くーちゃんママシリーズ
第一章 懐妊編 3
同じ区内にある一之瀬の親戚だという産婦人科の医師は、50代半ばの温厚そうな男だった。
さすがに女医だったらまた一悶着あるかもしれないと思った綾辻はそれだけでほっと安堵の息を漏らすと、わざわざ玄関まで出迎
えてくれたその医師に深く頭を下げた。
「突然に申し訳ありません。私の大切なパートナーですので、よろしくお願いします」
「・・・・・じゃあ、相手というのは、君かね?」
「私以外ありえません」
きっぱりと言い切る綾辻に、医者は一度その後ろに俯きがちに立つ倉橋に視線を向け、もう一度視線を綾辻に戻して言った。
「最初に聞いておくが、君達は肉体関係を持っているんだね?」
「はい」
隠す事などないと、綾辻は即座に頷く。
「最近は男でも出産するという例は僅かながら増えている。男だから妊娠など絶対していないとは今は言う時代じゃないんだ。
でも、それでも偏見というものが全く無いとは言えないからね。もし、子供が出来ていたとしたら、君達はちゃんと生んで育てる自
信はあるのかい?」
それはどちらに向かっての言葉なのだろうか。
幾ら先例があるとはいえ、今だ特異な例といってもいい男性体の妊娠を、倉橋が受け止めることが出来るのかどうかかもしれな
いし、世間の好奇の目を受けてもなお、産む決意をしてくれるのかどうか・・・・・綾辻は倉橋を振り返る。
そんな綾辻の戸惑いを感じ取ったのか、医師は初めにこれだけは言っておくからと言った。
「その自信がないのなら、堕胎することもきちんと考えていた方がいい。男女間の子供でも、全てが祝福されているとは言い難
い今だ、可哀想だからという漠然とした思いで産もうとは思わない方がいい」
「・・・・・はい」
厳しいが、綾辻はこれでこの医師が信頼出来る人物だと思った。
言い難いこともきっぱりと言ってくれ、それが男だからということで片付けていない事が嬉しかった。
「克己」
綾辻が躊躇っているだろう倉橋に声を掛けようとした時、それまで青褪めた顔色のまま何も言わずにいた倉橋は、数歩前に歩い
てきて医師に頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
「いいのかい?」
「・・・・・正直に言えば、私などに子が出来るとは、考えていませんでしたが・・・・・先生、私の直ぐ身近に、男同士で子を生ん
だ者がいるんです」
「ほう」
倉橋の言葉に、医師は驚いたように目を瞬かせた。
どうやらそのことは初耳らしく、綾辻は一之瀬がとうに海藤と真琴の話を聞かせていたのだろうと思っていただけに、思い掛けなく口
の堅い一之瀬に感心してしまった。
「彼らを見ていれば、男同士だからという不安はありません。むしろ、普通の夫婦よりも、強い絆を感じます」
「・・・・・」
海藤と真琴。あの2人にならば子供が出来ても当然だと思えた。お互いを深く愛し合い、温かい家庭に育ってきた真琴ならば
生まれた子供も海藤も愛していけるだろうと安心して見ることが出来た。
しかし、自分は少し違う。誰かを愛したことも無く、自分自身をも愛せなかった自分が、自分の生んだ子を愛せるだろうか。
考えれば考えるほど自信が無いし、怖くて仕方が無い。
それでも・・・・・。
「正直に言えば、本当に子供が出来たかどうか・・・・・はっきり知るのは怖いです」
「・・・・・」
「でも、もしも・・・・・もしも、本当に子供が出来ていたとしたら、私にはその子の命を奪う事など出来ません。私にはその資格は
ありませんし、子供には生きる権利があると思います」
「うん、分かった。君は立派にその子の親だ」
医師と倉橋が診察室に消えると、綾辻は一之瀬と待合室の椅子に座った。
「一緒に付いて行かなくていいんですか?」
「付いて行ったら、恥ずかしいって泣かれちゃうわよ」
「あ、そっか」
一之瀬は大学時代の倉橋を知っている。それ程親しくは無かったが、頭が良く、美人(?)な先輩は本人が自覚していないとこ
ろで人気もあった。
海藤と再会し、その関係で倉橋とも再び会うようになったが、学生時代機械の様に無感情だった彼と今の彼が同一人物とはと
ても思えなかった。
(まさか、ユウさんと付き合ってるなんて、な)
男同士だからという理由ではなく、倉橋が誰かと付き合っていること自体がとても信じられなかったのだ。
(それも、男同士のセックスってあそこを使うんだよな?潔癖症な倉橋先輩がそんなことを許すなんて・・・・・なあ)
「・・・・・って」
そんな事をうつらうつらと考えていた一之瀬は、意外に重い衝撃を後頭部に感じた。
「痛いですよ、ユウさん」
「変な想像してたでしょ」
「え〜、別にそんなに変なことは・・・・・」
「克己の肖像権は私が全部持ってるんだから、勝手に想像するのは却下。ほら、コーヒーでも買ってきて」
「はいはい」
近くの自販機に向かいながらチラッと視線を向けると、綾辻は内ポケットに手をやって・・・・・ふと気付いたようにその手を握り締め
ている。どうやら落ち着かない気分で煙草を吸おうとしたのだろうが、ここが病院という事に気付いたらしい。
(子供が出来ていたら、煙草も絶対に止めるだろうな、あの人)
人間嫌いというよりも、生きていることさえも苦痛そうだった倉橋を、あれ程人間らしく変えた男だ。どんなに深い愛情を注いでい
るのか、一之瀬はまるでその様が目に見えるようだった。
(子供・・・・・出来ていた方がいいのかな・・・・・)
待っている時間が苦痛だった。
今頃倉橋がどんな検査を受けているのか分からないが、繊細な神経の持ち主である倉橋が受ける衝撃の大きさを思えば、代わ
れるものならば代わりたいくらいだ。
そして・・・・・。
「おい」
先程2人が消えたドアが開いて、医師が顔を覗かせた。
「終わったぞ」
「ユウさん、終わったって」
「・・・・・ああ、分かってる」
自分では落ち着いて、覚悟もしているつもりだったが、立ち上がった自分の足が僅かに震えているのに気付いた。
(・・・・・情けないな)
こんな自分を見せたら、倉橋が余計に不安に思ってしまうかもしれない。綾辻はよしと自分に気合を入れると、軽く髪をかき上げ
て診察室へと向かった。
「・・・・・」
中に入ると、奥の椅子に倉橋が座っていた。
ワイシャツ姿で、ネクタイもしていないその姿は、何時もきっちりとした身支度をしている倉橋からすればかなり珍しい。
心細げな表情は、中に入ってきた綾辻の顔を見るなり、明らかにホッとした表情になった。
(可愛い・・・・・)
こんな時に考える事ではないかもしれないが、綾辻は思わず苦笑を漏らして倉橋の傍まで歩み寄ると、その肩に手を置いて出来
るだけ優しく言った。
「ご苦労様。結果は聞いた?」
「いえ・・・・・2人で聞いた方がいいと思いまして」
「・・・・・そうね」
2人の様子を見ていた医師が、倉橋の前の椅子に腰を下ろした。そして、直ぐ傍のテレビのモニターらしい物のスイッチを入れる。
そこには・・・・・。
「あ・・・・・」
思わず声を出したのは、綾辻だけではない。
倉橋も、そして一之瀬も思わず声を漏らして画面を食い入るように見つめた。
「先生、これ・・・・・」
「先程の超音波の画像をビデオに録ったんだ。おめでとう、間違いなく、赤ちゃんがいるよ」
「・・・・・」
「もう少し詳しい検査をして、男の妊娠期間も考えないといけないが、6・・・・・いや、8週目に入った頃かな。三ヶ月くらいという
とこか」
「三、ヶ月・・・・・」
「今日はまだ気分が落ち着かないようだから内診はしなかったけど、ちゃんと生むのならどうやって生むのかもきちんと考えなけれ
ばいけないし、避けられない事だからね?」
医師というよりも、身内の叔父が優しく諭すように言う言い方(意識してそうしてくれているのだろう)に、綾辻は内心ほっと安堵し
た。堅苦しい言葉では倉橋は余計に緊張するであろう。
そして、本当に倉橋の腹の中に自分の子がいると断言され、それまでの様々な思いは全て消えて、ただ嬉しい・・・・・それだけを
感じた。
(克己は・・・・・どう思ってる?)
目線の下にある倉橋の横顔は、先程の白さから変わって赤く紅潮していた。産婦人科の医師からの断言に、改めて倉橋がど
う思ったのか、まさか生みたくないと思っているのではないかと心配になる。
だからといって、何も考えず生んでくれというのは、多分自分の想像以上に大変な事だと思う男の出産を思えば軽々しく口には
出来ない。
誰もが、倉橋の反応を待つ。
そして・・・・・かなり長い沈黙の後、倉橋の薄い唇が少し開いた。
「・・・・・大丈夫でしょうか」
「克己?」
「私なんかの血を受け継いで・・・・・この子は大丈夫なんでしょうか・・・・・」
その疑問が、あまりにも寂しくて、綾辻はわざと明るい口調で言う。
「馬鹿ねえ。私と克己の子よ?スーパー美人で、カッコいいこと間違いないじゃない」
そう言って、綾辻は座っている倉橋の背中からギュウッと強く抱きしめた。
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ようやく、妊娠確定です。
次回は、海藤&マコちゃんにご報告。