くーちゃんママシリーズ
第三章 出産編 4
倉橋が早めの入院をして半月経った。
本来なら、出産のために入院するのがこれくらいであったのだが、少し早めの入院で倉橋の体調は思った以上に安定していた。
「・・・・・太っていませんか?」
「ぜ〜んぜん!克己は元々痩せてるんだから、多少肉がついたってそれが普通なのよ」
「・・・・・」
何時ものように夕方に見舞いに来てくれた綾辻に倉橋は気になっていたことを聞いた。
洗顔や、風呂の時、鏡に映った自分の顔を否応なく見てしまうのだが・・・・・大きくなっても当たり前の腹とは違い、頬が少し丸く
なってしまったような気がして、倉橋は複雑な思いがしていたのだ。
(この人はそもそも容姿を気にしない人だから・・・・・)
倉橋は元々人間というものに興味がなく、他人の容姿の美醜にも頓着しないが、実は綾辻も容姿の良し悪しを気にする男で
はないので(面白い人間が好きらしい)、実際に容姿がどれだけ変わったかなど気にしないのかもしれない。
「克己〜、多少太ったっていいじゃない。克己にはもうこ〜んなに素敵な旦那様と、かわい〜ベイビーがいるんだし」
「・・・・・少し黙ってください」
「はいはい」
「・・・・・」
倉橋は別に自分の容姿が変貌することを怖いとは思っていないが、不安には思っている。子供を産んで、その後に社会復帰を
する時、仕事柄自分の表情が甘いと困るのだ。
「克己、ほら、見て見て」
自分がこんなにも先のことを考えているというのに、綾辻は何を考えているのか何時も能天気に明るい。
今も、急に名前を呼ぶので何事かと思えば、先ほどからガサゴソと探っていた袋の中から、なぜか真新しいビデオカメラとデジカメ
を取り出して見せてくる。
「何ですか?」
「これで出産シーンバッチリ記録に取るから!安心してねっ」
「・・・・・」
「どうかした?」
「持って帰って下さい」
とてもまともに聞いてはいけないと、倉橋は溜め息を噛み殺しながら冷淡な口調で言った。
毎日、とても平凡で、静かな時間を過ごしている。
こんな風な気持ちで時間が過ぎるのは初めてかもしれないと思いながら、倉橋は真琴に頼んで持ち込んで貰ったパソコンを開い
ていた。
本当はこのまま仕事をしたいのだが、それは綾辻を始め、海藤も、そして担当の医師からも止められているので我慢している。
その代わりのように、倉橋は真剣な表情であるサイトを見ていた。
「・・・・・」
(やはり、《綾辻》で考えなければいけないか)
「両親の一字を取る方がいいのか、それとも字画を考えればいいのか・・・・・。あ、でも、女の子なら、結婚すれば苗字が変わっ
てしまうだろうし・・・・・」
毎日、ただ安静にしていることが仕事のような倉橋の目下の日課は、これから生まれてくるべき自分と綾辻の子供の名前を考
えることだ。
これが組員の子供だと、冷静に字画と語呂を合わせて考え、生まれる前に、余裕で数個は候補を考えているはずだったが、自
分の子供となると考えることが多くてなかなか決めることが出来ない。
一個人が、生涯背負う名前。
大きくなって、嫌だと思ったりしない名前。
誰からも愛され、口に出すだけで幸せな気分になれそうな名前。
「・・・・・難しい」
そうでなくても、男同士の自分と綾辻の間に生まれてくる子だ。きっと、様々な困難が待ちうけているだろうが、それらを力強く乗
り越えていけるような名前にしたい。
「・・・・・」
(名付けの本、買ってきてもらうか)
綾辻には頼めない。嬉々として、何冊買ってくるのか想像出来ないからだ。
明日も来てくれるだろう真琴に頼むのが一番安全かもしれないと、倉橋は《2008年度 新生児名前ベスト100》というサイトを
閉じた。
翌日.
「・・・・・はい、血圧もいいですね。食欲はいかがですか?時々食事を残されているみたいだけど・・・・・何か持ってきていただい
たものを食べられています?」
「・・・・・すみません」
ほとんどがベッドの上で過ごしているので、腹が減ることもなく、食べられないというのが現状だった。
看護師は、そんな倉橋を見つめて苦笑を浮かべている。多分、倉橋の気持ちは分かってくれているのだろうが、腹の子供のため
には困った状況だと思っているのかもしれない。
この病院では過去に2件ほど男の出産を扱ったらしいが、まだまだ世間的には希少な事例であるし、倉橋の職業柄も考えてく
れて、ついてくれている2人の看護師はいずれも40代のベテランの女性だった。
彼女達は本当に自分を気遣ってくれているので、倉橋も申し訳ない気分でいっぱいだ。
「倉橋さんはお1人だから、なかなか動けないですものねえ」
「・・・・・はい」
「育児教室とか、病院でも色んなことをしているんですけど・・・・・出られるの、嫌でしょう?」
「・・・・・」
即座に頷くのは申し訳ないと思うものの、それでも倉橋は時間を置いて頷いた。
特別室が連なるここではなかなか他の妊婦と会うこともなかったが、彼女達が出産に備えての様々な教室やサークルに参加して
いるらしいことは綾辻から聞いていた。
一度、面白半分に、立会い出産の教室に出るかと言われもしたが、とても多くの奇異な視線に晒されるのは怖くて、即座に首
を横に振ったくらいだ。
「いいですよ、無理しなくて」
「・・・・・」
「私達にとって倉橋さんは1人の妊夫さんだけど、倉橋さんにとっては初めてで、緊張する出産だもの。一番リラックス出来る状
態でいてくれる方がいいですから」
「・・・・・はい」
出産などもちろん経験したことはないし、それに関する未知の恐怖や、やがて生まれてくる子供への愛情の向け方など、出来
れば色んな意見を聞きたいと思っていることは事実だが、それと、これとはやはり違う。
「出産までもう少し、頑張りましょう」
「・・・・・はい」
励ましの言葉に頷くものの、緊張や不安感は拭いきれない。
倉橋は腹をさすり、何時になったら出てくるのだと口の中で何度も訊ねていた。
看護師が部屋から出て行ってしばらく、倉橋はベッドから起き上がった。
「・・・・・」
少し、外の空気が吸いたいと思った。
特別室である部屋にはトイレはもちろんバスも簡易キッチンも付いているし、診察は病室まで医師が来てくれる。どうしても別フロ
アの診察室に行かなければならない時は専用のエレベータに乗っていたので、実を言えば入院して半月あまり、倉橋は入院する
時に病院の玄関で何人かの患者に会って以来、他の患者の姿は見ていなかった。
もちろん、ここは出産を控えた者と、婦人病の患者である女性患者がいる階なので、倉橋も進んで誰かに会いたいとは思わな
かったが。
「・・・・・」
パジャマの上に上着を羽織った姿で、倉橋はそのまま屋上に向かった。
「・・・・・ん」
(いい天気だな)
外は青空が広がっていた。
少し肌寒いかとも思うが、これはきっと空気が澄んでいるからだと思う。東京のど真ん中にあるはずなのに木々に囲まれている建
物は、静かで心地良い空間となっていた。
「・・・・・なんだか、妙な気分だな」
通常の妊婦よりもはるかに腹の膨らみは小さいのに、たったこれだけ歩いてきただけで随分と身体が疲れたような気がする。
ここまで鈍っていては復帰は遠いかもしれないという危機感を抱いた倉橋は、簡単な運動ならばしてもいいかという気持ちに襲わ
れた。
「・・・・・っ」
「ね?動いてるでしょ」
ゆっくりと屋上を回っていた時、その一角から声が聞こえた。
とっさに壁の影に隠れた倉橋の目に映ったのは、若い妊婦とその夫という一組のカップルだった。
「やっぱり講義に出てよかったよ。自分の子供が産まれるんだな〜っていう実感が沸いた」
「なによ、それ。今まで実感がなかったわけ?」
「そりゃ、多少はあったけどさ〜」
「まあ、いいわ。明後日もあるんだから、会社抜け出してきてね?」
「分かってるって。いっそ、有給とろうかな〜」
「そう言って、1日遊ぶんでしょ」
まるで、言い合いのような言葉だったが、その口調が楽しげで、見詰め合っている2人の表情も幸せそうで、倉橋はなぜかじっと
見つめてしまった。
「私がパパよ〜」
倉橋が気を緩めた時、よくその腹に手を置いて、楽しそうに言っていた綾辻。彼には親になる自覚はあると思うものの、本当は
目の前のカップルのような、ちゃんとした手順を踏みたいと思っているのではないだろうか。
これがもしも女が綾辻の子を身篭ったとしたら、きっと彼は大勢の父親候補達と笑いながら、色んな情報を交換したり、自慢し
あったりしていただろう。
「・・・・・」
(いい、のか?)
自分が恥ずかしいから嫌だと言うことで、綾辻の色んな楽しみや経験する機会を奪っているのかもしれない。
「・・・・・」
どうしよう・・・・・倉橋はフラッと屋上から出た。
自分の病室があるフロアーへと戻りながら、倉橋はずっと考えていた。
自分は珍しい男の妊婦という奇異の眼差しが怖くて、様々なことに注文をつけ、避けるようにしてもらっているが、それは必ずしも
良いことだとは言えないかもしれない。
「克己!」
エレベーターのドアが開いた瞬間、綾辻が身体を抱きしめてきた。
「心配するじゃない!」
「・・・・・」
「克己?克己、どうかした?何かあったの?」
自分の僅かな変化で、全てを覚ってくれる綾辻。こんなにも自分のことを思ってくれている彼に、自分は何も返すことが出来ない
のだろうか?
(・・・・・いや)
「・・・・・綾辻さん」
「ん?」
「・・・・・明後日、一緒に、は、母親教室に行きませんか?」
「え?」
喉に張り付いた言葉を辛うじて押し出すと、綾辻は文字通り目を丸くして驚いていた。
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次回は母親教室。
第三者から見た2人というのも出てきます。