くーちゃんママシリーズ
第三章 出産編 6
それは、唐突にやってきた。
「食事、あまり召し上がらなかったんですね」
昼食を下げに来た看護師が心配そうに言う。なんだかとても申し訳なくて、倉橋はすみませんと頭を下げた。
「今朝から何だか胸が詰まっているようで、何かを食べようという気にならなくて・・・・・」
妊婦は太り過ぎは良くないものの、それでも体力をつけるためにはそれなりの食事量は取らなくてはならない。元々痩せている
倉橋は、特に太りなさいと言われているくらいだったが、ここ2、3日、腹が張って、ほとんど食欲が無いのだ。
「予定日まではまだしばらくありますけど、先生に言って検査をしてもらいましょうか」
「・・・・・お願いします」
もう少しで出産という時に、今何かあってはたまらない。倉橋は看護師の言葉に直ぐに頷くと、トレイを下げる彼女を助けるため
にベッドから足を下した。が、
「・・・・・っ」
「倉橋さんっ?」
いきなり、締め付けられるような痛みを感じて、その場に膝をついてしまった。腹を打ってはならないという気持ちだけでとっさに手
をついたが、腹の痛みはますます強くなっていく。
「く・・・・・ぅっ」
声を出してはならない。そう思うものの、引き結んだ唇から呻き声が漏れた。普段かかない汗が、顔だけではなく身体中に滲ん
でしまう。
そして、下半身にまるで漏らしたような感触を感じて、倉橋の頭の中は一気にパニックになってしまった。
(な・・・・・に?)
「そのままっ、動かないで下さい!」
看護師がナースコールを押して何か叫んでいる。その声が、次第に遠くなっていった。
綾辻は時計を見上げた。
(まだ12時半か)
そろそろ昼食の時間が終わった頃かなと思う。
「あ〜あ」
「・・・・・綾辻幹部、溜め息をつくの止めてくれませんか?周りのやる気が無くなってしまうでしょう?」
自分の補佐である久保が文句を言ってくるが、それも仕方ないだろう。昼前から頻繁に・・・・・ここ一時間だけを考えても5分置
きくらいに大きな溜め息をついているからだ。
我慢強い久保がいい加減キレて文句を言ってくるのも聞き流し、綾辻は机の上に置いていた車のキーを見つめた。
今から病院に行ったとしたら、1時半前には着いてしまう。そうすると、仕事をさぼっただろうと倉橋に叱られてしまう。それはいい
のだが、今は出来るだけ倉橋の感情を波立たせない方がいい時期で・・・・・。
「もう、何時出産するか分からないからね」
男の妊娠期間は女のそれよりも短く、またその時に急激に女性ホルモンの分泌が多くなるらしいので、出産予定をあまり限定
出来ないらしい。
前後一週間、つまり、二週間以内の何時出産の兆候が表れてもおかしくは無いと、綾辻は数日前にそう主治医から言われた
ばかりだった。だからこそ、倉橋の感情を考えるのだ。
「ん?」
その時、携帯が鳴った。何気なく液晶を見た綾辻は、直ぐに電話に出る。
「はい、綾辻です・・・・・分かりました、直ぐに向かいます」
電話を切るなり車のキーを取った綾辻に、今の電話のただならぬ雰囲気を感じ取った久保が声を掛けてきた。
「どうされたんですかっ?」
「陣痛が来たらしい」
「え?」
「社長に言っておいて、とにかく病院に行って、様子が分かったら連絡するから」
こんな風に説明する時間も惜しいと、綾辻は直ぐに地下駐車場へと向かう。
(克己っ)
もう直ぐだと心の準備をしていたといっても、いざその時が迫るとどうしたらいいのか全く分からない。とにかくその顔を早く見なけ
れば安心出来ないと、綾辻の足はもう早足になっていた。
とにかく車を飛ばして病院に駆け付けた綾辻は、そのままナースステーションに向かった。
電話での連絡では、何時出産するか分からないとのことだったので病室にはもういないだろうと予想がつき、それならばここで聞
くのが一番正確で早いと思ったのだ。
「綾辻です」
この病院でも、男同士のカップル、それも美形同士ということで、看護師達は皆綾辻達のことを知っている。そのおかげで事情
も直ぐに分かった。
「綾辻さん、こちらにっ」
奥から直ぐに出てきた看護師は、何時も倉橋を担当してくれている2人のうちの1人だ。
「あっ、るりちゃんっ、克己はっ?」
「陣痛室に入ってもらっています」
「陣痛室?」
「倉橋さんの場合は特例でしたから、数日前から念のため一部屋確保してたんです。そこならそのまま出産出来ますし、分娩
室と違って身構えることも無いでしょうし」
「・・・・・そう、ありがと」
この病院を選んで良かったと、綾辻は今強烈に思っていた。男の出産を経験したということと、倉橋の後輩で海藤と同級生であ
る一之瀬の親戚の病院。この病院を選んだ理由はその2つの理由が主だが、そこにスタッフの気遣いと優秀さを入れなければ
ならない。
「それで、出産するってことでいいの?」
「陣痛の間隔から考えて間違いは無いと思いますけど、何時ということははっきり言うことは出来ません。私も以前男性の出産
に立ち会った先輩から聞いたんですけど、日をまたぐことはざらだということですし」
「・・・・・」
「倉橋さん、ここの所食欲も落ちていたし、結果的にはこの時期がギリギリいい時だったかもしれません。あ、ここです」
もしかして、これよりも遅かったら別の方法・・・・・人工的に陣痛を促すか、帝王切開か、どちらにしても倉橋の負担になる方法
になっていたかもしれないと思い、綾辻は我が子のタイミングの良さに苦笑しながら、開けられた部屋へと足を踏み入れた。
(苦しい・・・・・っ、き、ついっ)
いきなり襲ってきた痛みは陣痛らしく、倉橋は直ぐに陣痛室と呼ばれる部屋へと移された。
直ぐに出産というわけではなく、まだその前の段階だったが、この身体に感じる痛みは本番の痛みと遜色ないように感じていた。
「・・・・・っ、・・・・・はっ」
汚したパジャマから手術着のようなものに着替えるのも、情けないが看護師の手を借りなければ出来なかったし、この後もまだ
まだ恥ずかしい思いをしなければならないようだ。
(もう少し、先だと思ってた、のにっ)
もうそろそろとは思っていても、もう数日先だと思っていた。だから・・・・・剃毛は今日か明日、シャワーを浴びる時に自分でしよう
と思っていたのだが、このままでは看護師にしてもらうことになりそうだ。
向こうは慣れていることかもしれないが、ここは産科で、本来ならば女性相手のそれを、男性の自分にするなんて抵抗があるだ
ろう。
いや、そもそも出産となれば下半身を露出し、あられもない格好をするわけで・・・・・。
(・・・・・眩暈がしそう、だ・・・・・)
トントン
その時、ドアがノックされて開いた。
倉橋はベッドにうつ伏せになっていて顔が上げられない状態だったが、
「克己っ」
「・・・・・!」
耳に届いたその声に、とっさに手を伸ばし、その手は次の瞬間、しっかりと握りしめられていた。
「もう大丈夫だから」
「は・・・・・いっ」
出産に父親が出来ることは励ますことだけ・・・・・そんな風に漠然と思っていたが、その励ましこそ今一番必要なのだと倉橋は思
い知っていた。
想像以上に辛そうな倉橋の様子に、綾辻は自分が何が出来るのだろうと考えた。
出来ればこの痛みを変わってやりたいがそれは叶わず、ただ頑張れと口で励ますしか出来ない。それがもどかしく辛いものの、綾
辻は出来るだけ軽い口調で言った。
「ようやく私達の赤ちゃんが見られるのね〜。どんな可愛い子が産まれるのか楽しみ」
「か・・・・・わ、いい、なんて、分からない、でしょう」
「可愛いに決まってるわよ。いい男の私と、美人の克己の間の子ですもの」
「・・・・・っ」
倉橋の笑う気配がした。
しかし、直ぐに辛そうに呻いている。綾辻は背中から腰をさすってやった。
「少し落ち着いたら社長とマコちゃんに連絡を取るから」
「そ、な、もうし、わけ・・・・・」
「社長は私達の上司だし、マコちゃんには絶対に連絡を入れて欲しいって言われているの。私も、マコちゃんがいてくれた方が心
強いわ、経験者だし」
倉橋が感じているだろう同じ痛みを経験した者として、自分が分からないことや気付かないことにも助言してくれるはずだ。
倉橋の言うように申し訳ないとか、今は言っていられないと思った。
「ねえ、何かして欲しいことある?まだ食べ物は口に出来るし、何か用意させましょうか?それとも、飲み物だったら口に入るかし
ら?」
「・・・・・れ、より、も、おねが、が」
「え?」
荒い息の中、倉橋が小さな声で言った願いごとは思いがけなく、それでいて綾辻にとっては楽しく、嬉しい頼みごとで、直ぐに準
備するわと嬉々として返した。
露出した下半身が心許無く、そして・・・・・冷たい。
ジョリ
「!」
「じっとしてて」
肌を滑る冷たい感触に思わず反射的に動こうとしたが、綾辻が軽く太腿を叩いたので必死に我慢した。
(こ、こんなにも羞恥を感じるもの、なのかっ)
女性の看護師にしてもらうのはやはり抵抗があった剃毛を綾辻に頼んだはいいものの、これはこれで別の意味で恥ずかしくてた
まらない。セックスの時は何度も見られていた下半身だが、こんなにも明るい光の下、必要なこととはいえしている行為は、何だか
一種の羞恥プレイだ。
「克己は薄いから楽よね〜」
「・・・・・っ」
「これだって、色も形も綺麗だし、見られたって全然おかしくないけど、見せるの勿体ないし〜」
「あ、綾辻、さっ」
「ん〜?」
「だま、って、お願、しま、すっ」
「でも、しゃべらなかったら音が聞こえちゃうわよ?それでもいい?」
・・・・・それはそれで嫌だ。
首を横に振った倉橋を見て、そうでしょと笑った綾辻は、それからも話を続ける。出来れば今している行為を忘れさせてくれるよう
な全く別の次元の話をしてくれればいいのだが、綾辻の話はどこかセックスを連想させるものばかりで・・・・・。
(わ、わざと、だっ)
こんな時まで自分をからかう綾辻が憎らしくて、しかし、心のどこかで安心もしていた。
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いよいよ出産。
出産シーンそのものズバリは書かない予定なので、次回には産まれるはずです。