くーちゃんママシリーズ





第四章  子育て編   2







 倉橋は書類にサインをし、会社の印鑑を押すと、目の前の中年の男に静かな笑みを向けた。
 「これで契約は完了ですね」
 「ああ、ありがとうございます」
都内の不動産屋である男は人の良い表情で倉橋を見るものの、それが男の本質ではないだろうというのは倉橋も十分分かっ
ていた。
 そもそも、いくら法的にきちんと手続きをしているこの会社でも、その後ろにヤクザの組が関わっていることは調べれば分かる。
それでもなお取引しようというのだ、相手も一筋縄ではいかないだろうと、倉橋は念のために一言付け加えることにした。
 「そちらも、色々とご心配かもしれませんが、こうして正式に書面を交わしたということは私達を信頼して頂けたのだと思います。
もちろん、私達も合法な仕事をしているのですし、そちらが気持ちの良い取引をしていただける限り、安心していただいて宜しい
ですよ」
 男の笑みが僅かに引き攣ったように見えたが、倉橋は当然のごとく見えなかったふりをする。
そして、
 「・・・・・」
部屋の時計を見上げて立ち上がった。
 「あ、あの?」
 「申し訳ありません、次がありますので」
 「あ、ああ、そうですね、お忙しいでしょうし」
 仕事の約束があるのだろうと納得した男が立ちあがると、倉橋はいいえと否定する。
 「ミルクの時間ですので」
 「・・・・・ミ、ルク、ですか?」
 「小さい頃は時間も守ってやらないと。意外に大変ですね、子育ては」
倉橋としてはごく当たり前のことを言ったのだが、男はどう反応していいのか分からないような表情を浮かべることしか出来ないら
しい。
 「お送りしますよ」
しかし、フォローまでは義務ではないと、倉橋は先に歩いて部屋のドアを開いた。



 客を送ると、倉橋は直ぐに1階にある事務所へと足を向けた。
ドアを開ける前から外に漏れ聞こえている楽しそうな笑い声。どうやら機嫌は良いらしい。
 「・・・・・」
 倉橋がドアを開けると、
 「お疲れ様ですっ」
 「お疲れ様ですっ」
中にいた数人の組員がいっせいにそう言って立ち上がり、頭を下げてきた。それに軽く頷いた倉橋は、男達の真ん中にある机の
上に置かれてある籠に眼差しを向ける。
 「優希」
 「あ〜」
 自分の声が分かるのだろうか、嬉しそうな声を上げて優希は小さな手を揺らし始めた。
見なかったのは商談中の二時間ほど。それなのに、もう少しだけ成長しているように思うのは親バカだということか。
(まさか、自分がそんな存在になるとはな)
 そう思いながらも、倉橋は指を差し出す。すると、小さな指先がギュッと掴んできた。
まだまだ意思表示は少ないものの、こういう些細な仕草がとても嬉しくて、倉橋は思わず目を細めて笑った。



 優希という子供を産むまで、倉橋の印象といえば人形のように無表情で、全く融通が利かない、厳しい幹部というものだった。
しかし、子供が出来てから、本人は表には出さないようにしているが、今まで隠していた優しさや思いやりが言葉や仕草の端々
に出て来るようになった。
 特に、今のように子供と接する時の表情など、これまで見た事が無いような優しい顔をする。始めは見慣れない表情に戸惑っ
ていた組員達も、今ではそんな倉橋を見るのが楽しみになってきて、子守をかって出る者は多い。
 「手を煩わせなかったか?」
 「全然!ゆうちゃん、すっごく大人しいですよ!」
 「よく笑ってくれますし!」
 「いい子です!」
 口々に自分達がそう言えば、倉橋はますます嬉しそうな表情になった。
けしてお世辞でも何でもなく、実際に優希はとても手を取らすような赤ん坊ではなく、倉橋がどうしても出掛けなければならない
時や来客の時など、代わって面倒をみる組員にも例外なく懐いてくれ、滅多に泣くことは無い。そんな社交性は父親である綾
辻に似たのだろうと組員達は噂し合っていた。
 「そうか、いい子だったか・・・・・偉いな、優希」
 倉橋はそう言いながら優希を抱き上げる。
スーツを着、どこからどう見てもデキる男にしか見えない倉橋だが、こうしていると本当に柔らかな表情で、全く違和感ない光景
に見えてしまう。
 組員達は間近で見れる倉橋のその表情に、自分達も温かな気持ちになりながら、今日の事務所当番で本当によかったなと
しみじみ感じていた。



 「今日は、八木(やぎ)がいたから、余計に機嫌が良かったですよ」
 「ああ、そういえばそうだな」
 八木は、まだ20歳になったばかりの、構成員の中でも若い男だった。
街中でブラブラとしていて、チンピラに絡まれていた所を偶然綾辻に助けてもらい、そのまま拾われて開成会へとやってきた。
当初、若過ぎる八木をまともな生活に戻してやろうとしていた倉橋だったが、綾辻に心酔している八木は頑として首を縦には振
らず、そのままもう1年が過ぎてしまった。
 「子供は子供が好きなんでしょう」
 1人の組員がからかうように言うと、八木はまだ童顔の顔を真っ赤にしながら反論する。
 「滝さん!」
茶髪にピアスという、綾辻の影響を強く受けたいでたちだが、それが嫌味なく似合っている綾辻とは少し違い、八木のそれは少し
だけ軽い感じがした。
そう感じているのが自分の綾辻に対する欲目だとは全く気付かないまま、倉橋は目の前で言い合っている組員達の話を興味深
く聞く。
 「違うか?」
 「俺はガ、子供じゃないです!」
 「お前、今ガキって言いそうになったろ?」
 「言ってないですよ!ちゃんと、子供って言いました!」
その言い方こそが子供だろうと思えたし、他の組員達は八木の反応を面白がっているのだろうと倉橋は分かっていたが、ここは八
木の名誉のためにと一言声をかけてやることにした。
 「そうだ、優希は八木が子供だから懐いているんではないだろう。八木を気に入っているんだ・・・・・そうだろう?」
 「く、倉橋幹部」
 「子守をさせて悪かった。仕事に戻ってくれ」
 この後は人と会う約束も会議も無いので、優希を自分の部屋でみよう。そう思って言った倉橋の言葉に皆が同意し、今話題
に上がっていた八木が、優希の寝かされていた籠を手に持って後をついてきた。



 それから一時間もしないうちに、海藤について出掛けていた綾辻が戻ってきた。
 「ただいまあ〜」
珍しく、直ぐに倉橋の部屋に向かわなかった綾辻は、事務所にいた組員達に土産と称してケーキを渡した。強面の者が多いが、
それに比例するように甘党の者も多いのだ。
 「今日のゆうちゃん、どうだった?」
 倉橋のスケジュールまで完璧に把握している綾辻は、今日彼が数時間客に会うことも分かっていた。当然のごとく、その間は組
員達が優希の世話をしなければならず、綾辻は迷惑を掛けなかったかと訊ねたのだ。
 「相変わらず、可愛かったですよ」
 「今日も良く笑ってくれたしな」
 「子守っていうほど、俺達何もしてません」
 「ふふ、それなら良かった」
 自分達の我が儘のために、優希というイレギュラーな存在を受け入れてくれている組員達に本当に感謝するという思いで綾辻
は笑った。
 こんな現状を他の組の者に知られたら笑いものになってしまうかもしれないが、綾辻や倉橋は気にしないし、この組の長である
海藤もそんな細かなことに左右される男ではなかった。
 「じゃあ、今日の克己は?」
 「倉橋幹部、ですか?」
 「ええ」
 「えっと・・・・・相変わらずでしたが」
 「相変わらず、可愛かった?」
 そんな風に倉橋を称することなど綾辻にしか出来ないだろうが、組員達は口々に綺麗でした、可愛い笑顔でしたと言っている。
もちろん、その答えは嬉しいものだが、少しだけ面白くないと思ったのは事実だ。
(また克己、信者増やしたんじゃないでしょうね)
 普段は組員達に厳しい倉橋も、優希が側にいればその表情は一変してしまう。こちらがドキドキするような笑顔を浮かべ、それ
を組員達が見ていたのだろうと思うと、その時間その場にいなかったことが悔やまれた。
 「克己に惚れちゃだめよ?あれは私のなんだから」
 「あ、当たり前ですよ!綾辻幹部の大切な人に手なんか出しませんって!」
 「子供だっているんだし!」
 「ありがと、分かってくれて嬉しいわ」
 自分達にとって一番良い環境であると改めて現状を再認識した綾辻は、そのまま事務所を出て、愛しい伴侶と我が子の待つ
部屋へと急いで向かった。

 「ただいま〜、パパのお帰りよ〜」
 ドアを開けるなりハイテンションでそう言ったものの、綾辻はさらに続きそうになる言葉を止めた。
それは、優希を抱いた倉橋が、人差し指を口に当てて黙るようにという仕草をしたからだ。どうやら、優希は昼寝(ほとんど眠って
いるようなものだが)の時間らしい。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 綾辻はドアに背を預けたまま、しばらく倉橋と優希の姿を見つめていた。
何時もは眼鏡越しに怜悧な視線を向けてくる倉橋だが、優希に向けられる眼差しは慈愛に満ちたもので、とても同一人物とは
思えなかった。
 いや、本来倉橋の中にあったものが、表面に出てきたと言った方がいいかもしれない。
ヤクザにしておくには、真面目で、純粋で、傷付きやすい倉橋。その素の性格が、優希を抱いている時は顕著に表に表れる。
 本人はそれを必死に隠そうとしているが、綾辻は別にそのままでもいいんじゃないかとさえ思っていた。

 優希をベビーベッドに寝かせた倉橋は、先ほどとは全く違う冷たい眼差しを向けてきた。
 「・・・・・仕事は済んだんですか?」
 「当たり前よ。この私に抜かりがあるはずないじゃない」
 「意識的に手を抜くことはありますけどね」
 「も〜っ、克己ったら照れちゃって」
 自分がこの場にいることを倉橋が喜び、安堵しているということを綾辻は知っている。
いくら海藤をはじめ組員達が優希の存在を認めてくれているとしても、共犯者・・・・・優希の父親である自分が側にいるのといな
いのとでは随分精神衛生上違うらしい。
 それでも口では強がりを言う倉橋が可愛かった。
 「寝ちゃったのね」
 「起こさないで下さいよ。さっきまで下の者が面倒見てくれていて、遊び疲れたようなので」
 「も〜っ、パパ以外に可愛い顔見せちゃったのね。あいつらの網膜奪っちゃおうかしら」
 「・・・・・冗談でも、そういう言い方は止めてください」
 「ふふ。気持ち的には本気なんだけど」
息子である優希にさえこんな独占欲を感じているのだ、もしも娘だったら・・・・・。
(側にいる奴らのあれ、全部切り落とさせちゃうかも)
ただし、これを言ったらそれこそ倉橋が怒るのは目に見えているので、綾辻は曖昧な笑みを浮かべたまま、眠っている優希の顔を
覗き込んだ。
 「何だか、見ていない間分、おっきくなってる気がしちゃうわ」
 「・・・・・」
 「克己?」
 「・・・・・私も、同じことを思いました」
 「あら、夫婦、似たこと考えちゃうのね」
そう言った後、綾辻の頭上に倉橋の拳が落ちてきたのを見た者はいなかった。





                                   





開成会の日常。
次回はマコ&たかちゃん登場です。