くーちゃんママシリーズ
第三章 出産編 7
真琴は急いでエレベーターから出た。
自分がこんなに急いでも仕方が無いと分かっていたものの、どうしても落ち着かなくて早く早くと思うのだ。
「真琴、ナースステーションで聞こう」
「あっ、そっか!」
貴央を抱いて後ろから来る海藤にそう助言されて真琴は足を止め、そのままナースステーションに向かおうと思ったが・・・・・少し
気になったことを海藤に訊ねてみた。
「海藤さん、倉橋さんの家族に知らせなくってもいいんでしょうか」
「・・・・・本人は望まないだろうな」
「でも、絶対、大丈夫だって思いますけど・・・・・」
それでも、男の出産というものが相当リスクをおったものだということは真琴自身がよく分かっていて、出来れば両親が傍にいて
くれたらと思ってしまうのだ。
だが、どうやら倉橋の家庭事情を少しは知っているらしい海藤は、その必要は無いともう一度言うので、真琴もそれ以上言うこ
とは出来なかった。
看護師に案内してもらい、陣痛室の前まで来た真琴は、看護師が中の綾辻を呼んで来てくれるのを待つ。
そして、直ぐに防菌の上っ張りを着た綾辻が出て来た。
「ごめんなさいね〜、マコちゃん、わざわざ来てもらって」
「いいえっ、連絡してくれて嬉しいです」
「社長も、すみません」
「様子はどうだ?」
「陣痛が始まって大体3時間くらいですけど、まだまだみたいです。確か、マコちゃんの時も結構掛かりましたよね?」
「真琴の時は20時間くらいだったな」
海藤と綾辻の会話を聞きながら、真琴は閉じられた扉の向こうに視線を向けた。
ドアが開いた。
視線を向けた海藤に、綾辻が苦笑しながら言う。
「まだまだ掛かりそうなんで、一度戻って下さい」
そう言われて海藤が時計を見れば、ここに来てから2時間ほど経っていた。陣痛が始まって5時間。まだ出産の時間ではないだ
ろう。
「どうする、真琴」
じっとしているのが退屈らしい貴央の相手をして、廊下で歌を歌いながら一緒に踊っていた真琴は、ここに残りますと直ぐに返
事をしてきた。
「でもねえ、マコちゃん。まだまだ掛かりそうだから」
「それでも、帰っても心配で落ち着かないだろうし、それだったら何も出来ないけどここにいた方がいいですから」
「マコちゃん」
「俺、倉橋さんのこと、家族だって思ってますから」
きっぱりと言い切る真琴に、海藤はふっと笑みを浮かべて立ち上がった。
そう思える真琴が誇らしかったし、自分の代わりに真琴がここにいてくれることが心強くも感じたのだ。
(倉橋にとっては、両親よりも真琴が傍にいる方が安心だろう)
海藤としても、無事に子供が産まれるまでここにいたい気持ちは山々だが、自分が何の役にも立たないことは分かっているし、
時間もかかるだろうと思った。
「綾辻、俺は一度事務所に戻る。真琴と貴央はここにいさせてやってくれ」
「社長」
「無理に連れ帰っても、またここに来るだろうからな」
「・・・・・はい、ちゃんとお預かりします」
「綾辻さんは倉橋さんのことだけ考えて下さいっ、俺と貴央のことは大丈夫ですから!」
真琴はそう言うが、海藤と綾辻は顔を見合わせて苦笑した。綾辻もそうしたいだろうが、ここに自分の会派の会長の伴侶がい
れば、一方だけを見ることは無理なのだ。
綾辻が倉橋のことだけに集中出来るようにしてやりたいが、産婦人科という場所柄、あまり強面の組員達を連れてくるわけにもい
かず、ここは自分が早く戻ってくることが一番なのだろうなと海藤は考えた。
「・・・・・」
綾辻は陣痛室から出て溜め息をついた。
倉橋が陣痛室に入ってほぼ半日、そろそろ深夜の0時になろうとしている頃だ。
つい1時間ほど前まで病室の前にいてくれた真琴は、今貴央と共に倉橋の病室で横になってもらっている。あれから海藤も再び
来てくれて、今は真琴と共に病室にいるはずだ。
「まだ、掛かるか・・・・・」
後どのくらい待てばいいのかが全く分からないので、綾辻はどう我慢していいのか分からない。
断続的に陣痛の痛みに襲われる倉橋を見ていることが辛いが、何とかしてやりたくても何も出来ず、綾辻はただ手を握り締めて
いるだけしか出来ない。こんな時、父親というものは本当に情けないなと思い知ってしまった。
今様子を見てくれている看護師の話では、早くても朝方、もっと伸びてしまえば昼過ぎになる可能性もあると言っていた。
そうすると、倉橋は丸1日苦しむことになる。
「それ以上になると、他の方法も考えなければならないかもしれないね」
2時間ほど前に来てくれた担当医はそう言った。
倉橋の、いや、男の場合、子宮は突然変異で出来たもので(そのあたりの仕組みはまだ解明されていないらしいか)、帝王切開
してしまえば、母体自身にも深刻な影響が出かねないという。
出来れば自然分娩で、このために出来た産道を通って産む方が、倉橋にとっても赤ん坊にとっても最良らしいのだが。
(そうは上手くいかないのかも)
その時、いきなり中から勢いよく看護師が顔を覗かせた。
「綾辻さん!」
その顔色に嫌な予感がする。
「何かっ?」
「出血が酷くてっ、今先生を呼びますけどっ、付いていてあげて下さい!」
その瞬間、綾辻は陣痛室の中に飛び込んだ。
直ぐに組に連絡して、倉橋と同じA型の組員を集めてもらった。彼らは快く綾辻に協力してくれた。
容態が芳しくないということで、海藤と真琴も再び陣痛室の前にやってきたものの何も出来なくて、ただ結果を待つためにそこにい
るだけだ。
「最悪の時は、私は迷わないで克己を取るわ」
先程見た青褪めた綾辻の笑みが頭から離れず、真琴は貴央と共に毛布にくるまった状態で海藤に寄り添った。
「大丈夫ですよね?倉橋さんも、赤ちゃんも、絶対に大丈夫ですよね?」
「・・・・・信じよう」
海藤は断言はしなかった。慎重な彼は、自分の言葉で一喜一憂する真琴の気持ちが分かった上で、覚悟も必要なのだと言外
に伝えてくる。
(倉橋さん・・・・・)
今、倉橋はどんな気持ちでいるだろうか。陣痛のせいでゆっくりと眠ることも出来ず、不安に押しつぶされそうになりながらも、そ
れでも新しい生命を誕生させようとしているのではないだろうか。
(頑張って・・・・・っ!)
頑張っている人間に、さらに頑張れというのは酷かもしれないが、真琴はもうそう祈るしか出来なかった、
そして、それからまた数時間経ち・・・・・、そろそろ病院の中も騒がしくなってきた。
自分の身体に寄り添いながらウトウトとしてしまった真琴の肩を抱き寄せていた海藤は、
ぎゃあ
「・・・・・真琴、起きろ」
微かな声を聞いた気がして真琴を揺り起こした。
完全には眠っていなかった真琴は直ぐにパッと目を見開き、反射的に陣痛室の扉を見る。
「産まれたんですかっ?」
「今、声が聞こえた気がした」
ただ、それが一度だけだったことが気になった海藤だが・・・・・しばらくしてドアが開くと、防菌服を赤く汚した綾辻が出てきて、海
藤に向かって深く頭を下げた。
「ずっと付いていて下さってありがとうございました」
「綾辻さんっ、倉橋さんと赤ちゃんはっ?」
「・・・・・うん、一応、2人共無事。小指ほどでも、立派におちんちんのついた男の子」
「男の子っ?」
真琴が嬉しそうに叫び、海藤を振り返る。海藤も深く頷いた。
「2人共無事なんだな?」
「克己、頑張ってくれましたよ。自然分娩で・・・・・ただ、ちょっと小さいから、直ぐにNICU(新生児集注治療室)に連れていか
れましたけど、その前にちゃんと抱かしてもらいましたから」
片腕にも余る・・・・・いや、手の平にのるのではないかと思えるほどの小さな自分の子供。
真琴の時も1700グラムを少し超すくらいの小さな赤ん坊だったが、倉橋が産んだ子供はさらに小さく、ようやく1000を越したくら
いだった。
これも、早めに入院し、安静にしていた成果だろう。もしもギリギリまで仕事をしていたら、もしかしたら子供の命は危険にさらされ
ていたかもしれない。
「・・・・・」
綾辻は血で汚れた自分の手を見下ろした。
絶対に見逃すものかと見ていた出産は本当に神秘的で、自然と涙が零れてしまっていた。
そして、小さな小さな自分の子供を保育器に入れる前、担当医は綾辻に抱きなさいと言った。
多分、一刻でも早く治療をしなければならないのだろうが、それでも立派に出産した倉橋と、懸命に産まれて来た子供を、絶対
に守るのだという父親としての自覚をしっかりとさせるために、あえてそう言ってくれたのが分かった。
(俺の・・・・・子)
抱いたのは、1分も無かった。
泣き声も上げず、動きもほとんど見せなかったが、それでも薄い胸が数かに上下しているのが見えて、生きているのだと綾辻に伝
えて来た。
「・・・・・綾辻さん」
「え?」
真琴が、貴央が握りしめていたタオルを取って、自分の顔を拭ってくれる。その時綾辻は初めて、自分が自覚も無く涙を流して
いたことに気付いた。
「やだあ、恥ずかしい〜」
「そんなこと無いですよ?・・・・・おめでとうございます、綾辻さん」
真琴も泣きながらそう言って笑ってくれた。
その顔と言葉で、綾辻はさらに目の前が濡れて見えなくなってしまう。こんな風に泣いてしまうのはきっと幼い子供の時以来で、
きっとこれからも無いように思う。
「・・・・・うん、ありがと、マコちゃん」
ここには、誰も血の繋がった身内はいない。それでも、自分と倉橋にとってはとても大切な、血の繋がり以上の結びつきの相手
で、彼らに自分達の血を受け継いだ新しい命の誕生を共に迎えてもらうことが出来て、綾辻は言葉にならないほど嬉しかったし、
きっと倉橋も同じ気持ちだろうと思えた。
8月25日、午前10時25分。綾辻ジュニア誕生。
22時間近く掛かって生まれた子は、1080グラムの、小さな小さな男の子だった。
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綾辻ジュニア誕生です。
2月から書き始めているので、約6ヶ月後の出産ということで夏になりました(汗)。
たかちゃんよりも小さく産まれた赤ちゃん。倉橋さん、頑張って!次回は名前もつけますよ。