くーちゃんママシリーズ





第二章  マタニティー編   4







 じっとパソコンに視線を向けていた倉橋は、不意に眩暈を感じて片手で目を覆った。情けないが最近疲れやすくなってしまい、
パソコンに連続して向かい続けることもきつくなってきた。
こうして、自分の部屋で仕事をしているので、まだ周りには気付かれていない・・・・・多分、大丈夫だと思うが、それでもこんなに
頻繁に手を休めてしまえば仕事の効率は全く上がらないままだ。
(予定日まではまだ日があるというのに・・・・・)
 男の妊娠期間は女のそれよりも短いらしいが、それでも出産予定日まではまだ一ヶ月以上もある。それなのに、こんな様子を
知られてしまえば、早々に休めと言われかねない。
綾辻が相手ならばまだ言葉で言い返すことが出来るが、海藤が相手となれば・・・・・それも無理な気がする。
(どうするか・・・・・)
 思わず溜め息をついた倉橋だが、その時机の上の電話が鳴った。内線だ。
 「はい」
重い気分を隠して普通に対応すれば、電話の向こうは来客を告げる。
 「・・・・・お通ししろ」
その名前を聞いた途端、倉橋の頬には笑みが浮かんだ。



 「あ、ほら、トントンってたたくんだよ?」
 「くーちゃ?」
 「そう、このドアの向こうにはくーちゃんがいるから、入っていいですかって聞かなきゃ」
 「・・・・・」
 廊下から聞こえてくる声に思わず倉橋は笑った。
本当は自分からドアを開けようと立ち上がっていたのだが、この声を聞けば向こうからアクションがあるまでは大人しくしていた方が
良いような気がする。
 「はい、トントン」
 柔らかな声の後、小さなノックの音が聞こえた。小さな小さな手で叩かれたであろうその様子を想像しながら、倉橋ははいとドア
を開け、そのままその場に片膝を着く。
 「くーちゃ!」
 「こんにちは、貴央君」
 「くーちゃ!」
 満面の笑顔の可愛らしい天使は、そのまま倉橋の腕の中に飛び込んでくる。慌てたのは、母親(?)である真琴だ。
倉橋の身体のことを、多分一番理解しているだろう真琴は、慌てて息子である貴央の身体を持ち上げた。
 「駄目でしょっ?くーちゃんはお腹が風船って言ったでしょ?」
 「ふー?」
 「パンって割れたら、たかちゃんも怖いでしょ?」
 「・・・・・こあい」
 小さな頭の中で何を想像したのだろう・・・・・2歳の頃の自分がどんな風だったかは覚えていないが、多分貴央ほど純粋ではな
かっただろうし、可愛くもなかったはずだ。
 「いいんですよ、真琴さん」
 「倉橋さん」
 「せっかく、可愛いお客様が来てくださったんですから、何か美味しいものを用意させましょうね」



(・・・・・落ち着いているみたいだけど・・・・・)
 内線で飲み物とケーキを頼んでいる倉橋の横顔を見ながら、真琴は心配していたほどには倉橋がナーバスになっていないことに
ホッとした。
少し、顔色は悪いように見えなくもないが、元々色白の彼なので、極端に違うとも言えず・・・・・。
(大丈夫・・・・・?)

 「ねえ、マコちゃん、近いうちに克己に会いに行ってくれない?良かったらたかちゃんも」

 2日ほど前、マンションにやってきた綾辻はそう言った。
どうやら綾辻はそろそろ倉橋に産休(そういう言い方が正しいのかは分からないが)をとって欲しいらしいのだが、真面目な倉橋は
なかなか頷いてくれないらしい。
 真琴自身も、倉橋を説得出来るとはとても思わなかったが、しばらく顔を見ていなかったので様子だけでも見ておきたかった。
やはり、顔を見れば安心する。
 「お待たせしました」
 時間を置くことなく、組員がケーキと飲み物を持ってきた。
真琴には紅茶だが、貴央と倉橋にはホットミルクだ。
(みんな、気を遣ってるんだ)
厳つい表情の組員が、小さな幼児に、
 「ケーキですよ、坊っちゃん。こぼさないようにね」
そう言いながらフォークを手渡しているのが微笑ましい。
 「・・・・・私は、貴央君と一緒か」
 「社長と、綾辻幹部のご命令ですから」
 「・・・・・」
海藤の名前を出せば、さすがの倉橋も文句は言えないらしい。眉を顰めたまま、甘いミルクを口にする倉橋を見て、真琴は思わ
ず笑ってしまった。



 一ヶ月くらい、会わなかっただろうか。
仕事の引継ぎやらなんやらで忙しく、なかなか真琴と貴央に会いにいけなかったが、こうしてみると僅かな間にも子供は成長する
ということが良く分かる。
 前はフォークもただ刺して口に運ぶという感じだったが、今は小さく分けて、用心深く口に運んでいる。
 「うん、上手だね」
そうして、口に運ぶたび、褒めてくれと振り返る貴央に、真琴は一回一回上手だよと褒めていた。その根気のよさに感心して、倉
橋は思わず凄いですねと呟く。
 「え?」
 「きちんと、貴央君と向き合っているんですね」
 「きちんとっていうか、俺、全部初めてでしょう?だから、分からないことがいっぱいで・・・・・たかちゃんと一緒に勉強しようって思っ
ているだけで」
 汚れた貴央の口元を鞄の中からお絞りを取り出して拭いた真琴は、感心して見つめる倉橋の視線に照れたような表情を見せ
た。
真琴が言うことは分かる。初めての子供で、しかも、女ではなく男が母親の立場になるのだ。普通以上に難しく、そして、大変な
毎日が続いていると思うが、それを笑ってこなしている真琴が凄いと思う。
 「それに、海藤さんもよく手伝ってくれているし」
 「社長も?」
 「早く帰ってくれる時は、お風呂にも入れてくれるんですよ?」
 「・・・・・想像出来ません」
 あの涼やかな容貌の海藤が、どんな顔をして貴央を風呂に入れるのだろう・・・・・。思わず考えてしまう倉橋に、真琴は内緒で
すよと言う。
 「海藤さんのイメージが壊れちゃったら大変だし」
 「・・・・・壊れはしませんよ」
 「え?」
 「・・・・・」
(むしろ、豊かな人間性が感じられていいんじゃないだろうか)



 「倉橋さん、そろそろお腹も目立ってきましたね」
 「そう・・・・・ですね。そろそろスーツも苦しくなってきましたが、会社に出ている限りはこれを着ないといけませんし」
 大学を卒業して直ぐ、スーツを着るような職業になった倉橋は、色々と考えなければならない私服とは違ってこの方がとても楽
に感じていた。
ワイシャツから、靴下まで、昔は行きつけの紳士服の店で店員に勝手に選んでもらっていたくらいだ。
今では綾辻が色々と煩く言ってきて、彼に任せているが・・・・・自分よりも遥かに趣味の良い彼に任せておけば間違いはない。
 そんな風に、着るものにはさほど拘りがない倉橋も、少しずつ出てきた腹のせいで、スーツがきつくなってきた。
サイズが大きいものを買えばいいのだろうが、そうすれば出産後にそれは無駄なものになってしまう。開成会にはそれを譲れる程に
恰幅の良い組員はいないのだ。
 「どうしようかと、少し考えています」
 「お休み、しないんですか?」
 「休み?・・・・・考えていませんが」
 「でも、一ヶ月を切ったら、さすがに休みますよね?」
 「・・・・・真琴さんは、産気づいたのは出産する直前でしょう?」
 「え、あ、はい、まあ、そうですね」
 「それでしたら、私も出産間際まで働くことが出来ますね。服はもう少し我慢をして・・・・・それから考えることにしましょう」
 身体に負担があるのなら、やはり考えなければならないと思っていたが、どうやら出産ギリギリまでは働けそうだ。倉橋はそれが確
認出来ただけでも満足だった。



 二時間ほど倉橋の部屋で過ごした真琴は、下まで見送るという倉橋の言葉を断って部屋を出た。
 「・・・・・」
はあと思わず溜め息をついてしまうが、そのまま帰ることが出来ず、真琴は1階まで下りて事務所のドアを叩く。
 「待ってたわ、マコちゃん!」
 「お待たせしてすみません」
 「ううん、いいのよ。その分克己もゆっくり休めただろうし」
 そう言いながら、綾辻は真琴が手を繋いでいた貴央の身体を抱き上げると、事務所の奥の応接間へと案内してくれた。
倉橋と会った後、必ず下の事務所に寄るようにと先ほども念押しされていたのだが、綾辻が思うような成果を持って来れなかっ
た事が申し訳なくて、真琴はまた小さな溜め息をついてしまった。



 「そっか〜、マコちゃんでも駄目だったのねえ」
 真琴の報告を聞いた綾辻は、落胆するというよりは苦笑が洩れてしまった。もしかしたらという期待は、どうやらやはり無理だっ
たようだ。
申し訳無さそうに頭を下げる真琴に余計な心配をさせてしまったかもと、綾辻は抱いた貴央がウトウトし始める様子に目を細め
ながら続ける。
 「気にしないでね、マコちゃん。これからは出来るだけ私も事務所に詰めるつもりだし、他の組員にも注意するように言っておく
し。本人だって、ちゃんと分かってると思うわ」
 倉橋がどれだけこの仕事に誇りを持っているのかは、綾辻ももちろん分かっていたが、それでもその身体が心配で、出来ればそ
ろそろ休んで欲しかった。
経験者である真琴の言葉ならば、倉橋も聞くのではないかと思ったが、どうやら倉橋の頑固さは今だ解消はされていないようだ。
(社長が言えば違うんだろうけど・・・・・そこまではしたくないし)
 「大丈夫でしょうか」
 「うん、大丈夫よ。・・・・・あら、たかちゃん、お眠ね」
 「あ、すみませんっ」
 真琴が慌てて手を差し出してきたが、綾辻はいいからいいからと言って、柔らかくて温かな身体の感触を確かめる。
他人の子供でも(海藤と真琴の子供だということで特別だが)こんなにも可愛いのだ、自分の子ならばどんなにか愛しく思えるだ
ろう。
 「ん・・・・・」
 そんな綾辻の気持ちを感じたかのように、貴央が腕の中で小さな声を立てる。その様子に、綾辻はクスッと笑いながら髪を撫で
てやった。
 「大丈夫、たかちゃんのことも、ちゃんと大好きだから」





                                   





今回はマコちゃんとたかちゃんの登場。
次回でこの章は終わりです。