くーちゃんママシリーズ





第三章  出産編   1







 バタバタと慌しい足音が聞こえる。
倉橋は目を閉じ、溜め息をついた。
(全く・・・・・どうしてこんなことに・・・・・)
 「克己!」
 ドアを開けるなり自分の名を叫ぶ男に、倉橋克己(くらはし かつみ)は出来るだけ冷静な口調で諌めるように言った。
 「静かにしてください、ここは病院で、私の他にも入院患者がいらっしゃるんですよ」
 「お前っ、どうしてそんなに落ち着いてるんだっ?」
 「あなたが慌て過ぎなんです。・・・・・らしくありませんよ」
 「・・・・・お前、なあ」
大きな溜め息を付く綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)に、倉橋は何と答えていいのか分からないまま黙っている。
 しかし、静まり返った中、再びドアの向こうでは慌しい足音がして・・・・・。
 「倉橋さんっ、大丈夫ですかっ?」
先ほど病室内に飛び込んできた綾辻に負けない声でそう言ってきた西原真琴(にしはら まこと)に、今度は倉橋も青白い頬に
苦笑を浮かべて答えた。
 「ご心配掛けましてすみません。でも、本当に大丈夫ですから」
 「で、でも、倒れたって聞きましたっ」
 「皆が大げさに騒いだだけです」
 そう答えていると、閉まった扉が再び開き、自分の主である開成会会長、海藤貴士(かいどう たかし)が、彼と真琴の間の子
供である貴央(たかお)を腕に抱いた姿で現れた。
 「倉橋」
 「・・・・・社長、ご迷惑をお掛けしました」
深く頭を下げた倉橋に、海藤は溜め息交じりに答える。
 「こういう時に謝るな」
 「・・・・・すみません」
 「・・・・・」
謝るなと言われても、倉橋はそう謝罪するしかない。仕事も途中のまま、いきなり入院という事態になってしまった自分を、倉橋
は本当に情けないと思っているからだ。
(入院はもっと先だと、色々スケジュールをたてていたはずなのに・・・・・)
それでも、もうこのまま、出産するまでは退院することは出来ないだろうと思うと、倉橋は海藤の前でも溜め息しか零すことが出来
なかった。






 その日、倉橋は何時ものように自分の部屋で仕事を進めていた。
もう半月もすれば出産のために入院をする予定で、それまでに今自分が持っている仕事は出来るだけ片付け、後は他の者に振
り分けたりという作業をしなくてはならなかった。
 出来れば、出産ギリギリまで働いていたかったが、早く休んで欲しいと綾辻が煩く言い、海藤も無理はするなと柔らかく命令して
くるので、渋々ながらも予定日の一週間前から入院することになったのだ。
 「・・・・・」
(予兆も全くないのに、もう入院するなんて・・・・・時間の無駄としか思えない)
 「女性でも、出産ギリギリまで家事をしている者もいると聞くのに・・・・・」
(男の出産だからといって、かえって用心し過ぎていないか?)
 「・・・・・」
 倉橋は立ち上がり、書類を持って1階の事務所へと向かう。
腹が大きくなってから(背広の上着でごまかせないほどだ)あまり下に行くことはなかったが、口でも説明しなければならないことがあ
り、内線で言うよりも行った方が早いと思った。
 多分、内線を掛ければ自分達が行きますからと言うだろうが、そこまで気を遣ってもらうことが嫌で、半ば意地のような気分で倉
橋はエレベーターに乗り込んだ。

 「倉橋幹部っ?」
 1階の事務所に入ると、数人いた社員兼組員は驚いたように立ち上がった。
多分、海藤や綾辻から何か言われているのだろうと察しがつき、倉橋は細い眉を顰めた。
 「呼んでもらったら俺達が上に行きますからっ」
 「・・・・・必要ない」
 「倉橋幹部」
 「エレベーターに乗って下りるだけのことに、それ程気遣わなくていい。そこに集まれ」
 それ以上は何も言わせないように、倉橋は事務所の一番奥にある、パーテーションで仕切ったミーティングスペースに向かった。
簡単な会議はここで行っているのだ。
 「松本、お前が担当している土地の価格だが・・・・・」
 歩きながら話していた倉橋は、
 「・・・・・っ」
(な・・・・・んだ?)
一瞬、目の前の風景が揺れた気がして、思わず足を止めてしまう。
 「倉橋幹部?」
何でもないと、答えたつもりだった。
しかし、実際にその口から言葉は洩れず、ゆっくりと視界が暗くなる。
 「倉橋幹部!」
 数人の、焦ったような、驚いたような叫び声が耳に聞こえたものの、倉橋は大丈夫だと答える間もなく、そのまま意識が遠くなっ
てしまった。



 気付いた時には、天井も壁も真っ白な部屋・・・・・病院のベッドで眠っていた。
本来なら、救急車を呼ぶところだったらしいが、倉橋の身体のことを考え、今回出産をする予定だった病院へと車を走らせたらし
い。
もちろん、その前に倉橋の様子を伝え、どうやら貧血らしいということを聞いた上での行動だったようだ。
 それをベッドの上で聞いた倉橋は、弱い自分の身体に情けないという思いを感じると同時に、腹の子が無事だということに深い
安堵を覚えた。倒れた打ち所が悪かったら、そのまま最悪の状況になった可能性もあるからだ。

 「随分体力も落ちているし、ドクターストップだ、今日から入院しなさい」
 「先生・・・・・しかし、まだ仕事が・・・・・」
 「子供と仕事、どちらが大切か言うまでもないだろう?」

 医師にそこまで言われて、それでもと倉橋は言い募ることは出来なかった。倉橋にとって仕事は生き甲斐であったが、それと子
供を比べると、大切なものは明白だ。
 「倉橋幹部・・・・・」
 「・・・・・すまない、社長に連絡を取ってくれないか」
 倉橋は病院まで付いてきてくれた組員にそう言った。全てのことが予定外で、中途半端になってしまった仕事に関しても、先ず
は海藤に知らせなければと、それだけが倉橋の頭の中にあった。



 しかし、組員は海藤に伝えると同時に、綾辻や真琴にも今回のことを知らせてしまったらしい。
綾辻には後で連絡をしようと思っていたので構わないが、真琴にまで言わなくてもいいのにと思っていた。幼い貴央を抱えている真
琴に、わざわざ病院まで出向いてもらったことが本当に申し訳ないと思う。
 「でも、良かったです、倉橋さんも、お腹の赤ちゃんも無事で」
 「ご心配掛けました」
 枕元の椅子に貴央を抱いて座った真琴は、そんなことは全然いいんですと頭を振った。
 「くーちゃ」
 「貴央君も、ありがとう」
 「あっ、駄目だよ、くーちゃんはイタイイタイなんだから」
出来るだけ顔を和らげて言ったつもりだが、それは貴央に伝わったのだろうか。貴央は何時ものよう自分の名を呼んでくれ、ベッド
によじ登ろうとして真琴に叱られている。
 それを微笑ましく見つめていると、倉橋と低く響く声が自分を呼んだ。
 「社長・・・・・」
 「こっちの事は心配しなくていいから。今は安静にするのがお前の仕事だ」
 「ですが・・・・・」
 「真琴はもっと長く入院していたぞ?お前は働き過ぎだ」
それでもと、倉橋は口の中で反論した。真琴と自分は違う。真琴はまだ学生で、自分よりも華奢な体格であったが、自分は社
会人で、少し痩せ気味だが標準以上の身体はしていると思う。
(出来るだけ、本当に直前まで働きたかったのに・・・・・)
 自由にならない自分の身体がもどかしい。倉橋はベッドから起き上がることも出来なくなってしまうほど(気力が萎えたということ
もあるが)体力が落ちている自分が情けなかった。



(本当に、無茶をして・・・・・)
 ベッドに横たわっている姿なのに、海藤の言葉にも素直に頷かない倉橋を綾辻は呆れたように見つめていた。
今回は本当に、自分の心臓が止まってしまうかもしれないというほどに驚いたのだ。

 『倉橋幹部が倒れましたっ、今病院に向かっています!』

 突然の組員からの電話を受けた時、綾辻は都内にいなかった。
そもそもそれも、何時もならば倉橋がしていた他会派との会合の打ち合わせだったが、綾辻は早々にその場を辞して病院へと急
いだ。
 その間も病院に付き添っている組員と連絡を取り、母(?)子共に命の危険は無いと聞いて一先ず安心したが、実際に顔を
見るまでは落ち着くことは出来なかった。
 真琴と貴央と話している倉橋は、一見何時もと変わらない様子に見えたが、その顔色は随分と悪い。そういえば今朝、今日
の仕事のために何時もより早めにマンションを出た綾辻は、倉橋の顔をよく見ていなかったことが悔やまれた。
(少し前から調子が悪いことは感じていたのに・・・・・な)
 出産の準備のために休む日は話し合って決めていたものの、どうにかしてそれよりも早く入院させる方法は無いものか・・・・・そ
れを考えていた矢先の今回の出来事に、綾辻は後悔してもしきれなかった。
 「真琴、倉橋も疲れるだろうから」
 海藤がそう声を掛けると、真琴は倉橋に言った。
 「明日、入院の準備を色々用意してきますから。今日はゆっくり休んでくださいね」
 「真琴さん、そんなことは綾辻に頼みますから」
 「でも、俺しか分からないこともあると思うし」
男の妊娠、出産の先輩である真琴は、そう言いながらくすぐったそうに笑う。確かに、真琴に聞くことは色々あるだろうと、綾辻の
方はその申し出をありがたく受けようと思った。



 「倉橋、いい機会だと思ってゆっくりと休め」
 「・・・・・すみません」
 海藤だけではなく、真琴にまで心配を掛けてしまったことに倉橋は本当に申し訳なく思ったが、それでも大丈夫ですという言葉
をこの格好ではとても言えなかった。
病室を出て行く2人に目礼をしながら、倉橋は唇を噛み締める。
(迷惑を掛けたくないと思っていたのに、一番情けない姿を見せてしまった・・・・・)
 はあと深い溜め息を付いた倉橋は、そのままベッドの中に潜り込もうとしたが、
 「・・・・・っ」
不意に、上掛けごと抱きしめてくる力強い腕を感じて倉橋は起き上がろうとしたが・・・・・その腕は倉橋をベッドに縫い付けるよう
にしてさらに力を込めてきた。





                                   





くーちゃんママ、新章、「出産編」です。
初っ端から大変な事になっている様子・・・・・。