くーちゃんママシリーズ





第三章  出産編   3







 こんなことを言うのは自分の弱さを吐露するようで恥ずかしくてたまらない。
それも、相手は心酔しているといってもいい海藤相手で、彼が自分の言葉に呆れ、愛想を尽かすようなことがあったら・・・・・それ
も心配でたまらない。
 ただ、多忙の身である海藤がこうしてわざわざ病室まで来てくれた気持ちに対し、倉橋も正直に自分の中のわだかまりを話そう
と思った。
 「私の居場所は、開成会だけです。帰れないような事態になってしまったら、私はもしかして、この腹の子を恨むようになってしま
うかもしれません。子供には愛情を注がなければならないと分かっているのに・・・・・」
(この先、憎むようになるのかもしれないと思うと・・・・・)
 「倉橋」
 「そんなことになってしまったら、私のような子供になってしまうかもしれない」
 無関心も辛いが、憎まれるのはもっと辛いはずだ。
 「・・・・・」
 「それだけは駄目だと分かっているのに・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・申し訳ありません。こんな話をお聞かせしてしまうなんて」
目を伏せ、膝の上でじっと組んでいる自分の指先を見つめていた倉橋は、
 「いや、こうして聞かせてもらわなければ分からなかった」
 「・・・・・」
少しだけ笑う気配を感じて顔を上げた。
海藤の眼鏡の奥の眼差しは、普段自分に向けられているものよりもずっと柔らかい。いや、もしかしたら真琴や貴央に向けられて
いるものと同じくらいの優しいもので、倉橋は戸惑ってしまった。
(社長・・・・・?)
 「イレギュラーなことだと分かっていたが、俺が先に経験していることだと気楽に考えていたかもしれない。子供の父親になる立場
の俺と、産む立場のお前が全く違うことを、今改めて思い知らされた」
 「社長・・・・・」
 「これは、多分俺達がどんなに言葉で説明しても、お前自身の気持ち次第で変わってしまうことだと思う。だが、倉橋、これだけ
は言えるぞ。お前や、俺の両親と、お前や俺は違う。自分の生きた道と、これから生きる俺達の子供の道は違う」
静かな海藤の声が、倉橋の耳を通り心に響いてきた。



 倉橋の困惑や苦悩を全て理解出来ない。それでも、濃密な信頼関係があると信じている相手だ、自分の言葉は伝わると海
藤は信じた。
 「綾辻には悪いが、お前の骨を拾ってやるのは俺だと思っている」
 「・・・・・」
 「俺のために生きるというなら、それもいい。どんなお前でも、俺は傍にいてやる」
 「・・・・・どんな、私でも?」
 「子供の1人や2人、まとめて面倒みてやる。倉橋、子供を産んだからって、俺はお前を解放する気は無いからな」
 覚悟しろ・・・・・そう言うと、倉橋の握り締められた拳にさらに力が込められたようだ。
 「ほん・・・・・と、に、よろしいの、ですか?」
 「そう言っただろう。俺が嘘を言ったことがあるか?」
 「・・・・・ありません」
倉橋は小さく笑った。つい先ほどまでは途方に暮れたような顔をしていたが、今は泣きそうな・・・・・それでも、安堵したような表情
に見える。
 「安心しました」
 「ん?」
 「私の最後をみとって下さると言っていただいて。綾辻だったら、私の代わりに自分が死ぬと言い出しかねませんから」
 「嫌か?」
 「・・・・・嫌ですね。私は自分が守りたいもののために命を懸けるつもりです。それはあなたはもちろんですが、真琴さんも貴央君
も、そして、これから私が産む子と・・・・・あの男も入っていますから」
 「・・・・・お前らしいな」
 大切なもののために命を落とすのは構わない。それは、海藤自身も思っていることで、開成会という組を背負っている人間とし
ては情けないのかもしれないが、真琴と貴央のためだったら喜んで死ぬことも出来る。
倉橋は、それが広範囲なのだ。自分だけではなく、自分が大切に思っているものも守ると考えているし、さらに、そこに自分の子と
綾辻まで入る。
(俺も、そして綾辻も、お前を死なすつもりは無いがな)
 真琴や貴央とは違う意味で、倉橋は自分にとって大切な男だ。危険が目の前に迫っていたとしたら、多分迷わずに助けようと
身体が動くくらいに・・・・・。
(だからこそ、俺が家族を得て幸せになったように、お前にも共に生きようと思える家族を作ってもらいたい)
そのための数ヶ月の時間は、けして無駄ではないだろう。
 「倉橋」
 「・・・・・ありがとうございます、社長」
 それでも、こうしてはっきりと存在する意味を伝えてやったからには、倉橋の気持ちも多少は安定するのではないかと思う。海藤
は今の話を綾辻にも他の誰にも言うまいと思いながら、穏やかになった倉橋の表情を静かに見つめていた。



 「ゆっくり休めと言いたいが、出来るだけ早く戻ってきてくれ。綾辻は手を抜くのが上手いし、皆もお目付け役がいないとだらけて
困る」
 「はい、直ぐに戻りますから」

 帰り際の海藤の言葉に、笑って頷くことが出来た自分の気持ちの切り替わりに苦笑が洩れるが、それでも、今日こうして海藤
と2人きりでゆっくり話せたことは良かったと思った。
 彼の静かな声は一言一言重く響き、自分の胸の中に溶けていく。
綾辻の言葉が軽いというわけではないが、やはり、自分にとって海藤という存在は特別なのだなと改めて思った。
 「・・・・・もう少しか」
 後一時間もしないうちに、きっと綾辻がここに現れるはずだ。何時ものように笑みを浮かべ、手には自分が食べる用の甘い菓子
を持って・・・・・。
(今日は、私が食べてやろう)
普段はほとんど甘い物を食べないが、今日は少しだけ綾辻を驚かせたいと思う。それに、自分が苦手だからといって、腹の子まで
が甘い物が嫌いかどうかは分からない。
食の好き嫌いは両親のどちらに似るかは分からないからなと思いながら、倉橋は少しだけ休もうと目を閉じた。



 トントン

ドアをノックしても返答が返らない。
(散歩かしら?)
いや、それにしては見張りにいた(個室が並ぶこの階には、護衛のために数人の綾辻が選んだ女がいる)者は何も言わなかったと
思いながらドアを開き、少し奥まった部屋のベッドを見れば、珍しく倉橋が熟睡していた。
 「眠ってたんだ・・・・・」
(珍しい。人の気配には敏感なのに)
 そうでなくても、最近眠りが浅いと聞いていただけに、綾辻は無防備に見せる倉橋の寝顔を珍しく思って見下ろした。
 「・・・・・」
(顔色、いいみたい)
何時も青白い顔色だったが、今日は少しだけ肌の色があるように見える。ほとんど聞こえない寝息も安定しているようで、今の倉
橋の精神状態が良いようだと分かった。
 「やっぱり、社長が一番なのかしら」
 今日、海藤が時間を取ってここに来たという話は聞いた。
もちろん、その時の2人の話の内容は分からなかったが、倉橋にとって海藤と過ごした時間や交わした言葉は、きっと有意義だっ
たのだろう。
その相手が自分ではなかったということは悔しいが、倉橋の心が休まるのなら、いい。その相手が誰であれ、綾辻にとっては倉橋
の気持ちが一番大切なのだ。
(でも、私のことを忘れないでよ?)
 「克己を一番愛しているのは私なんだから」



 「・・・・・」
 何かが、頬に触れる。
(だ・・・・・れ?)
優しいその感触に、思わず頬を摺り寄せたが・・・・・。
 「なあに、子供みたい」
 「・・・・・」
(え?この、声・・・・・)

 目を覚ました時、倉橋の目の前にいたのは綾辻だった。ベッドの傍に置いた椅子に腰を掛け、組んだ足の上に置いた手に顎を
乗せた綾辻は、倉橋が目が覚めたことに気付いて笑みを向けてきた。
声が出てこないほどに優しい眼差しに、倉橋は思わず一度目を閉じてしまう。
 「な〜に?まだ眠いの?」
 「・・・・・」
 「狸寝入り、下手なくせに」
 「・・・・・起こしてくれたら良かったのに」
 恥ずかしくて、つい文句のように言ってしまったが、そんな自分の照れも全て分かったように、綾辻は笑っていて、倉橋は子供の
ように甘やかされている居心地の悪さに、どうしようかと視線を彷徨わせてしまった。



 やはり、表情だけではなく、心の中も落ち着いたようだ。
 「今日はどうだった?」
 「真琴さんが来てくださいましたよ、貴央君と一緒に。そして、社長もいらっしゃいました」
 「まあ、海藤家ご一行様ね」
茶化すように言いながら、綾辻は何時ものように自分用のコーヒーを入れる。
 「克己、何か飲む?」
 振り向いて聞けば、倉橋がじっと自分を見ていることに気付いた。何かを問うような眼差しに、ん?っと訊ねるように首を傾げて
見せると、少し躊躇うように目を伏せた倉橋は、やがて思い切ったように口を開いた。
 「あなた、ですか?」
 「え?」
 「社長に、ここに来るように言ったのは」
 「・・・・・」
(私のせいだと思っているわけか)
 どうやら、今回の海藤の行動には自分が絡んでいると思っているらしいが、倉橋は自分のことを買いかぶり過ぎている。自分の
言葉だけで海藤が動くことはないし、そもそも、そんな力は無い。
今回のことは海藤自身が考えて行動したことだ。
(それくらい、社長にとっては価値のある存在なのよ、克己は)
むしろ、それ程に強いつながりの海藤と倉橋の関係を考えれば、悔しいと思っているくらいなのだ。
 「ううん」
 「・・・・・本当に?」
 「社長がここに来たのは社長の意思だし、そこで何を話したのかは分かんないけど、それも社長の正直な思いのはずよ」
 綾辻がそう言えば、倉橋は何かを考えるかのように黙った。
今、倉橋の頭の中にあるのは、きっと海藤のことだ。妬けてしまうが、それも仕方が無いと思い、綾辻は傍のテーブルの上に置い
ていた紙袋を手に取って、何時もと答えは変わらないだろなと思いながらも聞いてみた。
 「美味しい抹茶ロール買ってきたんだけど、味見してみる?」
・・・・・思い掛けない答えは、数秒後に返ってきた。





                                   





何とか倉橋さんのお悩みも解消?
次回からはいよいよ出産の準備です。