくことが出来たし、望んだと思う。
 しかし・・・・・海藤と出会い、綾辻が無理矢理に人と係わらせるように仕向けて・・・・・自分は変わった。
 「皆・・・・・あなたが好きなんですよ」
 「え?」
唐突に言った倉橋の言葉に、綾辻は不思議そうに首を傾げる。何もかもを把握しているはずの男が、こんなことが分からないなん
てと少しだけ笑った。
 「あなたが私を見付けてくれて・・・・・良かった」
それが、倉橋の人生の中で一番大きな収穫だと思えた。



 泣くかと思ったが、倉橋は涙を流すことは無かった。そこは男だと、当たり前だが嬉しく、そして、少しだけ寂しくも思ったものの、こ
れでようやく綾辻は一息つくことが出来た。
 自分達にとって大切で重要な話は、しなければならない相手には皆・・・・・。
(・・・・・いや、まだいたか)
自分の身内はともかく、倉橋の身内にはいずれ言わなくてはならないだろう。もちろん、それは今ではない。今の倉橋が自分の血
の繋がった家族に罵声を受けたらどんなにショックか分からないし、そのせいで腹の子に何かあったら、それこそ倉橋は再起不能に
なってしまう。
 だからこそではないが、既成事実が出来てからでいいと思った。
母は強しではないが、実際に子供が生まれ、その腕に抱いたとしたら、きっと倉橋は強くなるだろう。どんな蔑みの視線にも耐え、
非難の言葉も受け止めることが出来るはずだ。
(それに、私もいるしね)
親子3人で、堂々と幸せを見せ付けてやろうと思う。
 どちらにせよ、倉橋には自分が付いていると、思わず笑みを漏らした綾辻だったが・・・・・。
 「今からでも考え直しなさい」
 「・・・・・」
(あ〜あ)
直ぐ隣では、涼子がまだそんな事を言っている。多分冗談なんだろうと(そうでなくては困るが)思うものの、極道の姐として立派に
つとめあげてきた涼子を尊敬している倉橋の気持ちが何時揺れるか分からない。
(少しでも隙を見せたら、涼子さんのお気に入りの奴と結婚させられかねないわ)
それは、女とは限らないのだ。
 「涼子さん」
 「何?」
 倉橋に対しては柔らかい表情だった涼子は、綾辻の言葉に振り向いた時には眉を顰めている。
(・・・・・もしかして、本気で嫌われてたりして)
 「あんまり、私を仲間外れにしないでくださいよ〜」
 「あら、お前は私が相手にしなくったっていいでしょ?」
 「そんなことないですってば〜」
 「嘘ばっかり。軽井沢に来た時だって、何時も辰雄さんとしか遊ばないくせに」
・・・・・それは本当のことなので、綾辻もどう涼子の機嫌をとろうか頭を痛めてしまった。



(大丈夫だろうか・・・・・)
 側で聞いている綾辻と涼子の会話の内容は寒々しく、倉橋はどう言えば涼子の機嫌が良くなるのかと考え込んでしまったが、
そんな倉橋の肩を叩いたのは菱沼だった。
 「御前・・・・・」
 「気にすることは無いよ、あれはあの2人なりのコミュニケーションだから」
 「え?」
 立ちなさいと優しく促され、倉橋はそのまま菱沼が座っていた場所へと腰を下ろすことになる。菱沼はその倉橋の後ろに立って、
横にいる海藤に向かって言った。
 「そうだな、貴士」
 「ええ。あれは似た者なんとか・・・・・って言うんですよ」
 菱沼の言葉に答える海藤の表情も柔らかで、倉橋はそれが本当のことなのだと分かった。側で聞いていれば・・・・・いや、倉橋
が聞く限りではどう考えても口喧嘩のようにしか見えないが、これが喧嘩ではないのか・・・・・。
(・・・・・良かった)
 菱沼と海藤の2人が言うのだから間違いは無いだろうとほっと息をつくと、後ろに立っていた菱沼がしみじみと言った。
 「それにしても、ユウとくーちゃんがねえ」
 「・・・・・すみません」
 「謝ることは無い。こういう世界に身を置いているからといって、恋愛まで縛るつもりは無い。貴士もだろう?」
 「ええ」
 「御前・・・・・社長・・・・・」
 「ユウがくーちゃんにベタ惚れだってことは知ってたけど、まさかほだされてくれるとは・・・・・」
いったい、それはどういう意味なのだろうか。
前々から綾辻の気持ちを知っていたという菱沼のその言葉は否定にも肯定にも取れるが、倉橋は悪い方へと傾きかける思考を
必死で押さえた。
 「確かにねえ、あれは昔は色々ヤンチャもしたけど、お前にとっては誠実な男だと思うよ。子供も出来たんだ、どうか、あいつを見
捨てないでやってくれ」
 「そ、そんなっ、私の方こそ・・・・・っ」
 「あれは絶対にお前の手を離さない。それは確実だから、お前の方を念押ししておこうと思ってね」
 「・・・・・」
(私が綾辻さんを見捨てる?そんなこと・・・・・考えもしなかった)
 綾辻が自分に愛想をつかす可能性は十分あるが、自分からあの男の手を離すつもりは全く無かった。
自分の全て(面倒で融通のきかない性格も含め)を受け止めてくれ、愛情を注いでくれて、子供という奇跡まで強引に呼び寄せ
てくれたのだ。
 「・・・・・」
 倉橋は自分の腹にそっと手を置いた。
(お前を、望まれて生まれてくる子に出来そうだ・・・・・)
もしも、本当に全ての人間が反対したとしても、綾辻だけは笑って祝福してくれたに違いない。もはや、有りえない想像になってし
まったそれも、倉橋にとっては今の幸せを噛み締めるものになっていた。



 「なんだか、苛め足り無いわ。綾辻、今度は向こうでしっかりと説教するから、落ち着いたら軽井沢に来なさい。・・・・・倉橋も新
鮮な空気を吸いに来るといいわ」

 最後まで自分と倉橋への態度にはっきりとした線引きをした涼子は、せっかく東京まで出てきたので真琴と貴央に会いに行くと
言って事務所を出た。
菱沼も、もちろん苦笑しながらついて行ったが、その実孫のような貴央に会うことが楽しみなようだった。
 「はあ〜・・・・・」
(ようやく嵐が去った)
 時間にすれば1時間もいなかった2人だが、綾辻にとっては数日分の仕事を一度にやり遂げた充足感がある。
 「綾辻」
 「はい?」
そんな綾辻に、海藤が声を掛けた。
 「今日は疲れただろうから、倉橋を送って帰るといい」
 「・・・・・はい、すみません」
自分はともかく、倉橋は早く帰してもらうようにと頼むつもりだった綾辻は、自分がそういう前に察しをつけてくれた海藤に感謝した。
やはり、自分が仕える気になった男だ。
 「克己〜、帰りましょうよ〜」
 懸念の材料は今のところ消した。今日はさすがに倉橋もゆっくり休めるだろうと思った綾辻だったが・・・・・。
 「何を言っているんですか」
しかし、次の瞬間聞こえてきたのは、ついさっき《この男が欲しい》と可愛い告白をしてくれたのと同一人物とはとても思えない、厳
しく冷淡な声だった。



 「え〜、だってぇ」
 「身体も健康だというのに、早退する意味は全く無いでしょう。あなたには、私が今している仕事を覚えてもらわなくてはならない
し、時間はいくらあっても足りません」
 「・・・・・克己の仕事って、数字がいっぱいだし、法律関係とか・・・・・なんだか・・・・・」
面倒・・・・・と、本当に小さな声で言った綾辻の言葉を聞き逃すことは無い。
 「どんなに面倒でも、あなたに頑張っていただかないと」
 「克己〜」
 「私の共犯はあなたでしょう?」
 「・・・・・え?」
 「私と同じ罰を受けるのは、あなた以外にいるはず無いじゃないですか」
 当然でしょうと、倉橋は綾辻をじっと見据えた。倉橋の仕事を自分が受け継ぐと組員達の前で宣言したのは綾辻自身だ、そ
の言葉は守ってもらおうと思う。
 「・・・・・」
 なぜか・・・・・きつい文句を言われたはずの綾辻の頬に、ふと浮かんだのは苦笑のような笑みだった。不思議なその笑みを浮か
べた綾辻は、そのまま海藤を振り返って言う。
 「ね、可愛くありません?」
 「あんまり惚気ると叱られるぞ」
 「だってぇ」
 ふふふと笑いながら自分を見ている綾辻は・・・・・不気味だ。
(全く、サボる口実を考えているんだったら、絶対に捕まえておかなければ)
今の綾辻が自分から絶対に逃げ出さないと分からない倉橋は、そんな見当違いの決意をしていた。




                                                            第一章 懐妊編 完




                                   





懐妊編はこれで完結。
次回からは出産編です。ただ、マコママの時とは違い、妊娠中の話も少し長くなると思います。それか、出産編の前にマタニティー編みたいのを書くかも。