くーちゃんママシリーズ





第四章  子育て編   1







 午前10時。

大東組系開成会の事務所ビル前に車が一台止まる。運転席から降りてきた男が回って来て、後部座席のドアを開けると、そこ
から皺一つないスーツの足が出てきた。
 「・・・・・」
 中から降りてきたのは背の高い細身の男。フレームスの眼鏡が知的な面ざしをさらに冷たく見せるが、その姿には一つの違和
感があった。
スーツを着たしなやかな上半身に不似合いの物・・・・・スリーピーラップと言われる、伸縮性の高い一枚布で出来ている抱っこひ
も。その中にいる、小さな小さな赤ん坊に、男が切れ長の目を細めた優しい眼差しを向けた。

 「ああー」
 「どうした、優希(ゆうき)。今から仕事だ、大人しくしなさい」
 「あー」
 「・・・・・」
 偶然、前の道を通りかかったサラリーマン風の男が驚いたように視線を向けているが、それも無理が無いだろう。
どう見てもエリートサラリーマンか弁護士のように見える男が赤ん坊を抱いているのだ、いったい何事かと思ったはずだ。
しかし、どんな視線も気にすることなく、男・・・・・倉橋克己(くらはし かつみ)はそのままビルの中へとゆっくりと入っていった。






 開成会の幹部である倉橋は今年の夏、人生で一番大きな転機があった。それは、男の身でありながら子供を産むという未知
の体験をしたからだ。
恋人といった関係の相手、同じ開成会の幹部、綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)と男同士でありながら肉体関係があったが、そこ
にはもちろん生産的なものがあるわけではなく、赤ん坊など考えることは無かった。
 どうしてなのか、それこそ、運命の悪戯といっていい妊娠という現実は、生真面目な倉橋に様々な困惑と恐怖と、それ以上の
幸福を運んでくれ、なんとか無事、出産までこぎつけた。

 小さく、弱く生まれた赤ん坊はその後数カ月病院で過ごし、秋の気配が深まる頃にようやく退院出来たものの、冬という季節も
あり、小さな赤ん坊を連れて事務所に行くことも出来ず、倉橋はその後2カ月余り、ほとんどマンションから出ることが無かった。
 風邪をひかせてはならない。
バイ菌を近付けてはならない。
そして、こんな小さな赤ん坊連れでヤクザという生業は出来ない・・・・・そう思った。
 そのせいで、倉橋は一度、自分の上司、開成会の会長である海藤貴士(かいどう たかし)に破門してもらうように再度頼んだ
くらいだが、海藤は今まで休みなく働いてきた分、十分休んでから出てくるといいと言ってくれた。

 そして、正月には海藤の伴侶で、自らも男性体で子供を産んだ西原真琴(にしはら まこと)が、その子供である貴央(たかお)
を連れて遊びに来てくれ・・・・・。
 「抱っこしてもいいですか?」
 「ええ」
 さすがに慣れた手つきで赤ん坊を抱く真琴の姿に倉橋も笑みを誘われたが、
 「あっ」
いきなりベランダに出た真琴に思わず声を掛けてしまった。
 「真琴さんっ」
 「今日は天気もいいし、そんなに寒くもないですよ?」
 「で、ですがっ」
 「ゆうちゃんも、気持ちい〜よね〜?」
 「あぅ」
 真琴の言葉が分かるのか、優希は手足をバタバタさせて喜んでいる。
それまで、全く部屋から出さなかった倉橋は、その大きな反応に驚いていた。
(外になんか出して・・・・・いいのか?)
 各部屋に空気清浄機を置くくらいに埃にも神経を使い、自らの手も何度も消毒をして触れていたくらいだった。それが、こんな
風に無防備に外に出していいのかと不安になり、今にも真琴の手から優希を奪い取りそうになってしまう。
 しかし、真琴はそんな倉橋に向かって笑い掛けた。
 「大丈夫ですよ、倉橋さん」
 「・・・・・」
 「病院が退院してもいいですよって許可をくれたんだから、ゆうちゃんはちゃんと元気な赤ちゃんなんですよ?こうして外に出て太
陽を浴びせさせたり、風を当ててあげたり、もちろん無理は駄目だと思いますけど、普通にして大丈夫ですよ」
 「真琴さん・・・・・」
 優希よりも大きかったが、貴央も小さく生まれ、長く保育器で育った子供だ。
その貴央は今や自分の足で立ち、可愛らしく話し、今も、真琴の足にしがみつき、あかを見せろと駄々をこねている。
(貴央君も・・・・・こんなに大きく、ちゃんと育っているんだ・・・・・)
 倉橋は溜め息をつく。何だか張りつめた糸がぴんと切れたような気分だった。

 「ゆうちゃんもお外出たいわよね〜」

冗談のように言いながら、綾辻はそれでも無理に優希を外には出さなかった。倉橋が納得するまで待ってくれていたのだろうが、
二カ月近くもそれが続き、子育ての先輩である真琴に助言を頼んだのかもしれない。
 結果的に、それから少しずつ優希をベランダに出すことが出来、ある日倉橋は帰宅した綾辻に言った。
 「私も、復帰したいと思うんですが」

 優希を過保護過ぎにしないこと。
それを決めた倉橋の行動は早かった。先ずはメールなどで仕事を始め、どうにか勘を取り戻すと、今度は実際に事務所に向かう
ことを考え始めた。
 しかし、そこでネックになったのが優希のことだ。
真琴はまだ社会人ではないのでずっとマンションにいられたが、倉橋はそうはいかない。しかし、まだ赤ん坊で、しかも普通よりは
少しだけ成長の遅い我が子を保育所にやることは心配だった。
 また、ベビーシッターを頼むというのも、自分と綾辻の関係や仕事も特殊なだけに、よほど信頼のおける、口の堅い者を考えると
なかなか条件に合った者がいない。
どうしようかと悩む倉橋に、綾辻がこともなげに言った。
 「そんなの、一緒に連れて行ったらいいじゃない。克己が忙しい時、子守なら結構な数いるし」

 ヤクザの事務所に子連れで出勤する。
それこそあり得ないと思ったが、綾辻は早々に海藤の了承を取り、事務所の中に託児スペースを作ってしまった。
 これで安心でしょうと写真を見せられて説明を受けた倉橋は、やはり止めますとはとても言えず、何より生き甲斐だった仕事に
復帰したいという気持ちも大きくて、何日も悩んだが・・・・・。
 「克己?」
 「・・・・・一緒に、いいですか?」
 ある日、マンションを出ようとした綾辻にそう声を掛けた倉橋は、綾辻が買ったスリーピーラップを身にまとい、そこに大切に優希
を抱いていた。






 「おはようっ・・・・・ございます」
 倉橋の姿に大きな声で挨拶をし掛けた組員は、その腕の中を見て直ぐに声を顰めた。
 「おはよう」
その反応に少しだけ口元を緩めた倉橋は、そのまま自分のオフィスへと向かう。
中にはシックなベビーベッドが置かれ、もちろん空気清浄機も完備している。自分の親の立場を理解しているのか、仕事をしてい
る間優希がむずかることはほとんどないので、倉橋は集中して仕事をすることが出来た。

 「ああ〜、あ〜」
 「ん?」
 しばらく集中してパソコンを睨んでいた倉橋は、その泣き声に顔を上げて時計を見た。時刻はそろそろ正午になろうとしている。
 「本当に、正確な時計みたいだな」
そろそろミルクの時間だと椅子から立ち上がると、軽くドアがノックされて中に海藤が入ってきた。
 「あっ」
 「丁度、泣き声が聞こえてな」
 そう言った海藤はベビーベッドの中を覗き込み、そのまま泣いている優希を抱き上げる。貴央を育ててきたせいかその抱き方は
とても慣れていて、まるで絵のようにしっくり見えた。
 「申し訳ありません」
 本来、ここではあり得ない光景。それを許してくれている海藤にはどんなに感謝してもし足りないほどだ。
 「そんなことはいいから、早くミルクの用意をしてやってくれ」
 「はい」
倉橋は一礼して部屋を出ようとする。ドアを閉める瞬間にふと見た部屋の中では、海藤が穏やかな表情で優希をあやしてくれて
いた。



 キッチンに向かった倉橋はミルクを作り始める。
すると、

 トントン

軽くノックする音がして、ミルクを入れようとした倉橋の手が握られた。
 「・・・・・忙しいんです」
 自分にそんなことをする相手は1人で、倉橋は思わず怒ったように言うと、その手の持ち主・・・・・綾辻は、だってえと甘えたよう
に訴えてきた。
 「ゆうちゃんは社長があやしてるし、私はママのお手伝いをしようかなって」
 「ママというのは止めて下さいって言ったでしょう」
 いくら優希を産んだのは自分でも、男である自分にママという単語は違和感あり過ぎる。何度もそう言うのに綾辻はからかうよう
に言うので、一度ちゃんと言わなければと思っていたくらいだった。
 「私が嫌がることは止めてくれますよね?」
 「もちろん、嫌がることはしたくないんだけど〜」
 「・・・・・けど?」
 「ゆうちゃんにとって、産んだ克己がママっていうのは事実でしょう?それとも、私みたいに克己って呼ばせる?」
 「・・・・・」
それもどうかと、倉橋は眉を顰めた。



(悩んでるわね〜)
 ママか、克己か。
どう呼ばせるか真剣に悩んでいる倉橋を見て、綾辻は漏れそうになる笑みを押し殺していた。優希が言葉でそう呼ぶようになるま
でまだしばらく先だというのに、今から真剣に悩んでいる倉橋が可愛い。
 「・・・・・困りますね」
 「でしょう?」
 悩むせいで手が止まった倉橋から哺乳瓶をあっさりと取ってしまった綾辻は、さっさとミルクを作り始める。マンションでも手伝っ
ているので手付きも全く危なげない。
 水で冷やし、人肌になっているのを確かめていると、倉橋があっと声を出した。
 「すみません」
 「ぜ〜んぜん」
そう言うと滴を拭い、反対の手で倉橋の腰を抱く。
 「ほら、行きましょう。何時までも社長に子守をさせておくのも悪いし」
 そこで、倉橋は海藤のことを思いだしたらしい。早く行かなければと慌ててキッチンを出て行くが、哺乳瓶は自分が持っているこ
とを忘れているのではないか。
(最近、ちょっと抜けてきたみたい)
優希のことを考えると、倉橋は他のことが目に入らなくなることがたびたびある。今までの完璧主義な倉橋からすればそれがいい
ことか悪いことなのか分からないが、親バカなそんな所もいいんじゃないかと綾辻は思う。
 「私も、早く行かないと」
倉橋を何度も行き来させては可哀想だなと、綾辻も倉橋のオフィスへと足を向けた。





                                   





四章開始です。
今回は少しずつ時間を経て行く形にしようと思っています。
先ずは、まだ赤ちゃんの頃をしばらくお楽しみください。