くーちゃんママシリーズ
第三章 出産編 2
倉橋が急に倒れてしまったことで、開成会の中は小さなパニックになっていた。
小さな・・・・・と、いうのは、近々に迫った出産のための入院に備え、倉橋自身ある程度仕事を振り分けていたことにより、仕事
上の問題は今のところ無かったのだが、倉橋が倒れたこと自体を皆心配し、案じているのだ。
特に、実際に倉橋が倒れた現場に居合わせた者達は、自分達が何も出来なかったということを後悔し、何か自分達が出来る
ことは無いだろうかと、倉橋と濃密なコンタクトが取れる人物に進言したのだが・・・・・。
「無いわね」
「綾辻幹部!」
「意地悪しないで教えてくださいよ!」
「別に、意地悪なんかしていないわよ。本当に克己がそう言ってるんだから」
(大体、そんな顔して意地悪とか・・・・・可愛らしい言葉も考えものよ、あんた達)
さすがにそう言うのは可哀想な気がして口には出さないが、綾辻はのんびりと倉橋から引き継いだ書類をめくっていた。
(こんなにきちんとしたものじゃなくって、口で説明してくれたっていいのに)
倉橋の性格通り細かくきちんとした書類。それには、さらに詳細が書かれてある補足書類もついていて、きっと、引継ぎの仕事は
実際の3倍くらいはあったのではないかと思った。
(こんなのしてるから倒れるのよ)
どんなに口で言ってもきかないので本人の自由にさせていたのだが、それが結果的に倒れるといった状況にまでなったのかもしれ
ない。
綾辻は溜め息をついた。
「綾辻幹部」
しかし、組員達は綾辻が感傷に浸ることを許してはくれないらしい。
「あー、もう、煩いわねえ」
「ですがっ」
「じゃあ、皆で千羽鶴でも作ったら?あ、人数だけはいるんだし・・・・・そうね、1万羽鶴とか」
「つ、鶴、ですか?」
「折り方、教えてあげましょうか?」
これでしばらくは大人しくなるだろうと、綾辻は傍にあった紙を手元に引き寄せた。
ベッドの下に置いていた紙袋。隠していたつもりだったがあっさりと見付かってしまい、倉橋はどうしようかと思わず視線を彷徨わ
せてしまった。
同じ男同士なので下着を見られることに抵抗は無いものの、それは一応汚れ物であるし、自分の仕える相手の大切な伴侶に、
それを洗わせるなんてもっての外だった。
(後で、コインランドリーに行くつもりだったのに・・・・・)
「じゃあ、これが洗濯物ですね。あ、今日は、海藤さんが作ったお弁当を持ってきたんですよ?病院食だけじゃ寂しいでしょう?
妊娠は病気じゃないから、食べ物にも特に制限は無いですって看護師さんにも聞いたし」
「・・・・・色々とすみません」
「お互い様じゃないですか。倉橋さんだって俺が入院していた時色々としてくれたでしょう?お返しって言ったら変だけど、俺だっ
たら少しは倉橋さんの気持ちが分かるかもしれないし」
「・・・・・真琴さん」
「あ、もちろん、倉橋さんが俺よりもしっかりとしていることは知っていますよ?」
そう言って笑う真琴の心遣いが嬉しかった。
確かに普通の病気とは違い、新たな命を産みだすという作業だ。しかも、本来なら経験などしない男の身での妊娠は、幾ら周り
が理解してくれようとしても、言えないことも、伝わらないこともたくさんある。
そんな状況を、自分よりも若く、そして細い身体で先に経験した真琴の存在は、自分にとってある意味綾辻よりもとても心強く
感じていた。
「はい、たかちゃんもお座りして。さっきお手て洗ったよね?」
「あらった!」
「うん、おりこうさん。じゃあ、みんなで一緒にお弁当食べようか」
病気ではないので、真琴はここに訪ねてくれる時には貴央も同行させる。無邪気な貴央の言葉や仕草を見ているだけでも、倉
橋の心は休まった。
(まだ5日目だというのにこれでは・・・・・本当に情けない)
身体は悪くなく、眩暈も無くなって自分で動けるという状態なのに、誰かに頼る一方なのが本当に心苦しく、倉橋は真琴が差
し出してくれる箸(倉橋専用にと買ってくれたらしい)を受け取りながら頭を下げるしかなかった。
昼食を一緒に食べ、それから1時間ほどして、ゆっくり休んでくださいねと言いながら真琴は帰って行った。
バイバイと手を振ってくれる貴央に笑いながら手を振り返し、賑やかだった病室が途端に静かになってしまって・・・・・倉橋は溜め
息をついた。
本当ならパソコンを持ち込んで仕事をしたいくらいだが、綾辻はおろか海藤からも駄目だと言われてしまったし、神経を集中させる
からと本も(倉橋が読むのは法律や経済の専門書がほとんどだ)持込みを禁止された。
個室なので、テレビでも見てゆっくりしているようにと言われるのだが、テレビには元々興味がない倉橋はここにきて一度もスイッチ
を入れていない。
綾辻が来てくれる夕方まで、何をすることも無くベッドから空を見つめているだけで・・・・・焦燥感に襲われた。
(本当にこんな所でのんびりとしていて・・・・・いいのか?)
こういった時間を今まで持ったことが無いだけに、倉橋はどうしていいのか分からないのだ。
「・・・・・」
意味も無く、視線はドアへと向けられる。鍵が閉まっているわけでもなく、このまま歩いてあのドアを開ければ外に出ることが出来
る・・・・・そう、思った時、
トントン
小さなノックの音がした。
(誰だ?)
真琴は今帰ったばかりで、綾辻が来るのにはまだ早い。いや、もしかしたら仕事をサボって来たという可能性もあると、途端に倉
橋の顔には力強い生気が戻った。
「どうぞ」
(しっかりと言い含んでおかなければ)
ある意味、綾辻は倉橋の感情を大きく揺さぶることが出来る存在でもあった。
しかし、ドアを開けて中に入ってきたのは、綾辻ではなく、海藤だった。
予め、顰めていた眉間の皺を慌てて解いた倉橋は、直ぐにベッドから起き上がろうとする。
そんな倉橋にそのままでいるようにと言いながら、海藤は先ほどまで真琴が腰掛けていた椅子に座った。
「起こしたか?」
「い、いいえ、起きていました」
(何か、あったんだろうか)
倒れて直ぐに病院に駆けつけてくれて以来、海藤が直接ここに来たことは無かったが、それでも1日に1回、短いながら電話をく
れていた。
まさか、その海藤が、今目の前にいるとは思わず、倉橋は緊張したように頭を下げた。
「このたびはご迷惑をお掛けしました」
あの時はバタバタとしてきちんと謝罪も出来なかった。電話口では伝えたつもりだったが、やはり顔を合わせてきちんと謝罪しなけ
れば・・・・・そう思った倉橋に、海藤は苦笑を浮かべた。
「謝罪はもう聞いた」
「しかしっ」
「今日は、真琴達はもう?」
「はい、先ほどまでいらしていただいて・・・・・あ、弁当も頂きました。ありがとうございました、とても美味しかったです」
「口に合えば良かった」
海藤は何時も落ち着いた色のスーツ(黒ではないが)を着ているが、今日は病院に来るということできっと気を遣ってくれたのだろ
う、少し明るめの茶褐色のものを着ている。
そうでなくても俳優のように整った容貌の海藤は、きっと病院内でも目立っただろうと、倉橋はぼんやりと考えていた。
(顔色は悪くないようだ)
やはり、真琴をここに来させたことは間違いではなかったと海藤は思った。自分が2人といると心が休まるように、倉橋もきっとそう
感じたのだろうと思う。
(だが・・・・・)
「仕事は差し障り無いでしょうか?」
「ああ」
「綾辻はきちんと働いていますか?」
「しっかりな」
「組員達は・・・・・」
「倉橋」
たて続けに訊ねてくるのが仕事関係のことばかりだということに、海藤はやんわりとその言葉を遮った。
真面目な倉橋が仕事のことを気にするのはある意味仕方が無いと思うものの、もう少し、せめて無事に出産するまでは、無理矢
理にでもそれを忘れるように努力してもらわなければならない。
海藤だとて、妊娠している当人の気持ちが分かるわけではないが、神経を使うことが身体に障るだろうということは想像出来た。
「社長からもお願いします〜」
そろそろ、一度顔を見たいと思ったことも確かだが、綾辻にそう言われて気になったのも確かだった。
病院に行くたびに、仕事のことを聞き続けているという泣き言を言っていたが、これが自分に対してこれだけ言ってくるのなら、綾辻
相手ではもっと大変だろうと思う。
「落ち着かないのか?」
「・・・・・すみません」
倉橋の眼差しは、上掛けの上で組まれた自分の手に落ちた。
「考えないようにしたいんですが・・・・・」
「無理か?」
無理だと顔には書いているのに、海藤に直接言うことは出来ないのだろう。黙り込んでしまった倉橋の口が開くのを、海藤は辛抱
強く待った。
あまり心配だと言い続けるということは、自分が綾辻や他の組員達を信頼していないと言っていることも同じだ。もちろん、倉橋
はそんなことを思っているわけではなく、これは・・・・・多分に、自分の感情の問題だった。
(どう、説明をしていいのか・・・・・)
口下手な自分は、なかなか上手く自分の気持ちを説明出来ない。海藤がどんな自分でも受け止めてくれる度量の深い男だ
と分かっていたが、自分の弱さを見せつけることは、出来れば避けたいことだ。
しばらく、静かな時間が流れた。
海藤は急かすこと無く、倉橋が口を開くのを待ってくれている。忙しい海藤の時間を無駄にしてしまっていることがとても申し訳
なくて、とうとう倉橋は自分の気持ちを吐露してしまった。
「・・・・・置いていかれそうな、気がして」
「・・・・・」
「自分の居場所・・・・・帰る場所が無くなるような怖さがあって、どうしても落ち着かないんです。綾辻も、皆も、私のことを考え
てくれていることはよく分かっているんですが・・・・・」
それでも、生まれてしまった不安や恐怖は、完全には消えなかった。
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さすがの倉橋さんも、海藤さんには弱い。
この2人が一緒にいる空間も意外と好きです(笑)。