くーちゃんママシリーズ





第一章  懐妊編   4







 海藤との間に出来た1人息子の貴央の着替えを根気強く見ていた真琴は、着替え終わってリビングにやってきた海藤を見上
げて言った。
 「話って・・・・・なんでしょうね」
 「何も言わなかったからな」
 「海藤さんだけにじゃなくて、俺にまで言っておかなくちゃいけないことって・・・・・」
 昨夜遅くに、海藤の携帯に掛かってきた綾辻からの電話。綾辻は明日の朝、つまり今日だが、マンションまで行って話があると
言ったらしい。真琴も一緒にという事で、ヤクザ関係の話ではないのだろうが、それでも彼が改まって話があるというのは初めて聞
くので、真琴は昨夜から落ち着かなかったのだ。
 「まこ!」
 そんな真琴の服の袖を引っ張って、貴央が元気良く真琴の名前を呼んだ。
当初はママと言っていたようだが、海藤を始め周りの者が皆名前で呼ぶので、どうやら貴央もそれを真似しているらしい。
少し困っている真琴だが、まだ言葉数の少ない貴央に制限する事もどうかと思い、今はとりあえずその呼び名を甘受していた。
 「あ、たかちゃん、1人で出来たんだ?えらいね〜」
 最近何でも自分1人でしたがる貴央は、着替えも同様に真琴の手を嫌がる。時間が掛かる上、まだまともに着ることは出来な
いのだが、真琴はよくやったと褒めてから、貴央の着替えを直していった。
 「片方のズボンに両足入れるなんて器用だね〜。たかちゃん、まだちっちゃいからブカブカなのかな」



 そんな真琴と貴央の姿に微笑みながらも、海藤は綾辻の用件というのをずっと考えていた。
昨日、体調の悪そうな倉橋に病院に行くことを勧め、綾辻が付き添って行ったと思うのだが・・・・・。
(もしかして、倉橋に何か・・・・・?)
 珍しく改まった口調だった綾辻。それは、倉橋のことだからかもしれない。もしかして容態があまり良くないものだったのかと思った
時、来訪を告げるインターホンが鳴った。
立ち上がろうとする真琴を制して海藤がカメラを覗く。下のロビーからではないのは、それがごく親しいものだという事だ。
 「・・・・・倉橋?」
 「え?」
 真琴が慌てるのも無理は無い。2人が来訪するのは午前10時頃だと言っていたが、今はまだ9時を少し回った位の時間だ。
 「片付けないとっ」
 「慌てるな」
真琴にそう言いながら、海藤は玄関へと向かった。
(どうして倉橋1人なんだ?)



 何時も以上に青白い倉橋の顔色を心配した真琴は声を掛けたが、倉橋は大丈夫ですと少しだけ笑みを浮かべて言った。
リビングのソファに海藤と倉橋、そして、貴央を抱いた真琴が座る。お茶を用意しようとすると、まず話をと言われたのだ。
 「倉橋、体調が悪いのか?」
 「え?」
 海藤の言葉に、真琴も心配そうに訊ねる。
 「倉橋さん、どこか・・・・・」
 「・・・・・いえ、昨日の検査では、特に悪い病気というものではありませんでした」
 「そうか」
倉橋は海藤に絶対嘘は言わないので、その点は本当だろう。しかし、それではこの顔色の悪さは何を示しているのか?
不安に思う真琴は、思わず膝に抱いた貴央をぎゅうっと抱きしめてしまった。
 「社長、今日は朝から申し訳ありません」
 「それはいいが、綾辻と一緒じゃなかったのか?」
 「・・・・・はい、これは、私の問題だと思いましたので」
 そう言うと、倉橋はソファから立ち上がり、いきなりラグの上に正座をする。
 「く、倉橋さんっ?」
突然のその行動に驚いた真琴の言葉に被せるように、倉橋は硬い口調で言った。
 「会長」
それは、真琴の前では滅多に言うことのない、ヤクザ組織での海藤の地位を指す言葉だ。
 「会長、私を除籍してください」
それだけを言うと、倉橋は額を床に付けるほどに頭を下げた。



 除籍・・・・・それは、「掟」違反を前提とせず、本人からの申し出によって、組織から脱退することを承認し、「除籍通知」を広く
各組織に送り発表するもので、制裁処分である破門、絶縁、除名とは異なる。
しかし、所属している組の長の許可が必要であったし、中には指を切り、その指を親分に差し出すこともあった。
 それ程に重大な事を、倉橋が何の理由も無く口にすることは無いと知っている海藤は、その理由を知りたかった。
 「理由は」
 「・・・・・一身上です」
 「この世界が嫌になったか?」
 「いいえっ、全て・・・・・全て私の、個人的な理由です」
倉橋は顔を上げないまま続けた。
 「検事時代、あなたに偶然再会して、自分を変えてみたくなって・・・・・この世界に飛び込みました。その後、あなたの事を知っ
て、真琴さんとも出会って、あなた方と、そして、貴央君を守りたいと思っていることも、今も・・・・・変わりません」
 「・・・・・」
 「ただ、今の私には・・・・・命を懸けてあなた方を守ることが出来ないかも・・・・・知れないので・・・・・」
 倉橋にいったい何があったのか、海藤も真琴も全く分からない状態だ。土下座したままの倉橋の表情は見ることも出来ない。
(いったい・・・・・)
海藤が眉を顰めた時、ドンドンと激しくドアが叩かれる音がした。
それにハッと顔を上げた倉橋の顔は真っ白で、海藤はその主が誰かと直ぐに見当がつく。
 「真琴、確認してから開けてやれ、多分綾辻だ」
 「会長!」
縋るようにそう言う倉橋に、海藤は真っ直ぐな眼差しを向けた。
 「お前がそう言った理由・・・・・綾辻にも聞く必要があるだろう」



 「社長には一緒に報告に行こう。今後の事を決めないと」

 昨夜、本当なら倉橋の側にずっといたかった綾辻だが、どうしても1人にしてくれという倉橋の言葉に折れた形で自分のマンショ
ンに帰った。
もしもという事は、考えないようにした。倉橋は自分の腹の中にいる子の命を奪うような人間ではないし、それ程弱い気持ちの持
ち主とは思っていなかった。
 それでもやはり心配な気持ちは消えず、時間よりも早めに倉橋のマンションに迎えに行くと、どんなにインターホンを鳴らしても倉
橋は出てこなかった。
携帯の電源も切られていることが分かった瞬間、綾辻は直ぐに海藤のマンションへと車を走らせる。どういった理由かははっきりし
ないが、倉橋は何かを考えて海藤のもとへ1人で出掛けたのだ。
(・・・・・ジャジャ馬めっ)
あれほど言ったのに、また1人で全てを背負い込もうとする倉橋の気持ちが寂しくて、憎らしかった。

 「あ、綾辻さんっ、今倉橋さんがっ!」
 ドアを開けた瞬間の真琴の顔を見て、綾辻は自分の考えが間違いではないことが分かった。
 「うん、分かってる」
真琴の頭を軽く撫でて笑みを向けた綾辻は、そのまま玄関を上がってリビングに向かった。
 「・・・・・」
 「綾辻」
 リビングには、綾辻が想像していなかった光景があった。
ソファに座っている海藤と、その側のラグの上に土下座をしている倉橋。海藤が理不尽な真似をさせるとは思わないので、これは
倉橋の独断でしていることだろうと綾辻は考えた。
 「遅れてすみません」
 「いや」
 「克己・・・・・倉橋は何と?」
 綾辻が倉橋を苗字で呼ぶのはかなり稀だ。その何時もと違う様子に、海藤は気付いたのかどうか、一瞬倉橋に視線を向けて
から口を開いた。
 「除籍を申し出てきた」
 「除籍?」
 綾辻は舌を打ちたい気分だった。倉橋がこんな覚悟をしたということは、それだけ自分に力が無いせいだ。悔しくて、握り締めた
拳が真っ白になったが・・・・・綾辻は顔を上げて海藤の前まで歩み寄ると、そのまま倉橋の隣に土下座した。
 「綾辻さんっ?」
リビングの入口に立つ真琴が驚いたように声を上げるのが分かる。
 「・・・・・会長、お願いがあります」
 「お前も、除籍か?」
 「いえ。・・・・・ここにいる倉橋と、所帯を持つことを許してください」
 「所帯?」
 「え?」
 「綾辻さんっ!」
 まるで悲鳴のような倉橋の声がして、自分の腕が鷲掴みに握られるのが分かるが、それでも倉橋の決意を待っていたらまたこん
な突拍子もないことを考えかねない。
開成会は、ヤクザという世間から疎まれる団体であるが、倉橋にとってどんなに大切なものか綾辻は知っている。除籍などになっ
たら、容易に海藤はおろか、真琴や貴央にも会うことが出来なくなるのだ。
(絶対に・・・・・それはさせられない・・・・・っ)
 綾辻は顔を上げ、真っ直ぐに海藤の目を見つめた。
 「倉橋の腹には子供がいます」
 「子供?・・・・・本当か、倉橋」
普段冷静な海藤もさすがに驚いたように目を見張ったが、海藤にとっては一番身近な存在、真琴が妊娠し、自分の子供を生
んだことも有り、男だから冗談だと笑い飛ばすこともなく倉橋に確認を取ったが、倉橋は顔を伏せたまま黙っている。
その倉橋にも伝えるように、綾辻は続けて言った。
 「もちろん、私の子です。どうか、倉橋と腹の子と、私達が家族になる許しを下さい」





                                   





綾辻さん、海藤さんの前でプロポーズ。

次回に続きます。