くーちゃんママシリーズ





第二章  マタニティー編   5







 湯船の中でじっと自分の身体を見下ろした倉橋は、目に見えて膨らんできた腹に思わず手を置いてしまった。
手足も、そして胸板も、ある程度の身長があるというのに情けないほど細い。それなのに、腹だけ膨らんでいるのが少し滑稽な感
じがした。
 「・・・・・本当にこの中にいるのか・・・・・?」
 定期的に通っている病院で、超音波の映像は見せてもらったが、本当に自分のこの腹の中に子がいるとはなかなか考えられな
かった。
一緒に行った綾辻は(付いてくるなと言ったのだが)とても喜んでいたが、倉橋はまだ戸惑いの方が大きくて、画面に映る明らかに
生きているそれに、何という反応を示していいのか分からなかった。
 「・・・・・」
 見るたびに、大きくなっている腹。そろそろ、出産ということも考えなければならないだろう。その痛みと衝撃に自分が耐えられるの
かと、倉橋は近頃よく考えている近い未来のことを思い、自分でも気付かないまま大き溜め息を付いた。



 「ゆっくり、温まった?」
 「あ、はい。お先にすみません」
 風呂から出ると、リビングにいた綾辻は直ぐに立ち上がった。そして、倉橋が何か言う前にソファに座らせ、自分は後ろに回って濡
れた髪をタオルで拭ってくれる。
申し訳ないと思う反面、その手が心地良くて・・・・・倉橋は自然に目を閉じてしまった。
 「疲れた?」
 軽い口調で、綾辻は聞いてくる。ここで強がりを言っても多分分かってしまうんだろうなと、倉橋は少しだけですと答えた。
疲れたという表現は少し違うと思う。仕事は綾辻がかなり引き受けてくれているし、事務所でも皆気遣ってくれて、かえって出勤
している方が申し訳なく思ってるほどだ。
 「じゃあ、どうしたの?」
 「え?」
 「怖い顔してる」
 「・・・・・怖い顔?」
 倉橋は自分の頬に手を触れる。どんな顔をしているのかを見るのは怖いが、きっと強張った、おかしな表情をしているだろうと想
像が出来た。
(この人がそんな風に言うほどに・・・・・)
 「赤ちゃんの誕生を心待ちにしているママには、ちょっと見えないもの」
 「・・・・・そういう言い方は止めて下さい。私は女ではないので、母親になれるはずが無いんですから」
 「まだそんなことを言っているの?」
 「・・・・・」
(まだ・・・・・では、無いです)



 物事を深く、深刻に、そして、悪い方へと考えてしまうのは、もう倉橋の性格だと思って諦めるしかなかったが、それでももう目の
前に迫っている出産に関しては、強く、しなやかになって欲しいと思う。
他のどんなことでも倉橋の代わりに自分がしようと思うが、出産だけはどんなに願っても無理なのだ。
 「ねえ、克己」
 タオルで濡れた髪を拭きながら、綾辻は出来るだけ深刻にならないように言った。
 「もっと、気軽に考えたら?」
 「・・・・・」
 「自分は、普通の男にはなかなか出来ないことを体験するんだぞーって、いいだろーって思えない?」
 「・・・・・思えません」
敵は、なかなか手強い。
綾辻は苦笑を零すと、そのままソファを回り、倉橋の前へやってきて跪いた。以前よりもかなり大きくなった腹を抱きしめて耳を当
てると、時々中から蹴っているのではないかという感覚がする。
確かに息づいているこの命を、無事にこの外の世界に送り出して欲しい。それが出来るのは、倉橋しかいないのだ。
 「・・・・・この子には悪いけど、私の一番は克己なの。だから、私はあなたに一番いいようにして欲しい」
 「あ、綾辻さんっ、聞こえているんですよっ」
 腹の子にも声は聞こえているんだと焦る倉橋に、もう親になってるじゃないと内心で笑ってしまう。口では何と言っても、倉橋はも
う母親、いや、子の親なのだ。
 「うん、分かってる。聞こえるように言ってるんだから」
 「綾辻さん・・・・・」
 「もちろん、この子が生まれてくることは嬉しいけど、そのせいで克己が悩んでしまうのは嫌。ねえ、克己、今ならまだ・・・・・間に
合うかもよ?」
 こんなことは言いたくはないが、もしも、本当にこの出産が倉橋にとってマイナスならば、綾辻は新たな決断をしなければならない
かと思った。



(・・・・・間に合う?)
 綾辻の言葉の意味を、多分自分は正確に感じ取れていると思う。時間を引き返す・・・・・この、腹の中の存在を無しにする。
そう考えた時、倉橋の口からは出た言葉は・・・・・。
 「・・・・・嫌です」
 「克己」
 「嫌です。この子を失うなんて・・・・・」
 「・・・・・」
 「あなたとの、子なのに・・・・・」
呟くような言葉の後に、倉橋は温かいものに包まれた。綾辻が強く自分を抱きしめてきたからだ。どうしてと思う間もなく、綾辻は
大丈夫じゃないと耳元で楽しげに言ってくる。
 「どんなことがあっても、もうそう決めているんだから」
 「・・・・・でも、私は・・・・・自信が、なくて・・・・・」
 「そんなの、ぽろっと生んじゃった後に自然に持つわよ」
 「ぽろって、簡単に言わないで下さい」
 「どんなに辛い経験でも、後から考えればそう思うことが多いでしょ?今回のことだってそれと同じよ」
 「・・・・・」
 人事だと思って・・・・・そう感じるものの、倉橋の心の中の重たい何かが軽くなったことも事実だ。
 「・・・・・勝手なことばかり言わないで下さい」
倉橋はそう言ってタオルで自分の顔を隠す。ホッと安堵した表情を見られるのが恥ずかしくて、とにかく綾辻の目から自分の顔を
隠したかった。

 綾辻は何も言わず、一度自分の首筋にキスをしてから、
 「お風呂に入ってくるわね。綺麗にしておかないと嫌われちゃうから」
そう、わけの分からないことを言ってリビングから出て行った。
その姿が見えなくなってから、倉橋はようやく一息つく。1人でいるのは心細くて、それなのに綾辻といると落ち着かなくて、今側に
いてくれないのは・・・・・寂しい。
 「・・・・・結局、またあの人に助けてもらったのか」
 ネガティブな自分の気持ちを強引にでも上向かせてくれる綾辻に感謝すると同時に、どうしても勝てないのかとも思ってしまう。
多分、そう言えば、

 「私は何時も克己に負けっぱなしなのに」

と、笑いながら言う気がする。
自分達の関係に勝ち負けなど関係ないと思うものの、そう思わずにはいられない自分の卑屈さを倉橋はどうしても消すことは出
来ない。
それでも、それを自分で冷静に受け止めることが出来るようになっただけましだ。
(こういう私を、あの人は選んでしまったんだから・・・・・)



 「ん〜、いいお湯」
 倉橋の気持ちを無視するわけではないが、綾辻は大丈夫だろうと今回のことを楽観して考えていた。
子を望む、それも、自分の子だからと言ってくれた倉橋の気持ちが嬉しくて、なんとか出産まで上手くいくだろうと思えてくる。
 「・・・・・これって、マタニティーブルーってやつかも」
 綾辻の周りでは今までにいなかったが、妊娠中に不安定になる妊婦の話は聞いたことがある。倉橋は男だが、その性別に関係
なく、不安に思うのは一緒なのだろう。
 「ん〜」
(本当なら、このまま抱いて嫌なこと忘れさせるのが一番なんだけど)
 臨月に入ろうかという倉橋に無理は出来ないだろう。
それでも、人の温もりというものは大切だと思うので・・・・・綾辻はよしっと湯船から上がった。

 「ん?」
(いい匂い・・・・・)
 風呂から上がった綾辻がリビングに行くと、ちょうど倉橋がキッチンに立っていた。
普段料理をしない倉橋が何をしているのだろうと視線を向けると、彼はどうやらコーヒーをたてているようで、いい匂いがリビングまで
漂ってきた。
 「克己」
 「・・・・・お酒は駄目ですよ。いくらあなたが強くても、飲み過ぎは身体に悪いんですから」
 「ふふ、は〜い」
 料理の腕は壊滅的に悪いといってもいい倉橋だが、コーヒーはとても美味しい物を入れる。多分にそれは海藤のためというもの
もあるだろうが、ここでその恩恵をもらえるのならば良しとしなければならないだろう。
 「・・・・・どうぞ」
 「ありがと」
 「・・・・・」
 倉橋は綾辻から少し離れてソファに腰を掛けた。いくらあまり出てはいないとはいえ、腹の大きさのせいか自然に深く腰を掛ける
形になる。
綾辻は笑いながら、パジャマの上から倉橋の腹を撫でた。
 「さっきはごめんなさいね、嫌なこと言っちゃった」
 「綾辻さん・・・・・」
 「ちゃんと、生まれてきて欲しいと思っているわよ。ね?だから、許してね」
 分かりませんよとそっけなく応えている倉橋も、その表情は先程までよりも随分柔らかくなっている気がする。
とにかく、話をするというのは大事だなと思った。どんな小さなことでも、話さなければお互いの気持ちは分からない。綾辻は倉橋
の入れてくれたコーヒーを飲みながらそう考えていた。





 「そろそろベッド、別にしないといけないかもね〜」
 「え?」
 「だって、克己のお腹を蹴っちゃったりしたら大変だし」
 「・・・・・」
 上掛けを捲った状態で、倉橋はその言葉に手が止まってしまった。人前でもベタベタとくっ付いてくる綾辻が、まさか自分からそう
言ってくるとは思わなかったのだ。
 確かに、一緒に暮らし始めた当初は、同じベッドに眠ることに慣れなかったが、今はこれが当たり前だと思うようになってきた。
それが1人になってしまうと・・・・・。
 「克己?」
 「・・・・・別に、一緒でもいいんじゃないんですか。ベッドは広いですし」
 「・・・・・なあに?寂しいの?」
 「あなたがそうだろうと思っただけです。別に、あなたがいいなら私は・・・・・」
 「や〜よ、やっぱり克己とくっ付いていたいもの」
 何が嬉しいのか、綾辻は笑いながら自分に抱き付いてきた。人の体温に慣れないはずなのに、綾辻のこの体温だけは心地良
いと思う自分が悔しい。
だから・・・・・ではないが、倉橋は綾辻と向かい合う形になり、その腰に手を回した。何時も自分がされることを仕返した形だ。
 「克己?」
 驚いたような綾辻の言葉に、倉橋は目を閉じたまま思わず笑ってしまう。
出産はもう直ぐだ。それまで、甘えることが出来るのはこの男だけだと、倉橋は綾辻の腰に回した腕にさらに力をこめた。




                                                         第二章 マタニティー編 完




                                   





第二章はここで終わり、次回からは出産編です。
赤ちゃんが生まれるのは・・・・・もう直ぐ?