くーちゃんママシリーズ
第三章 出産編 8
倉橋がベッドから起き上がることが出来たのは丸一日経ってからだった。
普通分娩出来たとはいえ、倉橋の身体で出産するというのはかなり負担が掛って、気がついてもなかなか起き上がることが出来
なかった。
それでも、産まれた瞬間に聞こえた小さな声はしっかりと耳に届いているし、指先だけ触れた小さな小さな手の感触さえ、はっき
りと記憶に残っていた。
「・・・・・」
「大丈夫?克己」
出産後、最初に目が覚めた時、目の前には綾辻がいた。何時も笑みを浮かべている彼の目が、今日は赤い気がする。
(・・・・・泣いたの、か?)
口に出して聞かなかった。それは、言葉で聞くよりも雄弁な答えがそこにあったからで、倉橋は強張った頬に何とか笑みを浮かべ
ると、ありがとうございますと礼を言った。
「ずっと、傍にいてくれたんですよね」
「当たり前でしょう?私達の赤ちゃんなんだし、一緒に頑張るのは当然。もっとも、克己ほど私は何も出来なかったけれど」
そんなことは無かった。
朦朧とした意識の中でも、しっかりと手を握り締めてくる力と、自分の名を呼ぶ綾辻の声が、もしかしたら死ぬかもしれないという
思いを抱いた自分にとって、強い支えになったのは確かだ。
出産という経験をしたのは自分だが、確かに綾辻と2人でこの世に生み出した・・・・・そんな気がしていた。
「会いに行く?」
倉橋の表情を穏やかな眼差しで見つめていた綾辻が唐突に切り出した。
倉橋はなぜか一瞬顔が強張る気がする。
(会う・・・・・私が産んだ、子に・・・・・)
直ぐに頷くべきなのに、何だか・・・・・怖くて仕方が無い。男の自分が産んだ子が、いったいどんなふうに息をしているのか、自
分の目で確認するのが怖くてたまらなかった。
「・・・・・明日にする?」
そんな自分を非難することもなく、綾辻は笑いながら逃げ道を作ってくれた。
ここでその言葉に縋れば現実を見るのが先延ばしに出来る。しかし、時間は確かに過ぎていて、会わない時間は自分だけでなく
子供にも流れるのだ。
「・・・・・会います」
父親というべきだろうが、産んだ自分は母親という立場に違いない。倉橋がしっかりとそう言うと、綾辻は優しく髪を撫でてくれな
がらうんと頷いた。
「待ってるわよ、あの子」
繊細な神経の倉橋が、今の赤ん坊の状態を見てどう感じるか・・・・・綾辻はそれが心配だった。
普通の赤ん坊のように、何時でも母親の腕に抱かれるという状況ではなく、命の危険はとりあえず無いとはいえ、責任感の強い
倉橋は全て自分のせいだと思いつめてしまうのではないか。
綾辻はもう何度もNICUに足を運び、担当医からもその状況をこと細かに聞いていた。もし、仮に覚悟をしなければならない状
況になったとしても、倉橋を支えるために先ず自分が全てを知って、納得していなければと思ったからだ。
だが、一方で自分だけがその責任を負ってもいいものかとも思った。
あの赤ん坊は自分達2人の子で、倉橋に負の部分をずっと隠し続けていけるはずが無い。どんなに辛くても、歯を噛みしめたくな
るような状況になったとしても、2人で背負っていく問題ではないだろうか。
だから綾辻は、倉橋が落ち着いたのを見計らって直ぐに誘いの言葉を向けた。2人の子供の運命を、2人でしっかりと受け止め
るために・・・・・。
「・・・・・」
NICUに来ると、倉橋はさすがに緊張していた。
しかし、看護師達は自分達の姿を見ると声を上げて歓迎してくれる。
「おめでとうございます、倉橋さんっ」
「ようやく会いに来ることが出来ましたね」
「あ、ありがとうございます」
その勢いに押されたらしい倉橋は戸惑いながらも頭を下げて礼を言った。
「さあ、これを着て下さいね。マスクと帽子もお願いします」
「・・・・・これを?」
「ここの赤ちゃん達は繊細ですから」
簡単に会えないことをその言葉で感じたのか倉橋は硬い表情のままそれを受け取り、黙ったまま身に付けていく。その姿を見た
綾辻は、ポンと肩を叩いた。
「楽しみにしてましょ、私達の赤ちゃんに会うの」
「綾辻さん・・・・・」
「ね?」
倉橋の不安がそんな言葉で薄れるわけが無いとは思うものの、綾辻は出来る限り楽しい気分で愛しい我が子に会いたいと考
えていた。
完全防備をした姿で中に入ると、ずらりと並んだ保育器が目に飛び込んできた。
通常の面会時間ではないからか、自分達以外に親らしい姿は見えず、保育器の中では小さな赤ん坊達が静かに眠っている。
(・・・・・小さい)
その赤ん坊も、多分通常よりも小さく、手足や鼻、そして腹に、痛々しく管をしている者がほとんどだった。
自分のような特殊な事情ではなく、通常の妊婦でも諸事情から産まれてくる可能性のある小さな赤ん坊達。自分だけが特別だ
と思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。
「綾辻ベビーはこちらですよ」
「・・・・・綾辻、ベビー?」
「まあまあ」
なんだか、その呼び名は恥ずかしい気がする。
その気持ちを誤魔化し、倉橋は看護師の案内してくれる保育器へと足を向け、その中を覗きこんで思わず息をのんでしまった。
「・・・・・小さい」
自分の声は震えてはいないだろうか。
裸の体に当てられているガーゼ。細い腕に不釣り合いなほどに大きな管。直ぐ傍にはモニターがあり、様々な数値が映し出され
ている。
ここまで来る間にも小さな赤ん坊達が並んでいたが、自分の産んだ子はそれよりもまた一回りも小さい気がした。
「少し大人しいけど、ちゃんと頑張ってくれてますよ。ほら、触れてあげて下さい」
「で、でも・・・・・こんなに小さいのに、触ってしまったら・・・・・」
「大丈夫です。ちゃんと自分の産んでくれた人だって分かってくれますよ」
とても、そうは思えなかった。いや、触れるのが怖いという気持ちが大きいのだ。
それでも、倉橋はおずおずと中へ片手を入れる。刺激を与えないように、驚かせないように、そっと指先を触れさせると、
「!」
小さな小さな指が、自分の指先を掴んだ。
それは、一瞬のことで、もしかしたら自分の気のせいだったかも知れないが、倉橋はそっと横からティッシュで頬を拭われて、初
めて自分が泣いていたことに気が付いた。
面会時間は5分にも満たない短いものだったが、倉橋は1日時間が経ったような気分になった。
数か月、自分の腹の中にいた存在が、世に出てきて、こうして別の人格として目の前にいる。まだ話すことも出来ず、自分の意
志さえ伝えられないというのに、それでももう、彼は自分とは違う人間だった。
(・・・・・寂しいと思うのは変かもしれないが・・・・・)
倉橋は無意識のうちに腹を撫でていた自分の手に気付くと、ハッとそれを引き、ちらっと綾辻を見る。
(・・・・・良かった、気付いていないみたいだ)
看護師に名を呼ばれて違う方向を見ていた綾辻は、今の自分の行動を見ていなかったらしい。それにホッとしていた倉橋は、
「名前ですか?」
その綾辻の声に慌てて顔を向けた。
(ふふ、可愛い)
泣いてしまった赤い目を自分から逸らせ、そっと腹に手を当てている倉橋の様子はとても可愛くて、綾辻の頬には自然に笑み
が浮かんでいた。
やはり、初めて見る我が子の様子にショックはあったようだが、それでも覚悟を決めたらしい倉橋にホッとした。
まだまだ先は長い。取り合えずはNICUを出る所を目指さなければならない。
「綾辻さん」
その時、綾辻は名前を呼ばれた。
「はい?何かしら?」
病院の中でも、綾辻のこの話し方は既に周知のことで、むしろ話しやすいと歓迎されているようだ。どちらにせよ、容姿が良け
れば女には好印象をもたれるものだと、自惚れではなく思っていたが。
「名前、まだ空白でいいんですか?」
「名前ですか?」
「まだ時間はありますけど、綾辻ベビーのままで?」
「綾辻さんっ」
倉橋の声に綾辻は振り向いて、にっこりと笑い掛けた。
「もう決まってるわよねえ、克己」
「え、いえ、あの」
「新しいネームプレート・・・・・あ、ペンも貸してね」
「綾辻さん、あなた何を・・・・・っ?」
焦ったようなその声には答えず、綾辻はさらっとネームプレートに名前を書く。それを後ろから覗き込んでいた看護師が、手が止
まると同時にいい名前ですねと言ってくれた。
「綾辻、優希(ゆうき)君ですね」
優希・・・・・綾辻がその名前を書いた途端、倉橋は自分の顔が燃えるように熱くなったのが分かった。
(ど、どうしてこの名前を・・・・・)
病院に入院してから、持て余すほどの時間を倉橋は子供の名前を考えることに費やしていた。
様々な本や、インターネットを調べ、少しでも子供にとっていい名前をと思い、最終的に3つほどに絞ったが、それはあくまでも自
分が勝手に考えたもので、綾辻の意見も聞かなければならないと思っていたし、海藤にも相談したいと思っていた。
優希は、その中の候補の1つで、倉橋が二重丸をしていたものだ。
何に対しても優しく出来て、希望に満ち溢れる人生を送れるように。自分が育ってきた幼少時代とは正反対の時間を過ごして
欲しいという思いを込めた名前だった。
「あ、あなた、どうして・・・・・」
「勝手に見ちゃってごめんなさい。でもね、すごくいい名前だなって思ったの。お腹にいる子のことを考えた名前だなあって、これ
が一番いいんじゃないかって思えて」
「で、ですが・・・・・」
「それに、早めに決めないと煩い人達が来ちゃいそうだし」
「う、煩い人達?」
「産まれた報告をしたら、何時顔を見に行っていいのかどうか1日に何回も連絡が来るの。今は落ち着いてないからって言った
けど、多分2、3日うちには来そうだし」
綾辻の言っているのが誰なのかが分からなくて、それと同時に考えていた名前を綾辻に知られていたことが恥ずかしくて、倉橋
は頭の中がグルグルと回っている状態のままだ。
そんな倉橋に、綾辻は自分が書いたネームプレートを指しながら聞いてくる。
「綾辻優希。どう?私は気に入っているんだけど」
もちろん、倉橋も気に入って考えた名前で、それを綾辻も気に入ってくれたのならば嬉しい。しかし、心のどこかでこの名前でも
いいのかと考えているのも本当だ。
「・・・・・名前があると、呼んであげやすくなるわよね?ゆうくん・・・・・ゆうちゃん?ふふ、もう私も遊び名を呼ばせられないわね」
「あ・・・・・」
(そうか、この人、ユウと呼ばれていたんだ)
夜の街では綾辻勇蔵という名前ではなく、《ユウ》という通り名で呼ばれていたらしい綾辻。しかし、子供が優希という名前にな
れば、その名前は使えないと笑いながら言っている。
いいのかな・・・・・と、倉橋は考える。父親と同じ名前で呼ばれるなんて、何だか少し滑稽な気もしてしまったが。
「・・・・・いいんですか?優希で」
「もちろん!じゃあ、看護師さん、うちの天使ちゃんはゆうちゃんでよろしく」
にっこりと笑う綾辻に、看護師達も笑いながらはいと答えてくれた。
倉橋はその会話を聞きながら、自分の赤ん坊が眠っていた保育器の方へ視線を向ける。
(優希・・・・・また、会いに来る)
こうして名前を呼べば、綾辻が言っていたようにさらなる愛情が込められるような気がして、倉橋は心の中で何度も何度もその名
前を呟いていた。
![]()
![]()
綾辻優希・・・・・ゆうちゃんです、よろしく(笑)。
次回は煩い自称祖父母のあの方達がいらっしゃいます。